セキエイ高原に程近い小さな町が奇妙な噂に揺れていた。
「その森の奥に入ると帰れなくなるらしい」
 町の裏手に広がる森で失踪者が相次いでいるのは残念ながら事実だった。ポケモンたちの鋭い嗅覚や眼力、超常の力をもってしても発見できず、森の奥で突然消えたことしかわからないという。
 方角がわからなくなるとか電波が通じないとかは尾ひれだ。シロガネ山の都市伝説のコピペ。そっちは後に否定された。今回も方位磁石は普通に動くし、スマホでも正常に送受信できている。
 だが一度波乗りした話題は止まらない。続々と来るマニアやポケチューバー等に住民は迷惑していた。しかも森へ入った彼らの一部が本当に戻ってこなかった。ついに警察は町の手前の道路にゲートを作り、人の出入りを制限するに至った。


 そんな不穏の町を一人のカメラマンが訪れた。取材でなく知人に会う目的と告げて名前を出すと、しばらく待たされてから通行許可が下りた。
 嘘ではない。出版社にいた頃の同僚がこの町の出身で、今は休職してそこに戻っていると聞いたのだ。少し前から連絡が取れなくなっているとも。
 元上司のメールを頼りにアパートへ着いたが、中から応答はなく、会えたのは隣の住民だけだった。
「最近姿を見なくなったの。まさかあの森へ行ったのかしら」
 見かけないだけなら、自宅で倒れている可能性もある。管理人を呼んで鍵を開けてもらったが、室内には人もポケモンもいなかった。侵入を疑う痕跡もない。
 カメラマンは戸棚の上に飾られた写真を見た。傍らに傷だらけのボールとポケじゃらしがある。
「ずっと塞ぎ込んでいたと聞きましたが」
「そうね。いつ見かけても一人きりで、寂しそうに森の方を見ていたわ」
 だから真っ先に森へ入ったと思ったのか。
 役場に知らせてくると管理人が走っていった後、隣人に町の現状を尋ねた。不明者の捜索とパトロールが毎日行われている。警戒の対象は騒ぎに乗じたい人間だけではなかった。
 噂が立つ少し前、この地方にいないはずのコマタナが例の森で大量発生し、最近も人間を襲ったという。失踪とは無関係だとしても捜索隊には厄介な存在だ。しかもセキエイ高原は厳しい自然環境ゆえに強い野生ポケモンが多いとされる。外来種に我が物顔をされて苛立っているのかもしれない。
「四天王とは言わないけど、せめて腕の立つトレーナーが来てくれたら心強いんだけどねえ」
 手を合わせた隣人をよそにカメラマンはスマホを取り出した。メールを読むついでに図鑑アプリを開く。
 全身が刃物。ボスを中心とした群れで生活。
「進化したやつもいるかもな」
「なんですって?」
「可能性の話です。ところで行方不明の件については何かご存知ですか」
「そうねえ……」
 余所者が騒ぎ出す前から、町ではある共通項が噂になっていた。
 消えた者は皆一人で森を歩いていた。行った目的は様々なようだが、途中で相棒とはぐれたり、そもそも連れていなかったりしたという。
 丸腰で一人歩きなんて危険すぎる。わざとやるのは酔狂な格闘家くらいだ。
 そんな場所にあいつは。新しい相棒と暮らしている様子もないのに。
「あなたも探しに行くの?」
「はい」
 隣人が教えてくれた捜索隊の拠点に行くと、すぐ歓迎された。余所者は敬遠されるかと思ったが杞憂だった。
「助かります。最近お手伝いできる人が一気に減って、困っていたので」
 壁には大きな紙が何枚も貼られ、森の地図や不明者の情報の他、ポケチューバーが生配信中に消えた事件の概要がまとめられていた。画面外に何かを見つけて走り去ったきりだという。
《人がいた?》
 赤い文字が眩しい。
 隣では関与した可能性のあるポケモンが列挙され、いくつかの名は既に横線で打ち消してあった。エスパー、悪、フェアリー。あるいは未知の種。
 地図に目を移す。痕跡が途切れた地点や時間帯にはばらつきがある。
「いいですか。私達の役目は犯人捜しではなく、皆さんを見つけることです」
 念を押された。カメラマンがうなずくと、職員は今日の捜索範囲と注意点を教えてくれた。常に二人一組で行動、かつ相棒は連れ歩くこと。不明者と同じ状況を避け、野生のポケモンを警戒するために。
 今日組む相手は近くのカフェの店員だった。地元の人間がいれば迷子にはならないだろう。
「よろしくお願いします」
 握手をかわし、いざ例の森へ。


 カフェ店員は仕事が休みの日に協力しているという。周辺の地理や捜索隊の顔ぶれについて話しながら歩く間は地域の取材のような空気だった。
 一変したのは店員の足元でブルーが吠えた時だ。舗装された道路の脇を睨みつけている。
 下り斜面を何かが滑り落ちた跡がくっきり残っていた。野生ポケモンはそんなことをしない、つまり。
「誰かが足を踏み外した?」
「かもしれません。この下は道が通ってないから戻るの大変ですよ」
 聞いたカメラマンはすぐ片手を挙げた。頭上を旋回していたピジョンが斜面の下に急行した。
 少しして戻ってきた相棒は足で平たいケースを掴んでいた。表面の汚れが斜面の土の色と一致した。
「これは……手帳?」
「一昔前のポケモン図鑑だ」
 かつては紙の本に綴られ、今はスマホのアプリとして普及しているが、電子図鑑として配られた世代もいる。蓋の裏にカードが貼られていた。
 拠点に電話をかけ、カードの記載を読み上げると、職員が仰天した。
『あの子たちのトレーナーさん!』
 しばらく前、この森で瀕死のポケモン六体が保護された。ボールの登録情報で親の名が、テレパシーを交えた調査で野生ポケモンに襲われた経緯が判明するも、人間の行方だけ不明だった。
「ポケモンたちはこの近くで?」
『いえ、もっと町に近い場所です。もちろんその辺は何度も捜したはずですが』
 店員が位置関係を地図アプリで調べ、首を傾げた。二つの現場を結ぶ道がない。
 カメラマンは再び斜面を見下ろした。草むらを薙ぎ倒し土をえぐった直線は茂みの中へ続いていた。愛用のカメラで何枚か撮影してから、再びピジョンを呼んだ。
「これがあった場所で足跡を探してくれ」
「えっ」
 鳥の羽音に店員の声が重なった。
「この幅は人間が滑った跡だ。図鑑の人が恐らくここから落ちた。道がないと言ってたが、地形に沿って歩くとどこに出る?」
「調べてみます」
『探しに行くのは待ってください。今そちらに応援を向かわせますから』
「わかってる!」
 ピジョンは道具だけ持ってきた。きっと持ち主はもうそこにいない。
 強敵に襲われ、味方を失い、一人で逃げたとしたら。
「やっぱり行き止まりです。どこかで斜面を上らないと人里や道路には……」
 半端な説明は車両の走行音にかき消された。
 もう応援が来た。安堵は数秒でキャンセルされた。
「逃げろー! オコリザルの群れだー!」
 真っ先にブルーが駆け出した。店員が慌てて追いかけ、山道仕様の四輪車が横に並んだかと思えばすぐ抜かしていった。すぐに土煙と金切り声が迫ってきた。
 カメラマンは斜面に向けて叫んだ。
「戻れピジョン!」
 相棒を待つか、合流を信じて先に行くか、迷った。
 そのわずかな間に危険は大きく近づいた。気づけば先頭の個体が振り回す拳をはっきり目視できる。逃げると決めれば身体は動いたが、相手の速度と勢いに対してタイミングが遅すぎた。
 鳴き声を聞いた。
 背中に強い衝撃を受けた。腕か足か、そもそも技なのか、ただ衝突しただけかも判別できない。
 視界が急速に回転する。とっさにできたのは商売道具を守る姿勢くらいで、相棒の悲鳴には何一つ応えられなかった。


 目を覚ました頃、辺りは静まりかえっていた。
 痛みはない。
 カメラマンはゆっくりと身を起こした。
 まだ森の中にいて、茂みに乗る形で横たわっていたことまでは理解できた。抱えていたカメラも無事のようだ。しかし周囲の様子を確かめると、すぐに違和感が勝った。
 転がってきたはずの斜面が見当たらない。
 薄曇りの白い空から時間を読み取れない。
 相棒の姿がないのは、あの暴走した群れに立ち向かっているからか。格闘と飛行の相性は知っていてもさすがに任せきりは危ないだろう。
「耐えてくれピジョン。今そっちに戻るからな」
 茂みから下りる途中、ふと己の掌を疑った。
 感触がおかしい。厚い葉ではなく硬い紙を押しのけたような。
 足と目で確かめて愕然とした。
 彼を受け止めた茂みも、今踏みつけている草も、精巧な作り物なのだ。頭上に広がる枝葉に触れれば石のように冷たく、指先に力をこめても折れそうになかった。
 木々の間を歩き回ってみたが、どこも同じような景色だった。風がないので余計に静けさが際立つ。
 このカメラマンは仕事のために様々な地方を訪ね、人が住まない土地もたくさん歩いた。どんな環境にもそこに適応した生物がいた。植物が根づかない砂漠や鉱山にさえポケモンがうろついていた。
 しかしここには気配がない。音がない。開けた空間の中で無響室にいるような感覚に陥っている。
 進むほどに確信を強めた。この紛い物の森はセキエイとは全く違う場所にある。そして消えた人々と何らかの関係がある。
 時空の歪み。ウルトラホール。最近行った講演で某博士が紹介していた事例を、どうして今まで忘れていたのか。この世界には足でたどり着けない場所が未だ存在するのに。
 感情のまま握りしめた拳の感覚が鈍ってきた頃、ようやく他とは違う物体を発見した。それは太い枝に吊るされた金属板だった。鉤爪でひっかいたような直線の集合体が文字を形作っていた。
《今やりたいことは何?》
 多くの人間は問いかけを認識すれば返答を探してしまう。彼もそうなった。
 まず浮かんだのは。
「ピジョンを休ませたい」
 つい声に出ていた。聞く相手もいないのに。
「回復できたら、もう一度あいつを探す」
 このおかしな空間の入口が前から森の中にあったなら、元同僚や他の人々も同様に迷い込んだ可能性があった。さらに出口も探さなければ解決にはならない。
 金属板とその周辺を何枚か撮影し、今度は迷いなく歩き出した。
 元同僚が会社でどんな問題に直面したかまでは知らない。あるいは単純に相棒のことを優先して他の何もかもを休んだのかもしれない。自棄を起こしそうな要因がなかったか元上司に聞いておくべきだった。舌打ちが虚しく響く。
「いるなら返事してくれ」
 模造品の茂みをかき分け進む。
「会社に連れ戻しに来たわけじゃない。久しぶりに話したいだけなんだ」
 いきなり届いたメールの文面が頭をよぎった。事情は教えないくせにこれだけは書かれていた。お前との問題ではない、無関係だからこそ話せることもある、と。
 何度も口にした名前は虚空に吸い込まれるばかり。
 闇雲に進んでも仕方ない、何か他に打つ手は。せめて相棒がここにいれば……


 カメラマンは息苦しい感覚によって目を覚ました。
 仰向けに横たわり、愛用のカメラを胸の上で強く抱えていたせいだった。眠っていたと判ると急に力が抜けた。
 夕焼け色の空を枝葉の影が囲っている。深く息を吸うと緑の匂いがした。
 全て夢だった。異空間よりずっと現実的な説明だ。
 起き上がると正面に小さなテントがあった。この辺にキャンプ場はないはずだが、森を丸く切り取ったような空地は設営に適していた。
 足音がした。すぐ隣に人がいた。
「やっと目が覚めたのね」
 くたびれた表情の女がカメラマンを見下ろした。
「ここは?」
「セキエイ高原」
「それは知ってる」
「細かいことはよく知らない。町から遠くて、山頂も登山道も見えなくて、人間が絶対来ないところ」
 女の移動を目で追った。テントがもう一つ設置されていた。
「それは?」
「予備のテント。今から帰るのは危ないから、今夜はこれ使って」
 日没が近い。足元の見えにくい場所をスマホだけに頼って進み、相棒なしで野生のポケモンに対処する。確かに危険だ。
 しかしこの森には毎日捜索隊が入っている。ポケモン達はより広い範囲を探し回れるだろう。なのにこのキャンプ女は誰も来ないと言い切った。自信の源は何なのか。
「貴女は地元の人?」
「いいえ。旅というか家出中。人がいないからここにいるだけ」
 まさか探されている側では。
 カメラマンはスマホを開いた。不明者リストを出した画面に通知が割り込む。位置情報の取得に失敗。電話の発信もしてみたがすぐに切れた。近くに電波を遮るような地形か何かがあるのだろうか。
「なるほど……」
 救助を待つには最悪で、身を隠すには最高の場所だ。
 改めてリストに目を通したが、この女に該当しそうな記録はなかった。少なくとも町や警察には存在を知られていないらしい。
 当人は食事の支度を始めていた。といっても二人分のレトルトカレーを鍋で温めるだけ。熱源をよく見ると電気式の調理器だった。
「焚き火じゃないのって思った?」
 女が懐中電灯を向けてくる。
「この辺に炎タイプはいないから、火を使うのは人だけ。煙が立つと目立つでしょ。それに……」
「それに?」
「……手間なのよ。毎回薪を集めるの。太陽の光は待つだけだから楽」
 反射光でぼんやり照らされる顔が短い沈黙の間だけ笑みを浮かべていたことをカメラマンは見逃さなかった。
 テントの横に充電器があった。金色の虫除けスプレーが転がっている。効果が高くて高価なやつだ。
 そういえば野生のポケモンがいない。家出女の相棒らしき姿もない。夜にピジョンを飛ばさないのと同じで出番がないだけかもしれないが。
「立派なカメラね。ここには仕事で?」
「いや、今日は休みだ」
 カメラマンは元同僚を探しに来たことと、この森で道に迷うまでの経緯を簡潔に話した。
 女は行方不明騒ぎに驚かなかった。噂を知っていたのだろう。奇怪な森の夢は聞き流された。
「あなたが捜しているのはどんな人?」
 カメラマンは元同僚の特徴を説明し、スマホに保存されていた写真を見せた。女はカレーをよそった皿を渡しつつ画面を覗いた。
「見つけたらどうするつもり」
「無理に連れ帰りはしない。無事を確かめて、話を聞ければいい」
 皆と笑いあう写真は遠い日の思い出。ほとんどに人間しか写っていない。
「あいつの口から聞きたいんだ。大事な相棒のこと。一緒に過ごした時間のことを」
「そう」
 会話が途切れた。二人はシンプルなカレーを食べ始めた。良くも悪くもない普通の味だった。
 食事を終えると女は早々に皿や調理器を片付けてしまった。やけに急ぐ理由を尋ねると即答された。
「夜は危険なポケモンがうろつくの」
 冷たい風が吹く。
「今夜はもう寝て、夜が明けたらここを出て斜面を登って。まっすぐ進めば道を見つけられるから」
「どんなポケモンが?」
「狂暴で容赦なくて、人間が縄張りに近づくのを許さない。だから夜明けまでは絶対にテントから出ないで。覗き見もダメ。危ないから」
 念を押してくる女の目が険しい。何かを本気で恐れている。
「もし人が来たら」
「誰が来ても応じないで。とにかく朝を待って」
 カメラマンは最低限の支度をする時間だけ与えられてからテントへ放り込まれた。
 幕を下ろした後、遠ざかる足音はすぐ途絶えた。彼女も小さい方のテントで夜をやり過ごすのだろう。
 スマホが狭い空間を薄く照らす。横たわれるぎりぎりの広さだ。
 ここで一晩、何もかも我慢して待てるのか。
 眠りにつくには早すぎる。横になっても目は冴えるばかりだ。
 手が無意識にカメラを握っていた。今日撮影したものを確認すると、最新の画像は斜面の下の茂みを捉えていた。紛い物の森や読みづらい金属板の写真は見つからない。やはり夢かと飲み込んでから過去の記録を振り返り、気づいた。
 捜索隊の拠点で撮った内の一枚に、部屋の隅で浮遊するスマホが写っていた。ポケチューバー失踪の一部始終を撮影していた目撃者だ。
「そうか、ロトム!」
 近年のスマホOSに組み込まれているロトムには争いを好まない個体が使われる。今カメラマンの手元を照らす一匹も戦力には数えない。連絡や道案内、撮影時には照明を担う助手として連れている。
「ここに来るまでのルートを表示してくれ」
『読み込み中……』
 ロトムがくるくると端末を回転させる。
『ごめん。ここまでしかわかんない』
 人工音声の返答と共にマップが出る。道順をなぞる線は図鑑を拾った斜面で途切れた。
「お前自身はどうなんだ。起きていたんだろ?」
『よくわかんない』
 カメラマンは空振りに肩を落とした。
『近くにポケモンがいます』
 落ち込む暇はすぐなくなった。
 マップ画面にリングマの絵が現れた。セキエイ高原はジョウトに近い。餌を探すうちたどり着く個体がいても不思議はない。
 画面を消し、ロトムには音を出さないように言った。
 暗くなったテントの外で足音がする。右へ左へ、匂いを確かめて回っているのか。近くまで来てこちらに気づいたらどう動くか。もし外で話している間に遭遇していたら。冷静に想定しようと考えを巡らせるほど悪い仮定しか浮かんでこない。
 両手にカメラとスマホを握りしめて息を潜めた。しばらくして風向きが変わった。足音以外が聞こえないまま、リングマは遠ざかったようだった。
 カメラマンは溜め息と共に座り込んだ。
 あの女がやたら急かしたことに納得した一方、テントの中が本当に安全なのかと疑う気持ちも芽生えていた。同時に自身の無力さも噛みしめた。結局隠れて震えていただけ。このままでは朝が来るまで体力より気力がもたない。
 考えた末、横になって目を閉じた。寝袋に入る手間も惜しかった。少しでも体と脳を休めるべきだし、緊張を忘れたかった。
 しばしの休息はテントが軋む音によって途切れた。
 そっとスマホのボタンを押した。画面の切り替えが普段より少し遅かった。ロトムの方がしっかり寝ついていたらしい。
「近くに何かいるか?」
 小声で問うとマップが起動した。相変わらず現在地は不明だが、ポケモン検知は違う仕組みなのか、アイコンが出た。ど真ん中にゴルバットが一体。
 見上げると天井の形が変わっていた。テントを支える梁の上にいるらしい。
 洞窟で逆さになって寝るはずだから移動中だろう。遊び、休憩、または墜落。確か吸血して腹が膨れると重くて飛びづらくなるとどこかで読んだ。
 相手が満腹なら襲ってこない可能性が高い。結論づけて緊張が緩んだ。
 一方で違う懸念もあった。小さくはないポケモンを細い骨組みだけで支えきれるのか。軋む音を聞くたびテントが潰れる未来が頭をよぎり、天井が元の形に戻るまでほとんど眠れなかった。
 カメラマンの瞼の奥に記憶が映る。元同僚やリスト上の人々は今も、こんなに暗く危険な森で迷っている。
 ゴルバットが飛び、というより跳びはねて去ってからテントの外は静かになった。いつしか風の音さえ途切れていた。
 ここは本物の森か紛い物か。今から外に出ても夜半の暗さでは確認が難しそうだ。
 時が止まったような感覚を打ち消したのはロトムだった。機敏な動きで画面が切り替わった。バグを疑わせる空白のマップを、今度は複数のアイコンが動き回っている。どれも同じ画像だ。
「コマタナ……?」
 大量発生。群れ。襲撃。
 カメラマンは息を呑んだ。
 こんなところにテントを設置するのは人間しかいない。リングマやゴルバットにはわざわざ構う理由がなかっただけのこと。
 今度もうまくいくなんて保証はどこにもない。
 しかも敵だらけの環境で生きてるこいつたちは。
(ここを取り囲んでる)
 ただ通過するのではなく、幕一枚隔てた外の空間で足を止めていた。金属が擦れるような鳴き声でわかる。
(何か奪いたいのか、追い出したいのか)
 ロトムが身震いした。そういえばゴーストタイプだ、相性の悪い相手の気配に怯えるのも無理はない。
 スマホを懐に収めて外の様子をうかがった。マップの表示より多くの個体が集まっているようにも聞こえる。
 一際鋭い音がした。コマタナたちの足音が一斉に同じ方向へ動いた。群れを統率するキリキザンの声か。人には判別できない号令によって、カレーを食べた時に座ったあの辺りに、手下たちが集まろうとしている。
 カメラマンはテントの出入口を塞ぐファスナーに触れた。片手が通る分だけ開けてカメラのレンズを突っ込み、ナイトモードで起動する。夜通し張り込みをした日々を指先が覚えていた。
 小さな画面に映ったコマタナたちはどれも背を向けていた。右から左へゆっくりとレンズを動かして彼らの配置を観察した。輪になっているようだ。中央に号令の発信者がいるに違いない。
 記憶と勘で割り出した位置に焦点を合わせた。星明かりしか頼れなくても判った。銀色の刃がそこにある。
 下に伸びた刀身はコマタナの体のそれよりずっと長く、幅もあり、強靭に見える。
 そして、おかしい。
 キリキザンの腕は決して棒状ではなかったはずだ。まさか噂に聞く総大将、某地方でまれに現れるという、彼らがさらに進化した姿なのか。
 違和感が手元を震わせ、レンズの向きが変わった。
 上へと振れたそれが映したのは、両脇にキリキザンを従えた、その立派な兜より少しだけ背の低い……人間だった。
 あの家出女だった。
 とっさにシャッターを切り、そして思い出した。
『夜明けまでは絶対にテントから出ないで。覗き見もダメ。危ないから』
 彼女の警告を破っていることを。
 たとえカメラ越しであっても、見るなと言われたものを見たことに変わりはなかった。
 撮影時のかすかな音を聞き取ったのか、一体のコマタナが振り向き、すぐ周囲の仲間が反応した。カメラマンは慌ててレンズを引っ込めたがもう遅かった。多数の足音と威嚇の鳴き声がこちらに向かっている。
 聞いただけで耳が切り刻まれそうな振動に囲まれ、確信した。
 今見たものは襲われる場面ではない。戦いの構図でもない。
 あの女こそ外来種の集団を従えたトレーナー。つまり。
(襲わせていた……?)
 真相を確かめるという発想は浮かばなかった。この明らかな窮地からの脱出で手一杯だ。
 ポケモンとは違う足音を聞いた。女の方も異変に気づいたのだろう。
 ここは彼らの間合いで縄張りの中心。号令ひとつでテントごとみじん切りにされてもおかしくない。
 今あるものは。外の様子は。
 選択肢は。
「ロトム。スマホから出られるか」
『えっ』
「数秒でいい。お前だけが頼りだ」
 計画を小声で手短に説明する間ロトムは震えていたが、渋々といった様子で承諾した。
 外のざわめきがまだこちらに打ち寄せてこない。
 カメラマンはベルトを解いて商売道具を腰に括りつけた。手足を動かして軽くほぐすと、片手にスマホを握りしめ、片手でテントの出入口を勢いよく開けた。
 正面にコマタナがいる。数える気が失せる程多い。
「今だ!」
 せいぜい『でんきショック』程度の火花でも、不意をつくには充分だった。一斉に振り上げられた刃が止まって見えた。
「戻れ!」
 スマホを掲げて走った。向かう先は決めていた。充電器が置いてある、もう一つのテントの方へ。
 食事のとき見た位置に金色の虫除けスプレーが転がっていた。拾った掌で感じた重みは想定した通りだった。レバーに指を掛け、引いた。そして白い煙が視界を覆いきる前に逃げ出した。
 森に入ってからは浮遊するスマホを追った。上りの斜面はすぐ見つけたが、追っ手の声もすぐ後ろに来た。
 迷わず斜面を登ったのはあの女に言われたからだ。覗き見さえなければ、大人しく朝を待てば、何も知らないまま帰らせてくれたのでは。そんな想像の先に見つけた仮説を確かめたかった。
 コマタナが追ってくるのはあの女の指示か。進む足音は案外遅かった。そういえば俊敏なイメージはない。時折振り返ったが距離はほとんど変わらなかった。しかし道なき坂は人間にとっても険しく、自身の足がなかなか進まないのは誤算だった。
 一方で的中した予想もあった。何度見てもキリキザンの姿がない。途中まで手下に任せとどめをさすという習性を無視できる切り込み隊長はいないようだ。
 加えてスプレーの効果か、怖い群れを恐れてか、他の野生ポケモンが割って入ることもなかった。
 このまま道に出られたら。あるいは。
 端末のわずかな灯りに照らされた希望は、不意に途切れた。先導していたロトムが突然懐に飛び込んできたのだ。
 音を聞いた。斜面の上にもコマタナがいる。どこから先回りを許したかはたいした問題ではない。
 あの女は指示に背いた場合のことを言わなかった。答えは自明だからだ。野生の夜行性ポケモンに生身で挑む羽目になり、結果次第ではあのリストに自分の名が加えられるだろう。
 最悪に近い想像を振り払うようにスマホを引っ張り出した。
 待ち受け画面の光にコマタナたちが怯むはずもなく、包囲網がじりじりと迫る。スプレーの効果はもう切れている頃だ。
 でも今は表示を確認するだけで事足りた。
 頭上の瞬きを見逃さなければ充分だった。
「吹き飛ばせ!」
 カメラマンの言葉に高い鳴き声が答えた。強風が斜面をなぎ払った。
 コマタナたちが転げ落ちていった。人間が足を踏みしめても圧されかけたのだ、より細い脚では耐えられないのも無理はなかった。
 そうして一人残ったカメラマンの横にブルーが降り立った。スマホを両手で握りしめている。人間を見上げて得意気に笑ったが、すぐに泣きそうな顔へと変わった。
 数体のキリキザンが斜面を登ってくる。手下を一掃された今こそ彼らの出番だ。しかし構えた刃は最初のターンへ入る前に止まった。
 視線の動きを不思議に思ったカメラマンは、ゆっくりと振り向き、見上げた。
 翼を広げて滞空する鳥がいる。
 羽ばたく姿は闇でも影でもない。
「ピジョン!」
 破暁の光が広がる。
 より大きく、より力強く。
 その輝きの名はいつの時代に定められたものか。
「進、化……」
 トレーナーの呟きは高らかな鳴き声にかき消された。
 一層強い風に視界を奪われた数秒の間に、両肩を掴まれた。左右から食い込む爪の痛みを感じるより先に体が急上昇していた。
 キリキザン達が一瞬で暗闇の底に埋もれた。
 上昇の速度が落ち着いてきた頃、ようやく知識と理解、そしてスマホロトムの飛行が追いついた。足にしがみつくブルーの震えが今こそ現実だと教えてくれた。
「まさかお前が来てくれるなんてな」
 カメラマンは肩を支えるピジョットの脚を撫でた。
 テントの包囲網を抜けたら坂を登り道路を探す。少しでも電波が届いた時点で捜索隊に位置情報を送り、救援を求める。ロトムへの指示はそれだけだった。
 ピジョンは夜間飛行が得意と言い難い。それでも駆けつけたのは自らの意思だろうか。
 ブルーが持っていたスマホは通話中のままだった。カフェ店員が繰り返し相棒を呼んでいた。
「聞こえている。ブルーは無事だよ」
『ああよかった……えっ!?』
 電話の声が混乱している。
 体に感じる風の向きが変わった。降下を始めたピジョットの嘴の先に、道の途中で停まろうとする車があった。


 カメラマンの証言は皆に衝撃を与えた。
 朝には山狩りが始まり、捜索対象は人間からキリキザンに変わった。テントが消えたとしてもすぐに足取りを掴んでみせる、とガーディ連れのトレーナーが自信たっぷりに宣言した。
 カメラマンは拠点で休んで疲れを取るよう言われた。指示がなくてもベッドから離れたい気分にはならなかった。無理やり寄り添ってきたピジョットの手触りが心地よすぎて離れがたいのもあったが、何より考えることが多くて他の動作に意識を割けなかった。
 消えた人々、昼の捜索、転落の痕跡、奇妙な夢、森の空地、届かない電波、ポケモンの群れ、用意されたテント。
 そもそもあれはどこだったのか。
 昼間に見た斜面の下がそうだったなら、落ちた直後にピジョンが追いつけるはずだ。
 救出されるまでの流れはどうか。危ない橋を渡った自覚はある。生還したからこそ細かな反省点はきりがない。しかし今回たどった結果には何故か既視感がつきまとっていた。
 しばらくして唐突に思い出した。
 学生の頃に触れた各地の民話に、似た話が幾つかあった気がする。
 迷える旅人を一晩泊めてくれた親切な人。ただし条件つき。見てはいけないと警告された扉を旅人は開けてしまう。正体を現した怪物からなんとか逃げきれたという幕切れは、確かカントーの少し北方に残る言い伝えだったか。
 鬼女に追われる旅人が光り輝く何かに助けられる場面の挿絵を思い出したが、何が介入したかは曖昧だった。少なくともポケモンとは書いていなかった。その単語の定着は後の時代で、ポケモン使いなる表現も現代語訳にしかないからだ。
とにかく昨夜の出来事は昔話の再現のような体験だった。
(いや、待てよ)
 カメラマンは考えを巡らせる。
 自分だけあんな体験をしたとは考えづらい。相次ぐ失踪と関係あるとしたら、それはどの時点からか。
 もし逃げきれなかったら。
 もし約束を守れていたら。
(無事に……?)
 途端にじっとしていられなくなり、ベッドを、部屋を飛び出した。
 拠点でも町の中でも、出会った人々にまず体調を心配された。初対面でも不安になるほど顔色が悪かったことは後で知った。だが謎を解明したいと願う目に圧倒された者が少しずつ情報を提供し、複数の当事者へたどり着いた。
 一晩を森で過ごし忠告通りに脱出した人々には共通の体験があった。
 当時は単独か、仲間とはぐれていた。
 町の人間ではない女に出会った。
 野生ポケモンを警戒しろと言われ、テントか洞窟に匿われた。
 朝になったら女は姿を消していた。
「あと、私だけかもしれないけど」
 一人の言葉に耳を疑い、もう一度確かめて回った。全員がまさに同じ森を歩いていた。中には紙の葉を一枚持ち帰っていた少年もいた。
 紛い物ばかりの世界は夢ではなかったのだ。
 カメラマンは仕事道具の中身を確かめた。テント内から撮影した不鮮明な画像の直前、連番を持つはずのデータが数個欠けていた。
 自身の操作に覚えはない。だが当時、写真を消せた人物が別にいる。
 恐らくそいつは全てを知っていて、あの奇妙な空間に出入りできて、キリキザンたちを束ねるに足る何かを持っているのだろう。それもトレーナーではなく群れのボスとして。
 カメラマンが急いで拠点に戻ると、スピアーでも来たかのような騒ぎになっていた。捜索隊の面々に囲まれていたのは。
「お前……」
 ずっと探していた元同僚が、上の空といった様子で座っていた。
 目と目が合った。
 友人はわずかに笑みを浮かべた。その顔が瞬く間にぼやけて見えなくなった。


 本人は失踪中の出来事をほとんど覚えていないという。ただぼんやりと歩いていただけ、との証言が真実でなければ。その代わり、前は一度も聞いたことがなかった相棒の思い出を、トージョウの滝にも負けない勢いで話してくれた。
 依頼してきた元上司に一連の報告を送ると、労いのメールと追伸が届いた。
《その話はこれきり人に打ち明けない方がいい。追うのもやめておけ。ただの勘だから根拠は聞くな》
 同じ頃、捜索隊が森の奥で無人のテントを発見した。あの女が使っていたものと同じ種類、しかし数年放置されたように朽ち果てたそれの中には、不明者たちの所持品が詰め込まれていた。
 一連の聴取を終えたカメラマンは町を発つことにした。目的を達成し、本来の仕事に戻るときが来ていた。
 ゲートを抜け、高原の麓へ出るバスの乗り場を目指し歩いていると、不意に周囲の音が消えた。
 木の陰に家出女が立っていた。
 聞き込みの途中よぎった仮説を思い出す。こいつはもしや。
「攻撃してこないのね」
「そっちが斬りかからない限りは」
「私は私のルールに従って動くだけだから」
「ルール?」
「私は生い茂った枝葉を刈り取る鋏。自分のことだけ考えて生きている人間は少しくらい減ってもこの世界の存続に影響しないから連れて行く。でも、あなたはお友達を忘れなかった。だから帰してあげた」
 女は淡々と語る。
「お友達はあなたを思い出した。だから返してあげる」
「他の人たちは」
「本人次第だけど」
 女は少しずつ遠ざかっている。どこかに刃を隠しているはずだが、そうは見えなかった。
「少なくとも増えることはもうないでしょう。あなたがこの物語を終わらせたのだから」
 草むらが揺れた。
 カメラマンが気を取られた一瞬の間に、女は消えていた。
 それからの道のりでは何も、誰も、飛び出してこなかった。


 この世界にポケモンという呼び名が生まれるまで、彼らは様々な名前で括られていた。
 共通する一つの性質がそれとそうでないものを明確に分類するまで、彼らは生きる場所や人との距離感、あるいは他の基準により分けられてきた。
 カミ、セイレイ、バケモノ。
 科学とポケモン研究の発展で多くが正体を暴かれた今も、その括りから辛うじて外れたものたちが、どこかにいる。

 セキエイ高原の怪事件は途絶えた。
 後に他の地方で似たような噂があっても、不思議とそれが引き合いに出されることはなかったという。