オフィスの窓辺にカミナリが落ちた。
 部長の怒号はモンスターボールの中にいたあたしにもはっきりと聞こえた。声自体は週に何度も聞くけど、ここまで大きいのは久しぶりかもしれない。せっかくいい気持ちで寝ていたのに、おかげですっかり目が覚めてしまった。

 あたしは名もなきグレッグル。
 生まれも育ちもカロスの草原。いろいろあって、今はミアレシティでトレーナーと一緒に暮らしている。でもそのトレーナーがポケモン勝負をほとんどしないから、いつも連れ歩かれる割にたいした出番がない。普段は全身の力を抜いてボールに収まって、文字通りゴロゴロする暮らし。気楽でしょ?
 で、さっきから部長の大目玉を食らっているのが、あたしのトレーナー。名前はトニー。普段はビルの二階にある小さな会社で働いている。現在独身、彼女なし。顔も背格好も普通。頭も運動神経も残念ながらよろしくない。子供の頃はポケモン勝負の世界で上を目指したこともあったけど、早々に自分の才能の限界を感じたらしくて、それからは平凡な一市民として地味に生きてきた。
 そう、地味な男だ。
 何をやってもイマイチな奴だ。
 おまけに何かと不運が続く。だいたいは本人がテンパって変な行動に出るせいでどんどんおかしなことになっていくから、まあ半分ぐらいは自業自得だけど、それでもかわいそうに見えるほど冴えてない。今どきの言い方をするなら「持ってない」。
 それでも悪い奴じゃないことだけは確かだ。

 部長がお説教を切り上げたみたい。デスクに戻るトニーの歩調が小さな揺れとしてボール越しに伝わってくる。散々言われた後にしては落ち込んでなかった。
 きっと、昨日起こったイイコトが、心を軽くしているんでしょうね。
 ひょっとして、にやけていたから怒られたのかしら?


 始まりは春の終わり頃。
 大通りの街路樹が一斉に緑の枝を広げて、風も夏の色に変わる時期。

 その日のトニーの仕事はシティ内の得意先回りだった。あたしは荷物持ちとして、大きな鞄を抱えてトニーの一歩後ろを歩いていた。初めて行く場所じゃないから道には迷わないけど、街自体がとにかく広いから、地味な重労働だ。
 何件目の訪問先だったかな。ミアレステーションの隣のビルを出て、プランタンアベニューの近くにある次の目的地に向かう、その途中で事件は起きた。
「あの、すみません!」
 4番道路のゲートの前に立ち止まっていた女の人が、突然声を上げて、あたしたちの方へ駆け寄ってきた。
「えっ!?」
 頭上からトニーの間抜けな声が聞こえた。いきなり通行人に話しかけられることなんて滅多にないから、驚くのも無理はない、と最初に思った。
 でも、すぐにそれだけじゃないと気づいた。
 花のような甘い香り。
 それから頭上で息を呑む音。
 トニーがいきなり立ち止まったから、その太腿に顔からぶつかりそうになった。あたしはトレーナーの脇に回り込んで、至近距離まで来た香りの発生源を見上げた。
「ミアレシティのかたですよね。ここから一番近いポケモンセンターがどちらにあるか、教えていただけませんか」
 近くの街頭ビジョンの画面から抜け出してきたような、人間の女性としてはきれいな人だった。ジュエルみたいにキラキラした目。肌にはひとつの汚れもなくて、タウンマップを持った手や膝丈のスカートの下から見える足は、このあたしには及ばないけどすごく細い。後ろで揺れている赤いものは尻尾かと思ったら髪の毛で、一本の三つ編みにまとめた長い髪が、毛先の方だけ広がってふわふわと風に揺れていた。
「……あ、ポケモンセンター。えーと……はいはい」
 ただ道を尋ねられただけなのに、トニーはしどろもどろの見本みたいな仕草をしながら言葉を探して、それからちょうど自分たちが向かっていた方向を指した。
「この道をまっすぐ、そうまっすぐ行けば、すぐですよ」
 本当はちょっと歩く。他にも案内できる情報はある。プランタンアベニューの入口にあるとか、近くに何の建物があるとか。それなのにこの不器用な男の口からは何も出てこなかった。
「ありがとうございます」
 その人は、ちっとも気の利かない道案内に気を悪くする様子もなく、笑顔でお礼を言った。そして教えられた道を小走りで進んでいった。
 後ろ姿が並木道の向こうに消えていくのを見送ったあたしたちは、仕事を再開。と思ったのに、なぜかトニーが一歩も動こうとしない。
「……可愛かった……」
 見上げた顔は口をだらしなく半開きにしていた。
 あたしは鞄を持ち直して片手を空けると、後ろからトレーナーの腰に拳をぶち込んだ。なんかそうしなきゃいけないような気がしたのよね。

 その後、午前の予定は無事に消化したけど、会社に戻る前に昼休みの時間が来てしまった。
 トニーは荷物をあたしに持たせたまま、昼食を求めて、13番道路のゲートの近くにあるひなびたカフェに向かった。そのあたりは日当たりが悪くて、お昼時でも人通りがほとんどない場所だけど、その静かすぎる環境を逆に気に入っているらしい。
 コーヒーを片手にサンドイッチをほおばり、ホロキャスターに着信したカロス各地のニュースの映像を片端から観る。トニーがほとんど毎日続けている昼間の習慣だ。ついでにカフェの店員が仕事をサボって、カウンターから堂々とのぞき見してくる光景も毎日のこと。こっちはニュースを読み上げているアナウンサーのパキラさん目当てだ(相当熱烈なファンらしく、いつだったか「彼女はホロキャスターの女神だ」などと称えているのを聞いたことがある)。
 でも今日は珍しいことに、トニー以外にも客が来た。
「い、いらっしゃいませっ!!」
 映像に見とれていた店員が急に顔色変えて、直立姿勢で声を張り上げた。
 カウンターに向かう客を見たあたしも、なんとなく背筋をちょっと伸ばした。
 トニーだけが何も気づかず、テーブルに置いたホロキャスターを見ていた。
「ご注文は? 何になさいます?」
 店員があたふたしている間に、トニーは今日のニュースを全部観終えた。そしてホロキャスターのスイッチを切ろうとした瞬間、その手の上に突然影が差したものだから、ぎょっとして顔を上げた。
「隣、いいですか?」
 さっきポケモンセンターへの道を尋ねてきた美人がそこにいた。
 このがら空きの店内で、座る席は選び放題。どこでもいいはずなのに、その人はわざわざトニーの隣のテーブルを選んで、椅子に座った。
「先ほどはありがとうございました。おかげで助かりました」
「いやいや、そんな……」
 あの程度の案内でたどりつける簡単な道でよかったね、とあたしはポフレを食べながら思う。
 トニーは耳の先まで真っ赤になっていたけど、急にはっとしてから、さっきの外回りのときみたいな顔を作ってその人に尋ねた。
「そうだ。ポケモン、大丈夫でしたか」
「ポケモン、ですか? ……あー。はい。4番道路で技の練習をしていたんですけど、ちょっと、はりきりすぎちゃったみたいで。でももう大丈夫です」
 照れ笑いを浮かべながら、その人は話し始めた。
 彼女の名前はディタ。ポケモンリーグや各地の大会を目当てにカロス全土を巡る、旅の専業ポケモントレーナーだという。本人はまだまだ修行中だと謙遜していたけど、トニーに語った主な戦績によるとどうやらそれなりにキャリアを積んでいて、順調にエリートトレーナーへの階段を上っているらしい。
 ディタは道を聞いてきたときより輝いた目で、トニーに街のことをいろいろと尋ねてきた。ミアレに来るのは二度目だけど複雑な道は何度タウンマップを見ても覚えられない、と笑いながら話すと、トニーも同調して深くうなずいていた。
 中でも彼女が特に聞きたがったのが、この街のど真ん中にあるミアレジムのことだった。やけにジムリーダーの評判を気にするということは、と思ったら案の定、そこに挑戦するためにこの街へ来たという。
「ジム戦かぁ。もしかして、今からチャレンジしに行くところだったとか?」
「最初はそうするつもりだったんですが、ちょっと自信のない子がいまして。もう少し練習させてから行こうと思っていました」
「じゃあ、僕、手伝います!」
 勢いで口走ってから、あ、これ差し出がましかったかなって思い始めている。トニーの顔はいちいちとてもわかりやすい。
 でも、ぶしつけな発言を謝る前に、ディタの方が身を乗り出してきた。
「でしたら、練習試合の相手をお願いしてもいいですか。あ、でも、お仕事がありますよね。その後でお時間いただけたら……やっぱり難しいでしょうか」
「そんなことありません!」
 トニーは頭が「こうそくスピン」しそうな勢いで首を振って、自分の仕事は夕方に終わるからと、根拠のなさそうなことを堂々と宣言した。

 尋常でない気合いの成果か、それとも運良く暇な日だったのか、今日は残業が発生しなかった。トニーは定時を過ぎた直後に身支度をすませ、あたしが入ったモンスターボールを握りしめて、誰よりも早くオフィスを飛び出した。
 さっきのカフェに急ぎ足で向かうと、ディタが外のテーブル席で待っていた。
「お待たせしました!」
「本当にすみません、お忙しいのに」
 トニーは謝ろうとするディタを止めながら、彼女をカフェの外へ連れ出した。待ち合わせ場所を提供してくれた店員へチップを渡すことも忘れない。
 ちょうどいい場所がある、と言って向かったのは、カフェのすぐ近くにある路地裏。建物の間の細い道を一軒分だけ進むと空地がある。広さは近所にあるローズ広場の半分ぐらい。ポケモン勝負にはぴったりの場所だった。
「まあ……こんなところに、こんな場所があったなんて……」
「ちょっと薄暗いけど、なんとかなりそうですね」
 通路が西に向いているから、夕日が差し込んで周りが見える程度の明るさにはなっていた。でもそれはたまたま昼の方が長い時期だから。真冬なら薄暗いどころの話じゃなかったでしょうね。
「では、よろしくお願いします。サンド、出てきてください」
 トニーがあたしをボールから出す間に、ディタもボールを空中に放った。中から出てきたのは茶色のボール、じゃなくて、丸くなったままじっとしているサンド。覚えさせたばかりの技がなかなか身につかず、練習漬けに飽きたのかいじけたのか、このところ機嫌が悪いのだという。
「そういえばミアレのジムは電気タイプ。だから地面……あっ、じゃあ、電気タイプの方が良かったですか?」
「別に電気タイプじゃなくてもいいですよ」
 ディタは笑いながら小さく首を振った。
「ああ、なんだ。それだったら、グレッグル、頼んでいいかな」
 どうせ電気タイプなんて持ってないから選択肢は一つなのにね。
 あたしは一歩前に出て、構えた。本気の勝負でないことをわざわざ念押しされる間に、サンドがやっと手足を伸ばして立ち上がった。
「サンド、あなたの技、見せてあげてください。スピードスター!」
 無数の星を飛ばすノーマルタイプの特殊技。どこへ逃げてもカーブを描いて追ってくる、なかなかやっかいな技だ。  が、サンドが投げつけたいくつもの星は逃げるあたしを追いかけるどころか、こっちが一歩も動かないうちに顔の横を通り過ぎていった。
「……ずっとこんな感じなんです」
「どうか気を落とさないで。誰だって最初はこういう時期ありますよ」
 サンドは一応指示に従って技を出してはいるけど、あたしの目にはちょっと投げやりになっているように見えた。これじゃ当たるものも当たらないわ。
「ごめんなさい。もう一回お願いします」
 ディタが再度の指示。しかしサンドは構えようともしない。
 そこであたしはわざと構えを解いた。そして軽く腰を落とし、両手を横に広げて、左右にステップを踏んだ。
「おい、グレッグル何やって……」
「あ、分かった、エレザードの真似ですね! ちょっと似てます!」
 ディタの方が早く気づいてくれた。あたしは心の中で両手を叩いて笑う。どうだ。トニーにはこんなこと絶対思いつけないでしょ。
「サンド、相手はジムリーダーのポケモンだと思ってください。エレザードは主力らしいから多分 使ってきます。もう一回、スピードスター!」
 あたしは口をわざと大きく開けて威嚇のポーズを取った。広げられる襟巻きがなくても意図はもう伝わっているから十分よね。
 サンドは険しい目をして、さっきよりは真剣に構えてあたしに狙いを定めた。それでいい。光る星、「スピードスター」が今度はまっすぐ飛んでくる。
「グレッグル!」
 あたしは両手を交差して顔を守った。腕にぶつかった光が華やかに散った。
「当たった……そう、これです! 今みたいな感じでやればいいんですよ!」
 ディタが後ろからサンドを抱き上げ、笑顔の花を咲かせた。サンドが驚いてじたばたしているけど大丈夫かしら。
 それから何回か復習して、サンドは技をものにしたようだった。本番前に体力を使い切らないようにと、余裕があるうちにディタは練習終了を宣言した。
「これでもう大丈夫です。ご協力ありがとうございました」
「いえいえ、全然、全然。良かったです、本当に」
 試合でもないのに礼儀正しいディタにつられてトニーも頭を下げた。
「ジム戦、頑張ってください」
「はい。楽しんできます。トニーさんもグレッグルも、お元気で」
 ディタはサンドを納めたボールを大切に抱えて路地裏を後にした。
 影と共に夕日も遠ざかっていく。どんどん暗くなっていく路地裏で、トニーはひとり大通りを見つめていたと思ったら、突然走り出した。
「ダメだ。やっぱり気になる」

 トニーがやってきたのは街の中心地、メディオプラザ。プリズムタワーの手前でなぜか看板の陰に隠れたので、仕方なくあたしもつきあう。
 しばらくして、すぐ近くの曲がり角からディタが出てきた。そういえばあの近辺にもポケモンセンターがあったわ、とあたしが思い出している間に、彼女の姿はタワーの一階へと消えていった。目的なんて聞くまでもない。このミアレシティのポケモンジムはタワーの中。街のポケモンや人間なら誰もが知っている。
 チャレンジの場に踏み込んだディタを追いかけるかと思いきや、トニーは看板の裏から離れず、うろうろしては頭を抱えていた。彼女の戦いぶりを見に来たとばかり思っていたのに。この期に及んで何を迷っているのかしら。様子を見ているうちに、テレビの試合映像なら一戦終わるぐらいの時間が過ぎていった。
 ついにあたしの我慢が限界に達した。
 腕を曲げて、引いて、突き出す。渾身の肘鉄がトニーの膝の裏へ命中した。
「のおっ!?」
 反射的に膝を曲げたトニーは大きく揺れて、後ろへ反り返った勢いで頭を地面に強打した。両手が微妙に遅れて着地。通りがかった人がいたら、スーツ姿のビジネスマンが突然ブリッジの姿勢を決めたように見えたかもしれない。
 普段なら笑い転げるところだけど、今はそんなことをしている場合じゃない。あたしは硬直したトニーを放置してさっさとタワーへ向かった。自動ドアはポケモンでも遠慮なく開けてくれるから嬉しいね。
「待ってくれよ、ちょっと、グレッグル」
 トニーは変なポーズから無理やり起き上がって、あたしを追いかけてきた。
「え、まさかお前も、ディタさんのこと気になって……はは、そんなわけないか。分かった、あのサンドがどんな勝負をするか気になるんだろ」
 ケッ。そういうことにしておいてやるよ。
 ようやく中に乗り込んだものの、ディタの姿は見あたらなかった。やっぱりトニーがまごまごしている間に勝負を終えて帰ったのかもしれない。そう思っていたら、
「トニーさん!?」
 ディタがトニーの後ろにいた。ちょうどエレベーターから降りてきたところだったみたい。
「ジム戦、見に来てくださったんですね」
「は、はい!!」
 嘘つけ、さっきまでずっと外で地団駄踏んでいたくせに。
「あの、ど、どうでしたか」
 半分裏返った声を出したから、ディタはおかしそうな顔をした。その反応だけでもうトニーの両肩が跳ねたの、あたしは見逃さなかったよ。
「とてもいい勝負ができました。あなたが手伝ってくださったおかげです」
 そう答えてから、ディタは右手を差し出した。手の甲を下にしていたからあたしには指しか見えなかったけど、そこには金色に輝くバッジが載っていたに違いない。がちがちに固まったトニーの顔が、ライトを浴びせたように明るくなった。
「お、おめでとうございます!」
「ありがとうございます」
 微笑むディタ。トニーはさらに何か言いたいようだけど、なかなか言葉が出てこない。変な息しか吐き出せないでいるうちに、ディタが小さく頭を下げた。
「では、私はこれで。そろそろポケモンたちを休ませないと」
 またどこかで。そんなフレーズで始まる別れの挨拶はトニーの耳にも届いたはずだけど、その何割が頭にまで入ったか分からない。何かが震える体に「かなしばり」をかけているようだった。
 さよならの言葉さえ出ないなんて。愛の都ミアレの男なら、こういうときこそさりげなく次の約束を取りつけるか、せめてもう一段上の笑顔を引き出すところなのに。もちろん全員がそうとは言わないけど、少なくともあたしはそういう男をたくさん見てきたよ。
 あたしが勝手なことを考えている間に、ディタは行ってしまった。タワーの外へ向かうその背中を、トニーはただ見つめている。
 また膝の裏を叩いてやろうかと、あたしが肘を曲げた、そのときだった。

「好きです!!」

 思わず頬袋と腕が止まったよ。
 トニーが本当は何を言いたかったかなんて知らない。きっといろいろ考えすぎて、結局いろんな過程を全部飛ばして、一番単純な部分だけ馬鹿正直に口走ってしまった、ということだと思う。
 中にいる人がみんなこっちを見ている。エレベーター前にいるおっさんなんてにやにやしているよ。そして当然というかまさかというか、ディタまで立ち止まってこっちに振り返っていた。
 あーあ、やっちゃった。
 アホ面さらしてフリーズしているトニーを、あたしは今度こそ肘で小突いた。
 一発ぶち込むと解凍された。まず棒きれ状態の脚を大きく揺らして、何度かまばたきして、それからちょっとはマシになった表情でディタの方を向く。
 大きく深呼吸をしてから、次は意識して声を張り上げて。

「今度またお会いしたら、僕と……僕と、ポケモン勝負をしてください!」

 頬袋が破裂するかと思ったよ。
 あたしは膨らませすぎた袋をそっとしぼませて、毒素をまき散らす代わりにトレーナーを睨みつけた。本人が自分の発言に一番びっくりしたみたい。顔から色という色がなくなりかけている。
 周囲の人間たちはみんな目が点になっていた。
 そして言われた相手、ディタはというと。
 口元に両手を添えて、多分、クスクス笑っていた。そしてそのまましばらく立ち止まっていたけど、突然戻ってきた。トニーとあたしの目の前に。
「分かりました。その勝負、受けて立ちます」
 呆然としていたトニーの顔を冷静の波が撫でて、顔色が戻ってきた。
「いつかまたお会いしたら、今度は練習じゃなくて、ちゃんと勝負をしましょう」
 いつか、また。さっき聞いたフレーズを一度は強調して。
 でも、それだけで終わるというあたしの予想は、すぐに覆された。
「ホロキャスター、お持ちですよね」
「へっ!?」
 まさに「ふいうち」。トニーはあわててスーツのポケットを探り始めた。
 滑稽な仕草にディタは笑いをこらえながら、自分のホロキャスターを取り出していた。見え隠れする可愛い花のシールは自分で貼ったのかもしれない。
「アドレス交換させてください。次にミアレに来るときは必ず連絡します」
 ディタの表情は優しくて、でも目の奥が真剣だった。
 エリートトレーナーとしての真剣な目だった。
 本気の勝負をするつもりだ、と直感が告げた。「いつか」は社交辞令じゃない。どうせだったらトニーにも事前準備をしてもらった上で、全力でぶつかり合おう。そういう意味で言い出したに違いない。
「あった。ホロキャスターありました。これで、これでお願いします」
 トニーはビジネスバッグに入っていた装置を、危うく落としそうになりながらも、なんとかディタに手渡した。こっちはシンプルというか味気ない。地味。
 お互いの連絡先をホロキャスターに登録すると、ディタは改めてしばしの別れを告げて、タワーを後にした。
 トニーは黙ってその場に立ち続けていた。
 体がしびれて動けない……のかもしれなかった。


 次の日、トニーは自分の身に起きた奇跡的な出来事を思い返しては、顔をだらしなくゆるめていた。そして部長の怒りを買った。
 浮かれるのも無理はないのよね。美人と知り合って、カフェでおしゃべり。路地裏で一緒に練習試合。通報されてもおかしくない一連の挙動不審を笑って許した優しさ。こんな幸せなことが立て続けになんて、そうそう起きるものじゃない。しかもおみやげ付き。自分から異性に連絡先を聞いたこともないのに、まして向こうから聞かれるなんて、誰が想像できただろう。
 でも、柄にもなくはしゃいだ後ほど、一度我に返ったときのダメージは大きい。
「まったく、何一人で勝手に夢見てるんだか」
 一人暮らしの家に帰り着いてから、さっそくトニーは現実を思い出していた。
 ディタは旅のトレーナーだ。目指す道のりは長く厳しく、時間がかかる。次のミアレ滞在、勝負を受けて立つ約束の日が、いつになるかなんて分からない。
 そもそもアドレスを交換したからといって、本当に連絡をくれるとは限らない。
 まず彼女がトニーのことを覚えている保証だってないに等しい。
「それに引き換え、グレッグル……お前はいつも通りだな……」
 あたしが窓ガラスを鏡代わりにシャドーボクシングをしていると、後ろから声が聞こえた。
 一流トレーナーへの道を断念したトニーが就職のために再び故郷を旅立って以来、昔の旅の仲間で唯一連れてきてもらえたあたしは、毎晩の自主トレを習慣にしていた。この先大会に出ることがないとしても、いつだって戦いには備えておくもの。それがポケモンのたしなみだとあたしは考えている。
「どうせグレッグルも、浮かれてた僕のこと、馬鹿だなとか思ってるんだろ?」
 左ストレートを出した状態で一時停止したあたしが、そのポーズのまま振り返ったら、トニーはもうベッドに寝転がっていた。
 ワンツーパンチを顔にぶち込んでやろうかと思った。

 それから一週間ぐらいが過ぎた頃。ダメトレーナーに思いがけないことが起きた。
 その日もトニーはいつものように昼休みのカフェでホロキャスターを開いた。そして、受信記録の中にいつものニュースとは違うサブジェクトが紛れていることに気づいた。
「何だろう?」
 最近噂の怪しいメールか。職場の人間には教えていないアドレスが上司にでもばれたのか。警戒しつつも好奇心に負けたトニーが問題のメッセージを開いてみると、ホログラムが女性の姿を映し出した。パキラさんじゃない。
『トニーさん、お久しぶりです。お元気ですか』
 テーブルに置かれたホロキャスター本体の上で、モノクロの立体映像になったディタが手を振っていた。
『私は今、レンリタウンに来ています。近くに湿原があるんですけど、そこでグレッグルを見かけて、ふとあなたのことを思い出しました』
 後ろを見てと言いたそうに片腕を広げていたけど、ホログラムに背景までは映らないから、彼女がどんな場所にいるのかあたしには分からなかった。
 トニーを見上げると、目を限界まで見開いたまま固まっていた。
「……どうしよう」
 メッセージが最後まで終わって、ホロキャスターの光が止まってから、トニーは両手に作った拳でテーブルの縁を叩いた。
「ディタさんから、メール……僕のこと、覚えていてくれた……!」
 声からして今にも泣きそうだ。でもこんなところで泣き出されたらこっちが困る。
 あたしが軽く腕をひっぱたいてやると、トニーは夢から覚めた顔に変わったかと思いきや、もう一度そのメールを再生した。
「やばい。これが奇跡なのか。そうだ、返事出さないと! 何話そう!?」
 トニーは昼休み終了間際まで考え込んでから、仕方なく一度仕事に戻って、残業に耐えて帰宅した夜にメッセージ作成を始めた。だけど何度撮影してもつい顔がにやけてしまう。結局数十テイクは撮り直してから、やっと送信コマンドを押した。
「大丈夫かな。また変なこと口走ってないよな……」
 送信した後にもう一回だけ自分の映像を見直したトニーは、あたしがちゃっかり背後に映り込んでいるのに気づいてしまった。こっちは緊張をほぐすつもりでやったつもりなのに、真面目にやっているんだから邪魔するなと怒られた。
 ところが、これが意外にも大当たり。あたしの存在に気づいたディタが、それを話題にしてまたメッセージをくれたのだ。実はあのときの物真似が気に入られていたらしい。
 自分で言うのも何だけど、持つべきパートナーは愛嬌のあるポケモンよね。

 それからというもの、ふたりは一日から数日かけて一往復するペースで、互いのホロキャスターへ声を送りあうようになった。そして着信したメッセージを横からのぞき見ることがあたしのささやかな楽しみになった。
 ディタは旅の話題を豊富に提供してくれた。ジム戦や大会などの近況報告にとどまらず、見つけたポケモンや街の観光名所を紹介してくれることもあった。
 トニーはディタが出した話へ感想を寄せたり、彼女の求めに応じてミアレシティの話をしたりしていた。街の中心で行われた大きな式典の話が出たときには、沿道から見物した際のエピソードを聞かせたこともあった。
『覚えてますか、あのときのサンド。見てください、今日進化したんです!』
 サンドがサンドパンに進化したときにはすぐに知らせが来た。大きくなった体を重そうに抱きかかえ、カメラの前で披露したときのディタはどこから見ても充実感に満ちていた。トニーも喜んだし、あたしもちょっと嬉しかった。
 端から見ればふたりの心の距離は順調に、確実に近づいていた。
 でもひとつだけあたしが不満に思っていたのは、一度メールが来るとトニーは何度も何度も同じ映像を再生してはにやにやしていたこと。最初は温かい目で見守ってやれたけど、次第にそのテンションについて行けなくなってきた。

 ところで、ディタがトニーを忘れていなかったということは、再戦の約束が実現する可能性が出てきたということでもあった。
 トニーもそれに気づいて、急に対戦の準備を始めた。ポケモンの攻撃力を鍛えるサンドバッグをわざわざ買ってきたり、パワーアップの道具をいろいろ取り寄せたり。さすが大人だ、時間とお金の使い方が昔と全然違う。
 あたしが特に驚いたのは、一匹では基礎トレーニングしかできないからといって、かつての旅の仲間を実家から転送させたこと。確か「狭い部屋で何匹も面倒を見られない」っていう理由であたし以外を置いてきたはずなのに、過去の自分が心配したこともすっかり忘れるなんて。しかもちゃんと面倒見ているし。
 昔と方法は違っても、トニーがまたポケモンの育成に夢中になり始めたことには違いなかった。毎晩あれこれ考える姿はとても楽しそうだったし、その影響なのか普段の表情も明るくなった。最近すごく生き生きして見える。近所の人にそんなことを言われていたし、ディタからも同じことを指摘された。
 子供の頃はいつもこんな感じだったのよ。あたしはみんなに教えてやりたかった。ああ、言葉の壁がすごく邪魔だ。


 でもやっぱり、幸せなんてそんな楽に手に入るものじゃない。
 あたしがそれを思い知らされたのは、夏らしい、とても暑い日のことだった。

 事件は一通のメールという形で、昼休みに例のカフェへ来ていたトニーの元へ着信した。差出人はもちろんディタで、最初は近くの道路で見かけたというポケモンの群れの話題。その笑顔は、トニーはもちろん店員の視線も釘付けにしていた。
 ところが。
『今度出会ったらぜひ捕まえたいなって……あ、ちょっと、勝手に触らないでください!』
 向こうのホロキャスターに何かあったのか、突然ディタの顔がぐっと近づいたかと思ったら、すぐにカメラの前から引いた。少しして、ずんぐりしたポケモンを抱きかかえたディタが映像の中心へ戻ってきた。
『ごめんなさい、びっくりさせちゃったでしょうか。あ、この子はフレフワン。私が旅の最初に捕まえたポケモンなんです』
 トニーがみるみるうちに青白い塊と化した。
 横から映像を見ていたあたしは、メッセージが最後まで再生されるのを待って、トニーの体を軽く揺すってみた。それでようやくトニーは我に返ったけど、その後すぐにホロキャスターの電源を切ってバッグの奥底へしまい込んで、無言でコーヒーを一気飲みした。
「お兄さん珍しいな、もういいの?」
「……はい」
 その後戻ったオフィスでも、帰り際の買い物の間も、トニーは終始ニャスパーのお面でも貼り付けたような表情をしていた。口数も極端に少なくなって、普段ならここぞとばかりにからかう同僚たちも本気で心配するほどだった。
 家に帰ってからもその状態は続いた。そしてついに、トニーは初めてディタからのメールを一度も見返さないまま、さっさとベッドに入ってしまった。

 あたしには思い当たる節があった。
 トニーは昔から、ある種類のポケモンを異常に怖がる。それは幼い頃に連続で恐ろしい目に遭ったことが原因だという。
 興奮したグランブルに飛びつかれ、その巨体の下敷きにされた。
 ペロッパフにじゃれつかれてベトベトまみれにされ、窒息しそうになった。
 サッカーボールを追って迷い込んだ庭園でフラージェスに出くわし、何時間も追い回された。
 そう、全部フェアリータイプのポケモンが相手だったのだ。最初はその三種類だけ怖がっていたようだけど、いつしか対象がフェアリー全般に広がったばかりか、初めて出会った種族さえ一目見ただけで震え出すようになっていた。偉い人たちが正式にタイプと認定する前からなので、トニー は分類の決め手になる何かを本能で見破っていたことになる。恐ろしいやら感心するやら。
 端から見れば可愛いポケモンに怯える情けない男でしかない。だから本人は必死にその件を隠していたし(バレバレだけど)知られたところで自分から何か言うこともなかった。いつも連れ歩かれていたあたしだって、トニーの友達が連れていたゴチミルから星読みで教えられて初めていきさつを知ったくらいだ。克服なんかとてもじゃないけど考えられなかったし、誰も勧めなかった。
 そのツケがこんなときに来るなんて。

 あたしはその夜、トニーが深い眠りについた頃を見計らってホロキャスターを持ち出し、部屋の隅で問題のメッセージを開いた。ずっと隣で見ていたから操作方法覚えちゃった。ヘッドホンを適当に突き刺したから、音声はトニーに届かない程度に絞られているはずだ。
『あ、この子は私のフレフワン。旅の最初に捕まえたポケモンなんです』
 フレフワンを優しく撫でるディタは、メッセージの収録を邪魔されたにしては楽しそうだった。最初に捕まえたポケモン。それだけでも愛着が強くなるというのは、多くのトレーナーが共感できる話らしい。
 でも動画を見ているうちに、フレフワンはただの「最初の絆」どころか、彼女のエース級の戦力なのではないかという気がしてきた。あたしは最初に出会ったときに感じたあの甘い香りを思い出した。当時はただ良い香りだとしか思っていなかったけど、よく考えたらあれは市販の香水とは少し違っていた。
 何しろフレフワンといえば全身から絶えず振りまく香り、匂い、いや体臭。前にテレビで聞いた話によれば、その歩く匂い袋がどんなフレーバーになるかには育てた環境が影響するらしく、ある意味育てるのが難しいという。あたしはこのミアレシティに移り住んでから一度だけフレフワンを見かけたことがあるけど、その芳香のインパクトがあまりにも強すぎて、多分三度見ぐらいはしたはずだ。柔軟剤を過剰にぶち込んで洗ったセーターのような匂いは今でもリアルに思い出せる。
 そんな面倒極まりないポケモンを、もしディタが一番にかわいがっているとしたら、あの赤い髪や衣類に移り香が染み付いていてもおかしくない。
 その移り香が内容も濃度も、不快感をちっとも与えない絶妙な加減だったことを考えたら、相当な手間暇をかけて育てているとしてもおかしくない。
 これはやっかいだ。
『もう、フレフワンったら。よしよし』
 映像を最後まで見終えたあたしは、電源を切ったホロキャスターをこっそり元の位置へ戻してから、トニーの寝顔をうかがった。
「どうしよう……フレ……フレ……」
 誰かを応援している夢ではないでしょうね。さすがに。

 翌朝になると、トニーは多少落ち着きを取り戻していた。あたしのことを話し相手とは思っていないだろうから何も言わなかったけど、本人なりに何かを考えていたらしい。出勤直前にこんな言葉を聞いた。
「そうだ。返事、出さないと。……ああ、でも……」
 葛藤の末に返信を作り始めたのはその日の夜。前のメールを見返さずに収録を始めたけど、「最初の捕獲」という話題があったことは覚えていたみたいで、自分が最初に捕まえたウデッポウの思い出を中心に話を進めた。もちろんフレフワンのことには一言も触れなかった。
 幸いディタは気にしなかったようで、翌日に次のメールをよこしてきた。でも最後の最後に彼女の背後からフレフワンが顔を出したものだから、トニーはたちまち硬直して端末を落としてしまった。
 それからというもの、ディタから送られてくるホログラム映像には必ずといっていいほど、化粧の濃いダンサーみたいな顔が一緒に映るようになった。しかも明らかにカメラ目線。どう考えてもトニーの存在を意識しているとしか思えない。
「どうしよう、グレッグル」
 何往復目かの返信を送った後、トニーは床に座り込むと、ついにあたしに向けて愚痴をこぼし始めた。
 メールの中ではもちろんフェアリー恐怖症のことをひた隠しにしていて、それはどうやらうまくいっているらしい。でも、何も知らないからこそディタはパートナーを止めないし、当然フレフワンだって止まらない。ディタの方に何かがあって手持ちポケモンの交代でもしない限り、この苦痛は続くのだろう。
「恐いのに、ものすごく怖いのに、でも、それでも……ディタさんのことが、頭から離れない」
 トレーナーの口から出てきた言葉は、どうしようもなく情けなくて、どうしようもなく正直な本音だった。
「本当はポケモン勝負だけじゃなくて、もっと話したいし、その、いろいろ、誘いたい。一緒にいたい。でも……はは、こんなこと、お前に言ってもしょうがないよな」
 力の抜けた笑い方をするトニーは、試合に負けたときのような顔をしていた。
 あたしは無性に腹が立って、正面からトニーの肩を思いっきり殴った。
 トレーナーの体があっさり後ろへひっくり返る。そのまま足を伸ばして倒れ込んでから、顔だけ起こして、こっちを見てきた。
「グレッグル……もしかして、戦え、って言いたいのか?」
 他に何があるの。
 見つめる目に精一杯力を込めたら、なんとなく伝わったらしい。
「そうだよな。……よし、決めた。ディタさんと会う日が来たら、全力で勝負しよう。それでもし勝てたら、もう一回正直に、告白する」
 トニーは震える手で握り拳を作って、何度も自分に言い聞かせた。

 その意気は本物だった。自分とあたしに誓った夜が明けると、トニーは改めて攻め方や相手への対策を考え始めた。
 パソコンでメジャー級トレーナーの戦い方を調べ始めたのは、これまた子供の頃には考えもつかなかったアプローチだ。フェアリータイプにはどくタイプの技が効果抜群だと聞いて、あたしにもちょっと自信が出てきた。でも、画面にフレフワンの写真が出てきただけでトニーが椅子ごとひっくり返りそうになったのを見たら、薄れかけていた不安がすぐに息を吹き返した。
 このまま指をくわえて見ている場合じゃない。あたしは自分の技を磨く傍ら、仲間のポケモンたちと相談して、恐怖症対策を手分けして探すことにした。動けないのはあたしがトニーの仕事へついて行く間ぐらいで、他のポケモンは留守番の役目さえ果たせばいいわけだから、自由に使える時間はたくさんあった。
 あるときは、ミツハニーから「あまいミツ」を分けてもらって、メールの再生に合わせて出してみた。ディタの姿に甘い香りがついたときはトニーもうっとりしていたけど、フレフワンが出てきた途端に息の吸い方が変になった。香りで注意をそらす作戦は失敗。
 あるときは、14番道路で出会ったゲンガーに頼んで、悪いイメージを変える夢を見せようとした。出だしはうまくいったけど、トニーがうなされ始めたあたりでゲンガーが調子に乗って、余計に「あくむ」がひどくなったから強制終了。夢を通してイメージを塗り替える作戦も失敗。
 またあるときは、4番道路の庭園で拾ったピッピ人形をさりげなく持ち帰ってみた。トニーは最初すごく驚いていたけど、ベッドに置いた人形をじっと直視して「がまん」の練習など始めたから、これにはちょっと手応えを感じた。でも本番の相手が生きている本物のポケモンだということを考えると、震えがなくなるまでにはまだまだかかりそうな気がする。

 そんなこんなで悪戦苦闘していたトニーの元へ、予告されていた知らせがついに届いた。
『実は今度、またミアレシティへ行くことになりました。約束の勝負、やっとできますね』
 今度のメールで、ディタははっきりと、ある日付を指定した。
 あたしたちポケモンの強化どころか自分の問題も解決していないのに、いきなり勝負の時が間近に迫ってきたのだ。ポケモン勝負を分かっている人間ならここで腹をくくるところだけど、トニーには多分、自信も確信もない。メールを二度、三度見返してから頭を抱えてしまった。
 あたしにできるのは励ますことだけ。ベッドの上のピッピ人形を強く殴って、ファイティングポーズを取った。自分はやる気いっぱいだ、相手をいつでも蹴散らせる。アピールは通じたはず。
 後はトニー自身の努力と運次第。祈るしかない。


 約束の日が来たとき、ミアレシティは秋の装いに変わっていた。

 日曜日の真昼。会社は休み。
 トニーはいつもより早く目を覚まして、たっぷり時間をかけて身支度してから出かけた。向かった先はあの行きつけのカフェ。どちらが言い出したかは忘れたけど、最初に話が弾んだ場所だったし、そこを待ち合わせ場所にしようという話になったのは当然の流れだった。
「ディタさん! あなたを待たせてしまうなんて、本当に申し訳ない」
「そんな、いいですよ。たまたま思っていたより早く着いてしまっただけなので」
 今回もディタの方が先に来ていたみたい。トニーは何度も謝りながら、ディタと一緒にあの路地裏へ行った。幸い、今日も先客はいなかった。
 ここであたしはやっとモンスターボールから出ることができた。
 この前は夕方だったけど、今日はまだ太陽の位置が高い時間だ。整備も応急処置もない一番シンプルなバトルフィールドを、真上からの光がはっきりと照らしてくれる。
「やっぱり。あなたならその子にすると思っていました」
 ディタは微笑みを浮かべて、優雅な動作でモンスターボールを投じた。開いたボールから飛び出してきたのは、予想通り、あのフレフワンだった。片足立ちになって一回転するだけで、たちまち路地裏に濃密な甘い香りが広がった。
「今日は本気の勝負です。一切手加減はしませんよ。……始めましょう」
 むせかえるような匂いの中で、ディタのまなざしに鋭さが宿った。

 トニー対ディタ、レギュレーションは一対一のシングルバトル。
 いざ勝負。

 さあ、どうする。あたしは両手の拳を構え、背後のトニーに目だけを向けた。
「グレッグル……かっ、かわらわり!」
 耳を疑った。ディタの反応を見る余裕もなくなった。
 フェアリータイプにかくとうタイプの技を出しても、効果はいまひとつ。そんなの嫌というほど学習したはずじゃなかったの。
 初手からとんでもないことを言い出したトニー本人はというと、ハブネークに睨まれたポッポみたいに震えていた。
 何が「全力で勝負しよう」だ。ビビリ丸出しじゃないか!
「フレフワン、いつも通り、心穏やかに。ムーンフォース!」
 一方ディタは動揺もしないし優越感も見せない。さすがポケモンリーグ制覇を目標に掲げる未来のエリートトレーナー様。ずっとあたしを睨んでいたフレフワンも指示にはすぐ反応して、短い手を真上に向けた。
 淡いピンク色の光がフレフワンの頭上に集まる。それは薄暗い路地裏を明るく照らしたかと思ったらすぐ爆発して、あたりに無数の光線が降り注いだ。こんな不思議で予測不可能な攻撃はもちろんフェアリータイプの技だ。
 まずい、早く流れを変えないと。制御不能のトレーナーに足を引っ張られて負けるようではポケモンがすたる。
 あたしはさっきの指示を無視して、前を向いたままトニーのそばまで引き返した。落ちてくる光が途中で目標を見失って、トニーの足元で派手に地面を砕いた。
「ちょっ、ちょっと、危な、危ないって!?」
 流れ弾をかわすステップが聞こえた。トニーのことだから、変なダンスみたいな動きで逃げ回っていたに違いない。
 その間のどこかで、今が試合中ということを思い出した、はず。期待したい。
「ひるむな! グレッグル!」
 それはこっちの台詞だよ、トレーナー!
 あたしは最初の立ち位置まで戻って気合いを入れ直した。
「どくづきだ!」
「めいそう!」
 今度こそまともに通る技を指示された。
 一安心してから、フレフワンとの距離を詰めるために駆け出す。手刀を相手の頭に勢いよく振り下ろしたけど、その前に「めいそう」を始めてしまった相手はほとんど動揺しなかった。
「次の攻撃に備えよう。グレッグル、みがわり!」
 トニーの声はまだ震えている。
 あたしは一歩下がると、頬の毒袋に溜めた毒素を口の中で唾液と混ぜて、体積を増したものを足下に積み上げた。等身大には少し足りないけど人形っぽくなった。すぐ造形の後ろに隠れる。
「フレフワン、行きますよ。ムーンフォース!」
 再び空中に集まった不思議な光が、花火みたいに降り注いだ。もともと強力な技が「めいそう」で強化されている。あたしが大きく横へ飛び退いて脱出した直後、身代わり人形が爆発した。
「今だ! どくづき!」
「させませんよ。フレフワン、サイコキネシスです!」
 どちらの指示にも迷いがない。
 相手のほうはすぐに動いた。こっちも出遅れるわけにはいかない。あたしは毒袋を大きく膨らませて、もうひと練りした毒を自慢の拳に送り込んだ。
 空間を切り裂くように、渦巻く空気の隙間を縫うように。
 振りかぶった手をフレフワンめがけて。

 あたしは高く掲げた手を振り下ろすことができなかった。
 どんなに力をかけても指一本動かない。
 まっすぐ立ったまま、ゆっくりと体が宙に浮いて、それから真後ろに落ちる。

 トニー。やっぱりあなたは、持ってない。
 でも、あれだけ嫌いなポケモンを目の前にして、一度だって逃げなかった。
 よくやったよ。

 あたしは仰向けにひっくり返ったまま、トニーがゆっくりと地面に膝をつく姿を見ていた。
 目の前を影が横切った。フレフワンを残して対戦相手に駆け寄ったディタが、手を差し伸べている。赤い振り子みたいな三つ編みの向こうで、トニーの頬がみるみるうちに緩んだ。
 悔いも屈辱も感じない目。
 交わされる握手。
 トニーはディタの手を強く握りながら、引っ張り上げられるのではなく、ちゃんと自分の力だけで立ち上がった。
「素質がないって言っていましたけど、そんなこと、ないと思います」
「いいえ。さすが、でした。あなたにはかなわない」
 トニーは必死に首を振ったけど、ディタは笑うだけだ。
「お仕事で忙しいはずなのに、グレッグルをここまで育てられて、準備までしてくださって。とてもいい勝負ができたんです。もったいないですよ」
「もったい……ない?」
「私みたいに年中ポケモンのことばかり考えて、いつも勉強ばかりしている、そんな人ばかりじゃないんですよ。ポケモン勝負の世界って。あなたとグレッグルなら、やろうと思えば、ポケモンリーグにだってきっと手が届きます」
「いやいやいや、そんな!」
 畏れ多い、とトニーは叫んだ。
「僕なんてたいしたことないですよ。ほら、最初に思いっきり間違えたし。だいたい一度挫折したような奴です、今から走ったって、ね?」
 そりゃ、いつだって誰だって、ちゃんとした方法で真面目に勉強すればそれなりの成果は得られるだろう。それでも越えられない壁はどこかにある。
 あたしはサイコキネシスの衝撃を全身で思い出しながら、ゆっくりと起き上がって、地面に座った。
「知識もセンスも努力も、あなたの方がずっと上で、ずっと真剣に磨いてきた。僕なんかが急に張り切っても一生追いつけませんよ。今までいろんな人に負けてきたから分かります。あなたは素晴らしいトレーナーだ」
 握手を無意識にしぶとくキープしながら、トニーは奥歯を噛み締めていた力を抜いた。潔いあきらめというより、何かが腑に落ちたような顔に見えた。
「また勝負してください」
 負けた男に精一杯言えるのはそこまでだった。
 右手に込めていた力を静かに緩めると、トニーの手首はディタのなめらかな手の中にとどまることができなくなった。滑り落ちた勢いのまま、右腕がぶらぶらと揺れる。
「約束ですよ」
 ディタは穏やかな微笑みを浮かべて、トニーの手を握り直したかと思うと、ぐっと自分の方に引き寄せた。
 急にかかった力に引っ張られたトニーが前によろける。
 きょとんとした顔にディタは自分の唇を寄せて、頬に軽くキスをした。
「今度も負けませんから」
 そう続けながら小さく笑ったのは、固まっているトニーの顔が面白かったからに違いない。
 まったく最後まで情けない奴だよ。
 あたしはトニーのふくらはぎを軽く叩いてやってから、ディタにも見えるように、路地裏の出口を指した。
「そうね。たくさん動いたし、ポケモンセンターで一休みしましょうか。フレフワン、行きますよ」
 ディタはトニーの手をあっさり離して、その手でフレフワンの手を取った。
 フレフワンは勝ち誇った顔でトニーを見上げて、ふんっ、と顔を背けた。
 あたしはそんなフレフワンに片手を振って注意を引いて、笑いかけてみせた。
 不機嫌な表情が一瞬だけ驚いたように崩れてから、余計に険しいものに変わって、それからフレフワンはディタの手を引いていきなり走り出した。
 優しい光に照らされた路地裏の出口へ。
 ディタは慌てて、トニーはびくびくしながら、あたしはのんびりと、その後を追いかけた。

 あの二人がライバルより大事な関係になるには、まだまだかかりそうだ。
 まあ、あのフレフワンとは、そのうち仲良くなれるかもね。
 あたしだって今、自分のトレーナーを取られたみたいで悔しいんだから。


fin.


・初出:「ぼくらのハイリンク」ぽけ☆すと
・再収録:「午後三時、ルージュ広場で」Rista Falter(化屋月華堂)