[ Chapter1「不本意な福音」 - F ]

back  next  home

 目を覚ましたサイガは、自分が仰向けの姿勢で水面に浮かんでいることに気づいた。
 青空の中心に輝く太陽が眩しい。
 そして全身が痛い。
「西原くん。にーしーはーらーくーん」
 呼ばれた気がした。サイガは顔を上げ、首から下は一度水に沈めて、直立の姿勢を取った。あたりを見回すと、そこには見慣れた色の、見慣れた風景が広がっていた。
 飛び込み台。その奥に更衣室の古びた壁。さらに遠くに、体育館の屋根。
 プールサイドを囲む金網と、その手前に立って手を振る人。白と紺の制服。翻る短いスカート。大きな胸の上で揺れるスカーフ。同じリズムで揺れるポニーテール。
「こんなところで何してるのー、ア・ヤ・メ・ちゃん」
「アヤメって言うな!!」
 反射的に叫んでから、サイガは個人的禁句を口にした相手の顔を認識した。続けて今の自分の状態を認識した。頭の中が水より厳しく冷えていく。
 手を振っていたのは水泳部の土屋先輩、先月部長に就任した二年生で。
 ここは学校の南西の端にある屋外プールの中で。
 自分は制服一式を着たまま水中にいて。
 何か大事なことを忘れてないか?
 サイガは引っかかるものを感じながら、黄色のコースロープで仕切られたコースを横断して端まで泳ぎ着き、プールサイドに上がった。
 土屋部長がにこやかに歩み寄り、膝をつくサイガを見下ろした。
「西原くん。今日は練習前に部室でミーティングって私言ったよね」
「はい」
「一年の子から聞いたんだけど、あなた小森谷先生に呼び出されていたのよね」
「はい」
「それが済んだらミーティングに合流するって言ったのよね」
「はい」
「じゃあどうしてそれすっぽかして、勝手にプールに入って着衣泳なんか始めたのかな?」
「えっ」
 その瞬間にサイガは今まで自分がどこにいたのかを思い出した。
 ひざまずいたまま部長から目をそらし、校庭を挟んでプールとほぼ対角に位置する校舎を見る。どんなに目を凝らしても、屋上を囲むフェンスは一枚も欠けていなかった。
 自分の記憶に自信がなくなってきた。
「マジメにやる気あるの? 目標タイム超えたら競技会出ていいって私言ったけど、それクリアできたら後は何してもいいってわけじゃないこと、わかってるよね?」
「すいません」
「まあ、やっちゃったことはしょうがない。とにかくさっさと着替えて部室に来てね、ジャージでいいから。みんな待ってるし」
「はい」
「今日は練習禁止。あと部活終わったら一人で後片付けと掃除お願いね」
「……すいませんでした」
 ペナルティを告げられたサイガが改めて頭を下げると、部長に肩を叩かれた。行ってよし。無言の合図に押し出され、サイガは逃げるようにプールサイドから退去した。
 水面に反射する日差しが眩しい。

 校庭とプールを直接結ぶ扉は常に施錠されていて、行き来するには必ず男女の更衣室のどちらかを通る必要があった。男子更衣室は無人だった。蛍光灯のスイッチが切られた室内は薄暗く、止まった換気扇から差し込む光でかろうじて床の起伏がわかる程度だ。
 プール側の出入口に立ったサイガはまず上履きと靴下を一度に脱ぎ、裸足で中に入った。靴下を絞り、上履きをひっくり返して底に蓄えられた水を捨て、二つを両手に持つ。それから反対側の出入口へそれらを置きに行こうとして、肝心のジャージが部室に置いてあることを思い出した。これでは着替えようがない。
「マジで何なんだよ今日は……」
 まだ一日の半分しか過ぎていないはずなのに、サイガの両肩には一週間練習漬けで過ごした後のような疲労感がのしかかっていた。殴られた記憶のある眉間や蹴られた気がする腹に加え、体の背面全体にじわじわと痛みが残っている。とりわけ後頭部。何かにぶつけたようなのだが、それだけは思い当たる節がない。
 殴られたところまでが事実だとしたら、その後に何が起きたのか。
 プールに飛び込むまでの間に自分が何をしていたのか。
 どんなに考えても全く思い出せなかった。
(……っていうか、本当にあれ、実隆だったのか?)
 サイガは靴下を握ったまま手の甲で額に触れ、首をかしげた。
 普段と違いすぎる振る舞いといい、色付きのサングラスでもかけて見たような世界といい、考えるほどおかしな点ばかりが思い出される。
 考えるのをやめよう。そう思い直した直後、ふと部屋の隅が目に入った。
 ロッカーの脇で一人の男が正座していた。
「うわっ!?」
 ついさっきまでそこには誰もいなかった、だからこその驚きだった。しかしその人物の姿を確かめてみると、サイガは改めて、頭を殴られたような衝撃を受けた。
 見覚えのある顔だった。
 できれば忘れたい顔だった。
「お前……」
「ああ、その冷たい目。やっぱり彩芽(サイガ)だ。全然変わってない」
 西原陽介は座ったまま息子を見上げ、顔をほころばせた。
 顔は薄汚れているし、髪は天然色で切り方も異なる。それでも鏡で見る自分といくつも共通点を見いだせることに、サイガはこの上ない悔しさを覚えた。
「でも大きくなったな。うん、立派になった。お父さんは嬉しい」
「なんでこんなところにいるんだよ。ニューヨークで死んだんじゃなかったの」
「え、いや、それちょっとひどい……」
 息子の一言に陽介がうろたえる。言い切ったサイガの方は、父親を名乗る男を見下ろしながら、次第にその姿に違和感を覚え始めていた。
 幽霊にしては頭から足まではっきりと見えるし、どこも透けていない。しかし顔色は青白いを通り越してほぼ白に近く、一方で髪や目は異様に暗く見えた。人間が備えているはずの色彩が足りない。モノクロの映像でも見ているようだった。
「……まさか、本当に」
「待て待てちょっと待って、聞いてくれよ、話だけでも」
 サイガが半歩下がると、陽介はすぐに手を伸ばしかけた。引きとめようとしていた右手は届かない。陽介はしばらく置いてからしょげた顔で手を下ろした。
 あの頃と同じだ。
 遠い昔の記憶、この男が妻にすがりつく姿を頭に浮かべ、サイガは奥歯を噛み締めた。
「それが……そのことなんだけど、さ」
 陽介はしばらく目を泳がせてから、正面を向いて両手を床についた。不信の目を向けるサイガの前で、ゆっくりと肘を曲げ、頭を下げる。そしてこう言った。

「頼む、彩芽。俺の代わりに死んでくれないか」

 父は額を床につけた。
 息子の両手から靴下と上履きが同時に滑り落ちた。
 水が跳ねる音が遠ざかっていく。

「……はあ?」
 サイガが心からの疑問符を口にするまでに、ひどく時間がかかった。しかし一度口に出すと、氷点下に冷えた感情が一気に沸点まで跳ね上がった。
 散々聞かされた悪いニュース。自分に襲いかかった悪夢のような出来事。無関係だと思っていたことが、頭の中でひとつに結びついたのだ。
「そういうことか。さっきのはお前がやったんだな!」
 怒りに任せるままサイガは右手に拳を作り、土下座し続ける陽介の頭上に振り下ろした。
 ところが、衝撃を与える直前、陽介の姿は音もなく消え去った。勢いづいた拳は床を全力で殴りつけることとなった。
「いってぇ……!!」
 サイガは腕を低くした姿勢のまま数秒固まり、それから片膝をついて座り込んだ。右手の甲を左手でさすりつつ振り返る。真後ろに立つ影が目に入ると、倍増した怒りを込めて睨みつけた。
 そして凍りついた。