[ Chapter1「不本意な福音」 - B ]

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 金切り声は廊下に面した障子の向こうから聞こえてくる。
「お母さん、それは置いてって! 最近はそういうのを飛行機に持ち込んじゃダメなの!」
 サイガが脱いだ靴を拾い上げて玄関の内側へ戻す間にも、パスポートの期限がどうとか、向こうに着く時間がどうとか、情報の断片が相次いで耳に刺さった。
 その障子の向こうにあるのは居間だ。そこにいるらしい菜摘はどうやら、泊まりがけで国外に出かける母の荷造りを手伝っているようだった。
 靴を置いたサイガは数秒考えてから、足音を立てないように玄関を離れた。縁側には引き返さない。居間をコの字型に囲む廊下を別の方向へ進み、家屋の北東に位置する自分の部屋へと忍び込んだ。
 静かにふすまを閉ざせば、もうそこはひとりきりの空間だ。
 サイガは大きく息を吐き出し、部屋の中心に寝転がって目を閉じた。

 物心ついた頃から、サイガにとって父親という人物は赤の他人だった。
 母や姉や祖父母の存在はためらいなく受け入れてきたのに、どういうわけかその男に限って、人が肉親に対して抱く好意的な感情がいつまでも芽生えてこなかった。あるのは自分たちと同居していることへの違和感と、その人物の言動がもたらす嫌悪感。失踪の事実が発覚した際も、他の家族が慌てる中、当時小学生だったサイガだけは内心喜んだほどだった。
 しかしサイガは間違いなくその男の血を引いていた。思い知らされたのは中学校に入る直前。正月に会った親戚の一言が少年の心を深くえぐった。
「お前、陽介に似てきたな。若いころのアイツにそっくりだ」
 誰よりも見たくない顔が、すぐそこの鏡の中にいるなんて。
 おぞましい現実から逃れるため、サイガは子供の頭で考えつく対応策を手当たり次第に試した。数々の失敗と同級生の協力によって行き着いた方法が髪を染めることだった。当然大人たちからは雷雨のごとく叱られたが、低空飛行の成績が髪色を変えた途端に持ち直し、一時は危ぶまれた高校受験も合格ラインに到達したという冗談のような展開が自然と周囲を黙らせた。
 努力の甲斐あって、ようやく鏡を見ても何も思い出さなくなってきた。
 そんなときに今回の知らせが入ったのだ。

「……最悪だ」
「ほんと最悪よね」
 独り言のはずだったのに反応があった。
 サイガは目を開けた。視界の端を見ると、いつの間にか開いていたふすまの縁にもたれかかる人がいた。ボブカットとTシャツの絵柄に見覚えがあった。
「帰ってたならどうして顔見せないの。せめて『ただいま』くらい言ってよ」
 菜摘が鬼のような形相で弟を見下ろしていた。
 跳ね起きたサイガは、とりあえず姉に頭を下げる他に、できることを思いつかなかった。

 日が暮れた後。
 仕事を終え帰宅した祖父、夕食の支度を引き受けた祖母が食卓に着くや、サイガは聞きたくもない話に付き合わされることとなった。
 ちゃぶ台を囲む空気がどことなく重い。
「ニューヨーク。陽介もまたどうしてそんなところに」
 姉弟の母親、美由樹(ミユキ)の話を聞いた祖父母は顔を見合わせた。彼らは陽介の両親で、美由樹は嫁という立場にある。
「さあ、そこまでは。いつから滞在していたのかも、まだわからなくて」
 第一報の電話を受けたという美由樹が説明した話はこうだった。
 彼女の夫は昨日の夕方――現地時間で前日の深夜――頃、マンハッタン中心部をタクシーで移動中、交通事故に遭ったという。交差点を左折したタクシーが対向車と衝突し炎上。陽介はかろうじて後部座席から脱出したものの、全身に大やけどを負い、意識不明の重体とのことだった。
 食卓の空気はさらに重くなった。
「私は明日の飛行機でニューヨークに行きます。朝一番に家を出ますので……」
「そうだお母さん、さっき柏木さんから電話あって、空港まで車で送ってくれるって」
 菜摘は思い出した伝言の後、一息置いてから弟を睨んだ。声の震えをごまかすように。
「今夜から一緒に家事手伝ってね。さっきサボった分も明日働いてもらわないと」
「あの……俺、明日から学校あるんだけど」
「始業式でしょ知ってる。でもそれなら終わるの早いんだから早く帰ってきて」
「いや、部活……新人戦近いから練習とミーティングあるんだけど」
「新人戦? 出られるわけないのに?」
 鼻で笑われた。サイガは黙って白飯をかき込んだ。今夜は何を食べてもどこか物足りない感じがした。
 長男以外は全員が箸を止めていた。食べるよう促す声もない。
 主菜の煮魚が冷めるまで続きそうだった沈黙は、幸いそうなる前に打ち破られた。空気を動かしたのは居間の片隅で光を放っていたテレビだった。
『次のニュースです。ニューヨーク市内で現地時間の未明に発生した……』
 家族全員の目がブラウン管の画面に向けられた。
 女性アナウンサーが概要を読み上げる途中で映像が切り替わった。真夜中のビル群を塗り潰すように煙を撒き散らす炎の塊。通行人が手持ちのビデオカメラで撮ったという動画は細部が不鮮明で、画面手前の消防隊員が活動していることは読み取れるが、他に誰がいるのかよくわからない。
 判明した負傷者の身元を伝えるテロップが表示されると、美由樹が箸を取り落として泣き崩れた。菜摘がすぐ母の背中を支えたが、涙は誰にも止められない。
 サイガは肩と背中を震わせる母の横顔、連鎖反応を起こす寸前の姉の目を見てから、なんとなく画面に視線を戻した。
 画面端に救急車が映り込んだ直後。
 映像が一瞬だけ大きく乱れた。
 アナログなノイズの中心に白い人影が見えた。
「……ん?」
 まばたき一つの間に映像は元通りになり、救急車から人が出てきて画面奥へ駆け出す様子を伝えた。低画質の世界には確かに怪我人がいたようだ。
「何だ今の……」
「うん? どうしたの?」
「別に」
 サイガは祖母の問いかけに首を振り、自分の目にも心の中で異を唱えた。
 今のはただの錯覚だ。意味なんてない。
 気を取り直して漬物の器に手を伸ばす。サイガが率先して食事を再開する間に、ニュース番組は次の話題に移っていた。


 夜更け過ぎ。
 多くの人間が一日の活動を終えて眠りについた。しぶとく残っていた明かりも少しずつ数を減らし、地上の世界を夜の色が侵食していく。
 そんな光景を静かに見下ろす瞳があった。
 丘の上の高層マンションより高い位置に佇む存在は、人間の目には映らない。もし映せる者――それはこの世界でもほんの一握りしかいない――がこの場にいたとしても、簡素なつくりのローブ、目深にかぶったフードという組み合わせに体格や人相の推測を阻まれたことだろう。そして彼らは関心を人物の背後へと向けたに違いない。
 これから来る朝焼けの初めの一筋を思わせる、淡く美しい光。
 雨に打たれた水面から波紋を切り抜いて固めたような、薄く繊細な模様の、翼に見えるもの。
 人の世では決して目にすることのかなわない造形。
 そんなものを背負った何者かが、家々の窓の光を失ってもまだ少しだけ明るいニュータウンの一地区を、静かに観察していた。