[ Chapter1「不本意な福音」 - G ]

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 サイガの背後に立っていたのは陽介ではなかった。
 黒を基調とした迷彩柄の服をプロテクターや防弾チョッキで覆った、重装備の歩兵そのもののスタイル。顔は目元以外が暗い色のマスクとヘルメットに隠されて分からない。防具の破損や焦げた跡がやけに生々しく見えた。
 テレビでしか見たことのない、海の向こうの戦場が、そこにあった。
『何故、そう考えた?』
 傷ついた兵士が言葉を発した。
 そのときサイガは、片膝をついて振り返った姿勢のまま、筋肉も思考も硬直していた。声を耳にしてようやく頭が動き始める。自身が置かれた状況を思い出すと、質問の指す内容が直前の自分の行動、さっきまで目の前にいたはずの男に拳を振るった理由であると気づいた。
 答えようとして相手の顔を見上げ、開きかけた口が止まった。
 聞きたくもない不快な声が今度は天井から降ってきたのだ。
『待ってくれサリエル、まだ話は終わってない! もうちょっとだけ……』
『もういい。話にならん』
 謎の人物が苦言を発した直後、うめき声が聞こえたかと思うと、それきり天井は静かになった。
 冷たく突き放したその声はサイガにとって聞き覚えのあるものだった。
 聞く者を威圧する深い響き。屋上で窮地に立たされたあのとき、突然割り込んできた声と、全く同じもの。
『始めに言っておくが、先刻の一件に西原陽介は直接関わってはいない。真犯人は既に始末した』
 サイガを見下ろす両目が黄金の輝きを放っている。それは謎の人物が持っている唯一の色だった。
 その目をただ見上げただけで、言おうとしていたことがわからなくなる。
 言葉が喉の奥で溶けていく。
『西原彩芽。心して聞け』
 唐突にフルネームを呼ばれ、サイガは目を見開いた。
 何故か立ち上がらずにいられなくなった。静かに体を起こして、歩兵に相対する。右手の拳はもう痛みを忘れていた。
『貴様の父親はまもなく息を吹き返す。それは本人がそうなるよう願い、相応の対価を支払うことに同意したからである。我輩は願いを聞き入れ、その対価として、本人の実子である貴様の魂を徴収することを決定した』
 耳を疑った。
 願い? 対価? 魂?
 話が突然意味不明な方向に転がり始めている。それも戦場帰りの現代的な兵士には結びつかない単語のオンパレードだ。
『西原陽介の子、彩芽よ。今日から貴様は我が下僕、所有物となった。これは宣告である。何者であっても覆すことはできない』
 サイガは立ってもなお上にある相手の目を見上げた。
 理解が追いつかない。
『安心しろ、ここで命を奪いはしない。当面は生きていてもらう必要がある』
「……何それ」
 一言が無意識に口からこぼれた。
 正体不明の人物から目をそらせないまま、サイガは浅く息を吸った。
 考えることを放棄した頭から勝手に続きが湧いてくる。
「どこの誰だか知らないけど冗談じゃねーよ。なんで俺が、あんなクズのために」
 ひとたび声に出すと、さらに滑らかに言葉があふれてきた。
 そして、
「俺の命は俺のもんだ。誰にも渡さねえ。とっとと帰れ!」
 宣言した。
 張り上げた声は壁に少しだけ反響してすぐに消えた。
 静まり返った室内で、歩兵はしばらく身動きせず、ただサイガを見下ろした。純金の輝きがわずかにかげる。
『帰れ、だと?』
 声の威圧に不快感が加わった。
 沈黙を破った謎の歩兵はおもむろに左手を掲げた。防具を囲うようにいろいろと物騒な武器をぶら下げているが、そのどれにも触れず、分厚いグローブだけの手を広げてサイガに向ける。右腕は動かさない。
『戯けたことを言うな』
 そして、サイガの目と鼻の先で、鍵をかけるように左手首を回した。
『取引は既に成立した。貴様は差し出されたのだ』
 言い返そうとした瞬間、サイガの首筋に何かが触れた。直後にその「何か」は首を一周、巻きついたかと思うと、急激に収縮を始めた。
 突然強烈な力に首を絞められたサイガは即座に反論を放り出し、見えない凶器に両手の指をかけて引き剥がそうとした。しかし指先さえ通らない。
 呼吸と血流を止められたまま悶え続け、ついに視界が歪み始めたところで、謎の歩兵が静かに左手を下ろすのを見た。同時に首を絞める力が緩むのを感じた。サイガはふらついてその場に崩れ、むさぼるように空気を吸った。
 呼吸を取り戻した反動で咳き込むサイガの頭上から歩兵の声が降りてきた。
『何度でも言うが、既に貴様の命は我が手中にある。何人(なにびと)にも奪わせはしない。もちろん、貴様自身にも』
 サイガが呼吸を落ち着かせてから顔を上げると、そこに歩兵の姿はなかった。しばらく待ってみたが再び声が聞こえることはなく、陽介が割り込んでくることもなかった。
 今度こそひとりきりになった。
 ぼんやりしていた頭の片隅で、ふと、自分がここで何をするはずだったのかを思い出す。
「……そうだ、ミーティング!」
 手から落としていた靴下を拾い上げ、サイガはこの日何度目だかわからない思考停止に陥った。
 靴下と上履き、まんべんなく濡れていたはずの持ち物が、乾いていた。
 着たままだった制服も完全に乾いていた。
 わけのわからない会話はほんの数分か、せいぜいもう少し長いだけの出来事だと思ったのに。そういえばプールから引きずってきた全身の痛みもだいぶ和らいでいる。
(今……何時だ!?)
 嫌な予感が本当なら時計を探す暇もない。
 サイガは靴下をスラックスのポケットに突っ込み、素足に上履きをつっかけて更衣室の外へ飛び出した。

 プールと体育館の間に位置する部室棟、一階の端にある水泳部部室に、息を切らしたサイガが飛び込んできた。
 他の部員たちが揃って、安堵と苛立ちの混ざった目で遅刻者を見た。
 ホワイトボードの前に立っていた土屋部長は目を丸くした。
「思ったより早かったわね?」
 サイガは部長の発言を一瞬理解できなかった。しかし彼女の背後の壁にかかった時計を見て、プールに飛び込んだときのように、体が上から下へと冷えていった。
 針が指し示す時刻はミーティング開始予定の十五分後。
 生徒指導室に呼び出された時点で覚悟していた、寄り道していなければたどり着けていただろう予想と、ほとんど離れていない数字だった。
(何が、どうなってる……どこまでが、夢?)
 せっかく間に合ったミーティングが全く頭に入らない。気がつくと部長が終了を宣言していた。

 ペナルティは忠実に実行された。練習は見学。掃除は単独。見かねた友人たちが助け舟を出そうとしたが、一人残らず部長に追い返された。
 ようやく下校を許可された頃には日が傾いていた。サイガは一年三組の教室に戻り、自分の席に放置していた学生鞄を回収した。そして中から携帯電話を取り出し、入水させずに済んだことにほっとしながら待ち受け画面を呼び出した。
 メールが一通届いていた。差出人は菜摘だった。
《お父さんの容態が安定したって。一応知らせておくね》