[ Chapter2「未熟者、地上に立つ」 - E ]

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 ゆっくりと目を開けた。
 光が眩しい。
 真昼の太陽の下で、枝垂れ柳が風に揺れている。
「………………」
 風はどこにも吹いていなかった。
 若き天使はようやく思考を取り戻し、自分が屋内にいることを知った。力の入らない身体はベッドの上で仰向けに寝かされ、柔らかい毛布に包まれている。頭と右腕だけが毛布の外に出ていた。
 目に痛い光の正体は人工の明かりで、その周辺は天井だった。本物の太陽光は左手の方向から薄いカーテン越しに存在を主張していた。窓は閉ざされているらしい。
 そして、彼が樹木だと思っていたものは、人間だった。
 左手の側、つまり窓辺に背を向けて座っていた誰かがこちらの顔を覗き込み、それからおもむろに立ち上がったのだ。
 天使はひどく驚いた。しかしすぐに、平常心を取り戻そうと意識を働かせた。
(見られるのは当たり前だ。今の俺は只の人間でしかない)
 自分に言い聞かせながら、ベッドの横を離れた人物を目で追う。
 若い男。体型も手足もやけに細い。肌と髪の色は先ほど見かけた人々のそれと大差ないが、身の丈は彼らを大きく上回っているように見える。そんな体で足音も立てず、ふらりふらりと揺れるように動くさまが、見間違いを誘ったのだろうか。
 その痩せた男はベッドの反対側へ回り込んだ後、一度だけ振り向いた。長く伸びた前髪が両目を覆い隠していて、その視線がどこへ向けられたのか、見習いには全く掴めなかった。そして男は一度も口を開くことなく、ベッドの右手側にあったドアを開けて、どこかへ行ってしまった。
(何なんだ、今の人間は?)
 残された天使はここでようやく、自分がこの涼しく狭い部屋にひとりきりとなったことに気づいた。そして静かに記憶をすくい上げた。

 炎のような空気に包まれ、動けなくなった直後。
 数名の人間が駆けつける足音が耳に入った。
 四方から伸ばされた手が伏せた身体を仰向けに返した。
 熱のない柔らかなものが首筋に触れた。
 強い力が両肩と両足を持ち上げ地面から引き離した。
 薄く開けた目を突き刺していた光が遠ざかった。
 起伏のない板状のものが背中に触れた。
 誰かの指先が腕を撫でたような気がした。
 意味不明な言葉が飛び交っている気がした。
 皮膚に触れた何かがそのまま貼り付いた気がした。
 何も確かめられなかった。
 何も感じ取れなくなった。

 いつ意識が途切れたかは定かでない。しかし彼はカーテンの隙間から見た空の色によって、時間の経過が揺るぎない事実であると知った。
(ああ、俺は、眠っていたのか)
 次に彼は己の体が再び動くようになったことに気づいた。全身のパーツが思い通り、いや想像以上に軽く滑らかに動き、彼を楽な姿勢でベッドの上に座らせた。
 続いて、頭の中に凝っていた痛みの緩和に。手足に溜まっていた高熱の消失に。ひとつずつ気づくたびに、彼は感嘆の吐息をこぼした。
 そして最後に、彼は自分の右腕に何かがくっついていることを認識した。それは細く透明な管で、皮膚の表面にテープ貼りで固定され、先端に針がついていた。針の先端は皮膚の下に潜り込んでいた。針が刺さっているのに、左手の指先でつついた右腕に痛みはない。
(これは……?)
「触っちゃダメ!!」
 女性の声が飛び込んできた。
 彼は頭で言葉の意味を理解する前に、針に触れようとしていた手を止めていた。
「危ないから。点滴はそのままにして」
 声の主、白衣を着た中年の女性は部屋に入るなりベッドの右側に駆けつけ、テープが貼られた右腕を左手から引き離した。そして彼の腕を優しくさすりながら、同じことを全く違う言い回しでもう一度言った。
 彼は一瞬だけ不思議に思ってから、かつて教官が講義で扱った話を思い出した。
 人間の社会には様々な言語が存在する。その形式や分布は実に複雑な体系を成し、同じことを話そうとしてもコミュニティによって全く違う形の表現になるという。直接心に“触れる”ことができる天使たちと異なり、人間同士の会話は互いの知る言語が一つでも一致しなければほとんど成り立たないというのだ。
「覚えてる? あなた、道で倒れてて……」
 白衣の女性は言いかけたことを一度取りやめ、別の言語に切り替えて最初から言い直そうとした。しかしそんなことをしなくても天使には伝わる。わざわざ訂正しようとしてくる様子をわずらわしく思うあまり、若き天使はつい本音を口走ってしまった。
「何度も言わなくていい。聞こえてる」
 女性が口を開けたまま言葉を止めた。そして両手を合わせ、
「あら、日本語わかるのね。それなら良かった」
 よくわからないことを今度は一度だけ言った。
「覚えてる? あなた、外で倒れていたのよ。熱中症、知ってるかしら。今日は朝から暑かったでしょう、外を歩いているうちに体温が上がって、たくさん汗かいて、水分も足りなくなったのね。あなた飲み物もお金も持ってなかったし、倒れたのがここの前じゃなかったら、もっと危なかったかもしれないわ」
「ここの、前。……ここは?」
 彼は窓の方を見た。カーテンの隙間から家の屋根が見えた。
「ここは病院。私の息子がたまたま窓越しにあなたを見つけて、それで助けたの」
 女性が窓の側まで移動し、カーテンを手繰り寄せた。
 淡く色づいた空の下に住宅の屋根が連なっている。しかしその窓は近隣の家より高い位置にあるわけではないらしく、あまり遠くまでは見えなかった。
「体調は少し良くなったみたいだけど、万が一ってこともあるし、もう少しここで休んでね。後で検査もするから。あ、そうだ。私は柳育江(ヤナギ・イクエ)。ここ、柳内科医院の院長よ」
 柳院長は名乗りながら、先ほどまで別の人間が使っていた椅子に腰掛けた。
「あなたは? どこから来たの?」
 問われた方は顔を質問者へ向けた。しかし言葉が出てこなかった。
 名前。出自。居所。
 若き天使は学校で耳にしたいくつかの逸話を思い出した。天使が人間を導くため物質界に降り立つとき、彼らは確か素性を隠していなかったか。
 彼は次に教官の指示を思い出そうとした。物質界に潜入するときのルールや手順など教わっていない。仮の身分は与えられるのか、自ら作り出すのか。それとも今は本当のことを言うべき場面なのか。手がかりを探そうとして、気づいた。
 日記帳が見当たらない。
 ベッドの脇から部屋の一番遠い隅まで、ひと通り見ても、あの白い本がどこにもない。
 それは指示を受け取る手段の消滅を意味していた。
「俺は……いったい……」
 どうすればいいんだ。
 やるせなさの破片が口からこぼれ落ちた直後、柳院長が反応した。
「まさか……覚えてないの!?」
 突然両肩を掴まれ、若き天使は反射的に縮こまった。それから院長を避けるように目をそらし、再び窓の方へ顔を向けた。
「ごめんなさい、驚かせるつもりはなかったの。落ち着いて。無理に思い出そうとしなくていいから。ね……」
 院長の言葉は途中から患者の耳に届かなくなった。
 淡く色づいた空の下、丸く切り取られた空間を、天使は凝視していた。
 灰色と黒がまだらに染め上げる空間に目を奪われていた。