[ Chapter2「未熟者、地上に立つ」 - C ]

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 校門脇で起きた事件が、目撃者たちの口を通して学校中に知れ渡っていた頃。

 若き天使は街の中を一人歩いていた。
 その背に翼はない。その手に武器はない。前回この街を訪れた際に着ていたローブさえまとわず、南東からの強い日差しの前に素顔をさらけ出している。持ち物はただひとつ、脇に抱えた真っ白な装丁の本だけだった。
(暑い……)
 最初は何度も口にしていたフレーズが、復唱するうちに胸の奥から出てこなくなった。今や彼には口を開く労力さえ惜しかった。
 風もなければ雲もない空の下。
 若き天使は自転車に乗った中年女性とすれ違い、その視線が確かに自分へ注がれたところを目撃した。次にすれ違った老人が物珍しそうに見上げてくる様子も見てしまった。彼は振り返らず進んだが、数歩と進まないうちにあるものが目に入り、立ち止まった。
 コンビニの窓ガラスに一人の若い男が映っている。
 麻糸を束ねたような色の巻き毛は雑にかきむしられたまま乱れ、白い肌は熱を帯びて赤みがかっている。白い半袖シャツの首回りや両脇は大量の汗を吸って色が変わっている。ガラスの向こうの店内がもう少し暗ければ、薄い青色の目もはっきり映っただろう。
 それが今の彼の全てだった。
 今、若き天使の姿はどんな人間でもはっきり見ることができた。しかもこの街で見かける人々と大差ないのは半袖シャツにチノパンという服装だけで、髪色だけでなく顔立ちや背丈も彼らの平均像とは大きくかけ離れたものであるために、誰もが驚きや好奇の目を向けてくるのだった。
(これが人間の目線というやつなのか)
 そんなことを考えていると、ガラスの向こう側で女性店員が見惚れた顔を向けているのに気がついた。彼は急ぎ足でコンビニの前から立ち去った。


 こんな状況が生まれた発端は、人間たちの時間にして一日ほど前にある。
 勝手な単独行動によってひと騒動起こした訓練生に対し、教官は落第から救済するチャンスとして、自ら計画したという“補習”を提示した。その内容は受講者を大いに困惑させた。
『今回巻き添えで危険にさらしてしまった人間と改めて接触し、地域の守護天使の保護下に入るよう導くこと』
 教官の説明によると、訓練生と刃を交えた敵は一度退いた後、同じ場所に再び現れ、闘った際に自らが乗り移っていた金髪の少年を改めて自分の支配下に置いたという。だが四六時中その少年と一緒にいるわけではないらしい。
「呪縛からの解放までは考えなくていいです。それは本職の方々に任せます。貴方にはその手助けをお願いしたいのです」
 ほんのわずかでもいい、救出のプロセスに関わることこそ重要なのです、と教官は強調した。
 形式上でも構わない、自らの失敗は自ら償え、と訓練生は解釈した。
 そして彼はレポートの題材に選んだ街へ再び送り込まれることとなった。しかし前回とは大きく異なる条件がついた。
「困ったことに、保護の対象となる人物には私達“こちら側”の存在が見えないのです。こういう人間には魂に直接語りかけても届きにくい可能性があります。しかし結界で包めば敵に感づかれてしまうでしょう」
「それは、こちらが物質界の方に合わせてやるしかない、ということですか」
 霊的存在が本来交われない世界に干渉する第二の方法。
 それは“物質化”、あるいは“実体化”や“顕現”などと呼ばれている。物質界を支える元素をいくらか拝借し、そこに適応した肉体を作り出してまとうという手法だ。結界で空間を囲う方法とは異なり、使用者は物質界特有の制約――いわゆる物理法則を含めたさまざまなもの――を受けることになるが、行動できる範囲は結界よりも格段に広く敵にも気づかれにくい。教官は講義でそう教えていた。
「物質化も結界と同様、習得には一定以上の階級が必要です。それに今回は『貴方のため』の補習ですので他の訓練生は参加しません。そこで、私自身を貴方のパートナーとして登録させていただきました。これで貴方を人間たちのところへ送り出せます」
 高等な技術がいる仕事は自分に任せ、己の役割を遂行してほしい、と教官は願った。
 面倒な制約を背負う代わりに、自由な行動を許された、と訓練生は解釈した。
 そして彼は地上に降り立った。パートナーとの連絡手段、何も書かれていない真っ白な装丁の日記帳を抱えて。

 補習課題のスタート地点はある私鉄の駅前だった。
 どうしてあの敵と出会った現場ではないのか。人の姿となった見習い天使が不思議に思いながら日記帳を開くと、最初のページに文字が浮かび上がった。
《目標を探し出し接触を図ること。現場の位置及び地勢についてはレポートに記載の通りと考えてよい》
 最初の指令は今ひとつ具体性に欠けるものだった。
 文中にあるレポートとは、彼が不合格を宣告される前に作成していた未完成の課題のことだ。一応それにも目を通していた教官は、その内容を思い出して現場にたどり着く手がかりにしろ、と言いたいのだろう。そう解釈した見習いはすぐに出発した。
 駅前のバス停脇に地図を見つけ、まず自分が数日前に上空から見た街の全景の記憶と重ね合わせる。そして現在地と目的地の位置関係を読み解くと、前回は空中を直進して向かった学校へ、今度は徒歩で訪れるべく進み始めた。
(地形も目印も覚えている。あのとき見た塔はここからでも見える。十分だ)
 彼は課題のレベルの低さを信じて疑わなかった。


 日が南の空高くまで昇った頃。

 若き天使は己の楽観を強く恥じていた。
 区画整理が徹底された駅周辺を抜けるまでは順調だった。しかし住宅街に入り、進行方向の目安にしていた構造物のほとんどが民家の陰に隠れて見えなくなると、あっという間に目的地を見失ってしまった。
(まずいことになった)
 街の気温は彼の出発直後から急上昇を続けていた。風は弱い。大量の熱を帯びた空気が陽炎に変わり、そこかしこで揺れている。そんな中を歩き続けるうちに、この未熟な見習いは己の体の異変も感じていた。
 頭を揺さぶられるような痛み。視界のブレ。止まらない汗。喉の奥の強い渇き。道に迷ったことを自覚した頃には腕に力が入りにくくなり、日記帳の抱え方を変えなくてはならなくなった。
 それでも彼は、入り組んだ道を方角のみにすがって歩く他に選択肢を見つけられなかった。
(何かがおかしい)
 ふらつく足で懸命にバランスを保ち、住宅の間に一瞬だけ見えた鉄塔を探す。
(この状況で、どうして、教官は何も言ってこない?)
 再び目印を見失い、遠い青空を見上げる。
(パートナーのことを考えろ、ちゃんと見ていろと、散々言っておいて……)
 直後、踏み出した足がもつれ、彼は地面に倒れ込んだ。
 体が動かない。
 うつ伏せの姿勢から頭だけをもたげたが、すぐに首の力も抜けてしまった。ちょうど日記帳を枕にするような体勢をとったところで全身が固まると、彼がどんなに念じても、指一本すら思い通りに動かせなくなった。
 熱せられたアスファルトが両腕の皮膚をじわじわと焼き始める。
 地獄の業火はこれより熱いのだろうか。
 そんなことをぼんやり考え始めた彼の耳に、せわしない足音が聞こえてきた。人の声もする。しかし声の行方を追跡しようとしても、その意思自体がすぐに溶けてなくなった。
 誰かに呼ばれている気がする。
 何かが頬に触れた気がする。
 確かめようともしないまま、彼はすべての思考を手放した。