酒と宴と妖魔と 作:四面楚歌 投稿日時:05/9/5
なぜ、こんなことになったのやら。
四面楚歌はため息をつきつつ家路を急いでいた。
季節は春だが、夜風は寒がりの楚歌にはまだ厳しい。
だが今彼が急いでいる理由は、それとは別にあった。
「……すぅ……」
頬に触れる寝息と髪の感触が、現在の状況を嫌というほどに教えてくれる。
服越しに背中に伝わる、やけに高い体温も悩みの種だ。
心臓に悪い。
「はあ……」
自分を落ち着かせるための意味合いも込めて、疲労感たっぷりのため息をつく。
楚歌が今直面しているのは、彼の短いこれまでの人生の中でも五指に入ると思われる危機的状況だ。
背負っている人物がずり落ちないように、その脚を手で支えなければならない。
さらに、“彼女”の腕が楚歌の首に絡められるようにして胸の前に回されている。
まずい。 非常にまずい。
「うー……」
呻きを喉の奥から漏らしつつ、人通りのない夜道を早足で歩く。
こんなところを誰かに見られでもしたら、色々と面倒なことになりかねない。
外見は至って特徴のない少年が、かなり目立つ銀髪の少女を背負って夜道を歩いている。
ある意味危険な香りが漂うシチュエーションだ。
「……はああ……」
またため息を、今度は深く深くついた。
高架橋の上を走っていく電車が立てる音が、遠くから微かに聞こえてくる。
「……楚歌……」
背中の荷物がわずかに身動きし、小さな声をあげた。
「起きた? じゃ、自分で歩いてくれないかな」
「…………んー……」
妙に楽しそうな声で、楚歌の頬に頬擦りをしてくる。
(……駄目だこりゃ……)
顔をしかめると彼は再び歩き出した。
寝ぼけていただけらしく、少女はまた規則的な寝息を立て始める。
(やっぱり酒は魔物だな……。 飲んでも呑まれるな、とはよく言ったもんだよ……)
本日何度目かわからないため息をつくと、楚歌は今日一日を思い返した。
2005年4月上旬某日。
桜の香りの風が吹くそんな日の夕方、四面楚歌のもとを訪ねてきた人物がいた。
正確に言えばその訪問客は人間ではないのだが、それは些細なことである。
「っ、と……」
玄関の呼び鈴が鳴り続けるのを聞き、楚歌は慌てて椅子から立ち上がった。
何かのセールスなら居留守を使おうかと思ったのだが、こうもしつこく連続で鳴らすような相手は一人しかいない。
半ば走るようにして戸口まで行き、ノブを回してドアを開ける。
その向こうから、おそらくドアを破るつもりで繰り出されたのであろう拳の一撃が飛んできた。
「っぶ!?」
回避する間もなく、顔の真ん中に衝撃を受けて楚歌は後方に飛ばされる。
フローリングの床に腰をしたたかに打ち、そのまま数メートル滑って壁にぶつかり、ようやく止まった。
「ったく……。 もう少し早く開けなさいよー!」
拳の主の、若い女性のものと思われる声が楚歌の耳を打つ。
痛い。
涙で視界がぼやける。
それでも奇跡的に鼻骨は折れなかったらしい。
「おーい、大丈夫か?」
ずかずかと上がりこむ女性の後ろから、今度は男のものであろう声がかかった。
楚歌は鼻を押さえながら、姿の見えない声の主に応える。
「……生きてます……。 痛いですけど」
「殴られれば痛いのは当たり前でしょ。 死ななかっただけマシじゃん」
誰のせいだよ。
心の中でそう叫びつつ、楚歌は立ち上がった。 その動作の間に、二人の訪問者は部屋に入ってきている。
「元気そうだな」
「ええ……お久しぶりです。 点睛さん、彪さん」
画龍点睛の外見は20代前半の若者である。
やや長めに伸ばされた濃い青色の髪は後ろで束ねられ、その中には染色かそうでないのか、部分的に白髪が混じっている。
身長は楚歌よりは高いが、それでもせいぜい170センチ程度だ。
顔立ちは『精悍』や『武骨』といった言葉からは程遠いが、俗に言う『イケメン』風な優男でもない。
体つきも、どちらかというと小柄で細身である。 強いて言うなら、少々童顔で目尻がやや吊り上がっているのが特徴だろうか。
それでも普段の人当たりのよさのおかげで、大抵の相手は好印象を受ける。
その前に立つ藤堂彪もまた、外見年齢は20代前半だ。
身長も目線も、肩の高さも点睛とほとんど変わらない。 女性にしては長身と言っていいかもしれない。
外に跳ねるようにくせっ毛になっている短髪は真っ白で、何のつもりかところどころに黒のメッシュが入っている。
瞳が大きく、可愛らしい顔立ちだが、点睛以上に吊り上がった眦がそれを台無しにしていた。
凛々しい、というよりは危ない印象を他者に与えることが多いようだが、本人は気にしていない。
そしてそんな印象とは裏腹に、子供っぽい思考回路の持ち主でもあった。
「あ……お茶でも出しましょうか」
「ねえ! なに、今の音?」
楚歌が言った時、別の部屋に繋がるドアが開き、一人の少女が顔を出した。
光を反射して輝く長い銀髪を背に流し、黒の袖なしワンピースともキャミソールともつかない服を着ている。
「リア……。 いや、何でもないよ」
「……そう……。 ――で、誰?」
銀髪の少女――リアの赤い瞳が二人の訪問者に向けられる。
楚歌がわずかに二人に視線を走らせると、点睛はさっきまでと同じ姿勢で立っており、彪はソファーに腰かけていた。 手に持っていた袋から缶ビールを取り出し、プルトップを開けて飲み始める。
楚歌はこのとき、点睛と彪が近所のスーパーのビニール袋をぶら下げていることに気づいた。
それらからは、缶に入った酒、野菜、パック入りの肉や魚などが見え隠れしている。
「あー……っと……リア、このヒトは点睛さんっていって、俺の友人……でいいのかな。
で、ビール飲んでるのが彪さん。 点睛さんの同僚さんだよ」
「どーもー」
彪がビールを飲みながらひらひらと手を振る。
「……や、よろしく。 ……楚歌、この子が――」
「ええ、まあ、例の……」
リアに小さく会釈した点睛が楚歌に声をかける。
楚歌はその時までリアの方を向いていたため、一瞬前までの点睛の顔に浮かんでいた驚愕の表情に気づかなかった。
点睛はいつも通りの、人の良さそうな、それでいてどこか軽薄な笑みを浮かべて言った。
「なるほどね……。 ――夫婦仲良くな!」
「……――え!?」
数秒間、その場の空気が、他のもの全てを無視して流れたように楚歌には思えた。
喉の奥から絞るように声を出す。
「ん? お前ら、そういう仲じゃなかったか?」
「ちょっ……なんでそうなるんですか!」
「だってお前、命賭けたんだろ? 彼女を人間にするために」
「そりゃ……そう言いましたけどっ……」
昨年の秋、霊魂という存在だったリアをこの世の確固たる一者として転生させるために、楚歌は一大計画を実行した。
それは“錬成術”――またの名を“練金術”の禁忌として過去誰一人として成しえたことのない“人体練成”を成功させるために、“黒魔術”と呼ばれる秘術の内の一つ、“悪魔召喚”を複合させるという無謀なものであった。
結果、それは成功し、楚歌はリアの魂を新たな肉体に定着させることに成功した。
その代償――かどうかは今でも定かではないが、楚歌はその二つの術を二度と使えなくなったのである。
あの時何が起こったのか、楚歌は断片的にしか憶えていない。
練成反応の光と空気の渦に呑み込まれたかと思うと、次の瞬間には何者かの手に頭を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。
気がついた時には、彼の仲間であり家族であるポケモンたちが心配そうに覗き込んでいた。
今となっては詳しいことはわからない。 もう過去の話、とそれは楚歌の中で完結してしまっている。 そんな出来事だった。
「そ、それより、今日はどうしたんですか!」
声を張り上げた。
ちらりと横目でリアを見ると、頬を赤く染めて俯いている。
「ああ、そうだった。 お前ら、今日の晩飯、一緒にどうだ?」
「……はい?」
突然の誘いに間抜けな声を出してしまう。
「いや、特に理由はねぇけど……」
点睛は言葉を濁して頭を掻いた。 しかし、次の瞬間にはいつもの口調に戻って言う。
「なんだ、親友の息子さんに飯をご馳走するのに理由が要るのか?」
「あ、いや、そういうわけじゃ……」
聞いた話でしかないが、楚歌の両親と点睛は古くからの友人らしい。
楚歌の両親の年齢は40代後半なのに対して点睛は20代にしか見えないというのは奇妙だが、それらのことについてはまた次の機会に述べよう。
楚歌は時計を確認した。 現在の時刻は午後5時39分。 そろそろ夕食の支度時だ。
厚意に甘えるのも悪くはないだろうが、自分とポケモンたち、それにリアも含めるとかなりの人数――厳密に言うと大半は“人間”ではないが――になってしまう。
ましてや彼らはかなりの大食漢だ。 非常に心配である。
「……みんなと相談してきます。 少し時間ください」
「おう!」
楚歌はリアを連れて部屋を出た。
午後5時51分。 ようやく話はついた。
料理当番を務めるカポエラーのジンは、リアが楚歌たちと外出することに最後まで反対していたが、今は楚歌の実家にいるポケモンたちを呼んでもいいことにすると渋々承諾してくれた。
女っ気がない所にいるのが嫌だからだろうな、と楚歌は彼の心情を察して苦笑する。
ニドキングのラックは口では残念そうに言いながらも、その目は笑っていた。
根は真面目だが普段は陽気で愉快犯な彼は、楚歌とリアの仲がどうなるかに若干の興味を持っているのである。
口は悪いが心配性なザングースのシュライヤは、頬を掻きながら『気をつけろよ? いろいろと』とだけ言った。
トロピウスのバビロンと黒いニドキングのゼファーはずっと興味なさそうにしており、一言も言葉を発することはなかった。
そして楚歌は少し離れた所に位置する実家に電話をかけ、サーナイトのタリスやバクフーンのブラストといった残りの仲間たちに事情を説明した後でようやく玄関を出たのであった。
「……お待たせしました」
「おう、じゃ、行こうぜ!」
靴をつっかけながら出てくる楚歌を一瞥し、点睛は先に立って道を歩き出した。 彪はというと、そのさらに先をさっさと行ってしまっている。
楚歌は靴に踵を押し込み、点睛の後を追った。 黒のロングコートに身を包んだリアが、小走りで横に並ぶ。
「ふふっ……」
小さな笑いがリアの口から漏れる。 声に出して笑うということは、何かしら言ってほしいのだろう。
いちいち構っていては精神的に疲れてしまうが、かといって女性相手に冷淡にするのは楚歌の主義に合わない。
(やれやれ……)
内心で自分を笑いつつ、前を向いたまま声を発する。
「……やけに嬉しそうだね?」
「ん? だってさ……」
悪戯っぽい笑みを浮かべ、彼女は楚歌の腕を掴んでくる。
「なんだか、ダブルデートっぽい感じじゃん! ね?」
楚歌はがっくりと首を前に倒した。 小さくため息をつく。
「……あー……はいはい、そうかもしれないね」
無視してもいいのだがわざわざ返事をしてしまう自分も情けない、と思う。
彼女も根は繊細で深慮なのだが、どういうわけか普段の言動はとても幼い。
たとえ幽霊だったとしてもこの世を見てきた時間は自分より長いのだろうから、もう少し周囲を気にしてくれてもいいのに。 楚歌の思考は続く。
それでいてこの現状をあまり嫌がっていない自分に気づき、さらにうんざりしてしまう楚歌であった。
数歩先を歩きながら、点睛は背後で展開される会話を聞いていた。
(名前と……顔だけじゃなくて、声もそっくりかよ……。 どうなってんだ、こりゃあ……)
以前に楚歌からその名を聞いたときは偶然の一致としか思わなかったが、姿を目にした時は心底驚いた。
(……死んだはずだろ、間違いなく……。 20年近くも前に……)
よく似ている。 髪の色や性格は全然違うが、瞳の色や目鼻立ち、声は瓜二つだ。
(なんであんなに似てんだよ……)
ただの偶然と切り捨てることはできるが、あり得ない話でもないかもしれない。
彼女は人間だった頃があるらしいと楚歌も言っていたし、死んだあいつが幽霊としてこの世を彷徨っていて楚歌と巡り会ったとしても不思議ではない――はずだ。
もっとも、確かめることはできそうにない。 楚歌いわく、彼女は生前のことをまったく憶えていないという。
――確かめることができたとして、それがどうなるというのか。
わからないことはつらいが、知ってしまえばなおつらい。
「……龍くーん? どうしたのー?」
「――!」
前方から呼ぶ彪の大声に、点睛は現実に引き戻された。
いつの間にか30メートルほど距離をつけられていたが、驚異的な視力を持つ彪には自分の表情がしっかり見えていたのだろう。
答えの見つからない問いに考えを巡らせる、苦悩の表情が。
「……なんでもない!」
押し殺した声で叫ぶ、という器用な返事をした。 聴覚も人間の比ではない彪なら、これで聞こえたはずだ。
「…………りゅうくん?」
楚歌の不思議そうな声に、振り返る。
「あー…………名前がいくつもあるって変か?」
「いえ、別に。 でも、なんでですか?」
「んー……ま、話してもいいかな。 ……でも今は、あいつに追いつくのが先だ!」
言って、点睛は足を速めた。 その後を楚歌とリアが追う。
夕の空に一番星が瞬き始めていた。
目的地に着くまでに、点睛と様々な話をした。
彼はこの国では『天崎龍牙』の名を名乗っていること。 『画龍点睛』の名は故郷の国で使っていた名前で、それも本名ではないこと。
彼ら“人外の者”は、自分の名前は自分でつけたり、外見の特徴から呼ばれたあだ名をそのまま使ったりすること。 彼が勤務しているのは、そんな連中が集まった警察内の特殊な部署であること。
彪は終始無言で、たまに後ろを振り返りはするものの、会話には参加しなかった。
リアは楚歌の腕にしがみつきながら、点睛の話に興味深げに頷いている。
そんな彼らと彼女らが今、街の裏通りに位置する一つの建物の前に到着した。
時刻は午後6時18分。
「……ここですか?」
それは、普通の三階建てのビルに見えた。
「ああ。 ……ボロいとこだろ?」
楚歌と点睛の会話にも反応を示すことなくドアを開けると、彪はさっさと中に入っていく。
扉の向こうは玄関になっており、その先には二階に続く階段があった。
靴を脱いでスリッパに履き替える。 彪を先頭に四人は階段を上り、廊下を歩いて右側にある扉の前に立った。
「ただいまー!」
彪が言いながら、ドアノブを回して中に入っていく。
点睛はドアの横に立ち、楚歌とリアに先に入るように促した。
「ようこそ、『妖魔の巣』へ!」
皮肉っぽい笑みを込めた点睛の声を背後に部屋の中へ入りざま、とりあえず挨拶代わりの一言を発する。
「……お邪魔します……」
「お邪魔しまーす」
緊張している楚歌とは対照的に、リアの声は明るい。
自分が緊張しているのは、会ったことのないヒトたちと会おうとしているからだ。 決して、人ならぬ異種族の者たちと会うからではない。
楚歌は胸中で、誰に対してかもわからない無自覚の言い訳をした。
そこは広いフローリングの部屋だった。
部屋の真ん中にはスチール製の机が四つ、密接して置かれている。 それらの上は、分厚い本や筆記用具、CDラジカセやMDプレーヤー、さらには市販の菓子の袋や箱などで雑然としていた。
少し奥にはソファーが二つ、プラスチック製の卓袱台のような机を挟んで向かい合うように設置されている。
そのソファーに腰かけていた人物が、読んでいた本から顔を上げた。
「……戻ったか」
「ただいま、朱さん」
彪はにこやかに言うと、おそらくは台所だと思われる別の部屋へと入っていく。
あけさん、と呼ばれたその女性は、どこか不遜な態度で楚歌とリアを見た。
「……龍牙。 何だ、そいつらは」
「前に言ったと思うけど、俺の人間の親友の息子。 で、この子は、こいつのガールフレンド」
点睛は二人の肩をぽんぽん叩きながら紹介した。
楚歌は恥ずかしく思いつつ、自分たちを見ている女性を見返す。
風真朱羽は、着流しのようにも見える和風な服の袖に通した腕を組み、見慣れない二人組を凝視した。
彼女は点睛や彪よりも少し若いようだが、腰の下まである炎のように真っ赤な長髪と凛として整った顔立ちが、圧倒的な迫力を醸し出している。
「は、初めまして……」
そう言ったものの、彪ほどきつい目つきではないが鋭い眼光に射抜かれ、楚歌はつい目を逸らしてしまう。
「……ふん……」
朱羽は『傲然』といった調子で言うと、また本を読み始めた。
少々傷ついた楚歌であったが、だからといって何か言う気にもならないので黙っておく。
リアも似たようなことを感じているらしく、複雑な表情を浮かべていた。
「……あれ、玄斗は?」
「散歩に行った」
点睛の問いに朱羽が答えたとき、入口のドアが再び開いた。
そこにいたのは12歳ほどの小柄な少年だった。 小さな口から、声変わりもしていないだろう高めの声で言葉が紡がれる。
「あ……龍牙さん、彪さん、おかえりなさい」
「ああ!」
「……そちらの人たちは?」
顔にはあどけなさが濃く残っているが、口調はなかなか大人びていた。
「俺の友達の息子と、その恋人のお嬢さんだよ!」
「点睛さん……」
いい加減、聞き苦しくなってきた。
「そうですか……。 初めまして、僕は玄斗といいます」
その少年、地顎玄斗はぺこりと頭を下げた。
黒髪を短く切り、首にはマフラーを巻き、暗い色のジャンパーを着ているが、サイズが合っていないため首から埋もれているように見える。
「あー……いえいえ、ご丁寧にどうも……」
「よっし、じゃあ飯の準備するか! 玄斗、手伝ってくれ!」
「はい」
「あ、自分も手伝いますよ」
「なに言ってんだ、お客様は素直にもてなされるもんだぜ?」
点睛は半ば強引に楚歌とリアをソファーに座らせると、玄斗と共に台所へ行ってしまった。
なんだかなあ、と楚歌は嘆息する。
だが、彼の精神的疲労はこれからが本番だったのだ。
午後7時58分。
点睛と玄斗手製の料理を雑談などしながらつつき始めてから、早一時間が経過している。
「……ま、そんなわけで、一口に“人外”っていってもいろんな奴がいるわけだ」
言いつつ点睛は缶ビールをまた一本飲み干した。
食事が始まってから延々飲み続けているが、ちっとも酔っている様子がない。 彼の足元には、空になった酒の缶が何本も転がっている。
それは彪にも言えることだった。 並みの人間なら目を回して病院送りになるだろう量を胃袋に流し込んで、それでも平然としている。
(……見てるこっちが酔いそうだ……)
楚歌は水のコップを空にし、また新たに注いだ。 なんだか無性に喉が渇く。
「ねー、玄さん。 冷蔵庫に豚肉あったでしょ? 持ってきてー」
「……はい」
玄斗は立ち上がると台所に行き、パック入りの豚肉の切り身を持って戻ってくると彪に手渡した。
彪は礼を言うと梱包のビニールを引き剥がした。 そして右手に箸を、左手に肉が入ったパックを持つ。
楚歌は鶏肉の唐揚げを咀嚼しながらその様子を眺めていたが、彪の次の行動には驚いた。
彼女は箸で肉を摘み上げるとそのまま――生のまま口に放り込んだのだ。
(マジかよ……!?)
もぐもぐと咀嚼して呑み込んでしまうと、彪は不満げな顔になった。
「うーん……やっぱり冷たくて、変に軟らかいだけで美味しくないわねー」
「当たり前だ」
焼いた鮭の小骨を取り除きながら朱羽が言う。
「朱さん、ちょっと焼いてくれない?」
「…………」
朱羽は無言で片手を、掌を上に向けて差し伸べた。 貸してみろ、ということなのだろう。
彪がパックを渡すと、朱羽はその上にもう片方の手をかざした。
次の瞬間。
(――!?)
朱羽の袖口から炎が噴き出したように楚歌には見えた。
それも一瞬で消えると、パックの中の生肉は既に加熱調理されていた。
「ありがとー! やっぱり器用だね、朱さん」
「…………」
きつそうな顔を綻ばせて喜ぶ彪にまたも無言で応えると、朱羽は鮭の身を箸で摘んで食べた。
「あの……点睛さん……今のは……」
自分の左側に座っている点睛に声をかける楚歌。
「ん? ……ああ……。 彪のは習性、朱羽のは不思議な能力みたいなもんさ」
点睛はまた新たにビールのプルトップを開けた。
「いちいち驚いてたら、頭と身体がもたねぇぞ? 要は慣れさ、慣れ」
「はあ……」
常識破りなことには慣れている、と思っていた自分は自惚れていたのかもしれない。
「……ねえ、リア」
楚歌は今度は右隣を向き、またしても驚くことになる。
「…………ふぇ?」
「って、ちょっ……ちょっと!?」
声に反応して振り向いた彼女の頬は、すっかり紅潮していた。
半開きになった口から漂う臭いが、手に持ったコップの中の液体が原因だと雄弁に語っている。
「……まさか……!?」
主に市販されているカクテルはアルコール度数が低く、甘い香りと味がついているためつい飲みすぎてしまうということがある。
気づいた時には、既に遅い。
「ふみゅぅ……」
「うわわっ!?」
しな垂れかかってくるリアを受け止めつつ、楚歌はこの事態の元凶であろう存在に声を投げる。
「――彪さん! 飲ませましたね!?」
「え、いけなかった?」
気迫は一言で、一瞬で砕かれた。
「あちゃー……」
「……意志力が足りないな」
「…………」
点睛は苦笑し、朱羽は静かに呟き、玄斗は何も言わずに海草のサラダを食べていた。
午後8時14分。
彪がさらに酒を飲ませたのが良かったのか、リアは比較的早く酔いつぶれ、眠ってしまった。
もっとも、普通の人間がそれと同じ量を飲んだら間違いなく救急車の世話になるだろうが。
「……どうしましょう」
頬杖をついて楚歌は呟く。 その横では、銀髪の少女が穏やかに寝息を立てている。
「どうするって、そりゃ……」
「……背負って帰ればいいのでは?」
呆れたような声を出す点睛の後を、玄斗が平静そのものといった感じで続けた。
「……やっぱりそうなりますか……」
逡巡している間にも時は過ぎてゆく。 次に時間を確認したときには、時計の針は8時25分を指していた。
「…………点睛さん、玄関までお願いします」
「お、帰るのか?」
「はい……」
そして点睛は頷くと、リアの小さな身体を軽々と片手で抱えた。
「……では、ご馳走様でした。 ありがとうございました、皆さん」
部屋を出る際、礼を言って頭を下げる。
「お気をつけて」
玄斗は微笑し、
「…………」
朱羽は沈黙で、
「また来てねー!」
彪はおそらく何も考えていない笑顔で、見送った。
「ありがとうございます。 じゃ、ここで」
玄関で靴に履き直し、二人がかりでリアのスリッパを脱がせてブーツを履かせると、楚歌は点睛に顔を向けた。
「一人で大丈夫か?」
「……たぶん大丈夫じゃないです……。 でも、一人で頑張れって言うんでしょう?」
「ああ、頑張れ」
「…………意地悪」
「意地悪で結構」
楚歌は相変わらずの笑みを浮かべる点睛に背を向け、両手を後ろに回した。
その広くはない背中に、点睛が少女の身体を乗せる。
(う……!)
服越しに感じる温かさに、脳と心臓がぐらぐら揺れるような気がした。 それでも気を確かに保ち、手でリアの細い脚を支える。
点睛がビルの入口のドアを開けてくれた。
「それじゃ、行きます。 ご馳走様でした。 おやすみなさい」
「おう!」
夜風が少々冷たい。
人通りの少ない、かつ自宅への最短ルートを脳内で割り出し、楚歌は足を前に進めた。
「――楚歌!」
が、五歩ほど進んだところで背後からの声を受け、立ち止まって振り返る。
「はい?」
点睛はこちらをじっと見ていた。 それは楚歌がかつて見たことのない、とても真剣な眼差しだった。
「……何か?」
楚歌は彼の次の言葉を待った。
だが、点睛はまた笑みの表情に戻っていた。
「……――何でもない! ……途中で襲ったりするなよ!」
「なっ――!?」
怒りと気恥ずかしさで、顔が、身体が熱くなる。
「そんなことっ……しませんよ!!」
楚歌は前を向くと、再び大股に歩き出す。
点睛はしばらくその後ろ姿を見送っていたが、やがてビルの中へと戻っていった。
午後9時4分。
楚歌はようやく家の玄関に辿り着いた。
あと少し。 リアをベッドに寝かせてやり、自分は風呂に入って着替えて、居間のソファーで寝る。 それで今日は終わりだ。
「……ただい、ま……」
無理のある体勢でなんとかドアノブを回し、頭からぶつかるようにしてドアを開ける。
靴を脱いでそのまま二階の自室に行こうとしたとき、家の中が随分と静かなことに気がついた。
そっと居間の扉を開けてみる。
仲間であり家族である面々は、気持ち良さそうに眠っていた。 無礼講で騒いだらしく、ここにも酒の臭いが漂っている。
「…………」
現在の状況も忘れて、自然と笑みがこぼれる。
電灯のスイッチを切り、楚歌はドアを閉めた。
「よっ、と……」
かけ布団を捲るのも面倒なので、そのままリアをベッドに寝かせた。 押入れを開けて新たに布団を取り出し、彼女に被せてやる。
「――ん……」
リアが両の瞼をうっすらと開けた。 それに気づかないふりをしつつ、楚歌はその場を離れようとした。
だが。
「……ん」
「――うっ、うぉわっ!?」
布団の下から出てきた小さな手が常人離れした力で楚歌の腕を引っ張った。
楚歌はもう一方の手をベッドの上につき、かろうじてリアの上に倒れることを回避する。
起き上がろうとする彼の頬に、温かく柔らかな指が触れた。
「っ――……!!」
思わずリアの顔を見てしまった楚歌は、なんとかすぐに目を閉じて顔を背けることができた。
とろんとした真紅の瞳と、それにかかる銀の髪。 薄紅色に染まった頬に、陶然とした表情。
強烈だった。
(ぐ……っ!)
歯をぎりぎりと噛み合わせて、自身の内から膨れ上がる感情と必死に戦う。
幸いなことに、すぐにその手は彼から離れた。
「………………ふーっ……」
数秒後、大きく息を吐き出してゆっくりと目を開けると、少女はまた寝息を立て始めていた。
身体を起こして壁際へ避難するとそのままもたれかかり、楚歌は額を二、三度叩いた。
「はあ……」
またため息が出た。 今日一日でやたらと歳をとってしまったような気がする。
しかし、それでも。
(……まあ、楽しかったかな……)
自分が“生きている”ことを改めて認識する。
叩いた額の痛みも、掴まれた腕に感じた温もりも、決して偽りのものではない。
(……――って、なんでこんな哲学っぽいこと考えてんだ俺は)
自分の支離滅裂な思考回路にまた笑いを漏らすと、楚歌は電灯を消して浴室へと向かった。
――そして、夜は更けていった。
〈終〉