[ Chapter2「未熟者、地上に立つ」 - G ]

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 淡く色づいた空の下、丸く切り取られたマーブル模様の空間が、急加速して遠ざかっていく。移動するうちにそれは均一に混ざり、残った灰色さえやがて失っていき、やがて空に溶けて消えた。
 若き天使は一部始終を窓越しに見ていた。
 ずっと離れた場所から見ていることしかできなかった。
(あれだ。あの時戦った奴の結界に違いない)
 ほとんど確信に近い推測は持てても、それが正解かを確認する方法がない。今から現場に向かおうにも方角しかわからないし、仮に駆けつけたところで、肝心の結界が既に消えた後だ。痕跡も残っていないだろう。
 結界は意図的に不安定な状態を作り出す。それを維持する力が失われれば、世界はすぐさま歪んだ空間を修復し、生まれた異物や不自然な変化を跡形もなくもみ消してしまう。それは誰の制御でも指図でもなく、ものを放り投げれば落ちるのと同じように、ただそうできているというだけの仕組みだ。
「ああ、重(シゲ)ちゃん、戻ってきたのね」
 すぐ隣で上がった声が彼を現実に引き戻した。
 外を見つめたまま固まっている患者に寄り添っていた院長が、病室に入ってきた人物に声をかけたのだった。親しげに話しかけただけでなく手招きまでしている。
 若き天使は呼んだ方から呼ばれた方へ視線を移した。
 そこにいたのは、彼が目を覚ました時にベッドの傍らにいた、あの細い木のような男だった。しかも男の右手には見覚えのあるものが抱えられていた。
 白い日記帳。
 どこにも見当たらなかったのは、持ち去られていたからだったのだ。
「何か分かった? 名前とか、住所とか」
 院長の問いに対し、男は首を横に振った。
「そう……具体的じゃなくても、ヒントになりそうなものは?」
 その質問にも首を横に振られた。そして男は日記帳の表紙だけをめくり、最初のページを院長に見せる形で差し出した。
 そこには教官からの最初の指令が書かれていたはず。
 少し身を乗り出した天使に気づかなかったらしく、院長は患者の眼前に背表紙を向ける格好で中身を読んだ。しかし十秒ほどでその手を下ろし、日記帳を閉じてしまった。
「ダメね、読めない。これが何語なのかは調べてみた?」
 院長から再び日記帳を受け取った謎の男は、今度は首を縦に振った。
「見つかった?」
 続く質問には再び首を横に振った。そして日記帳を持ったまま、壁沿いに置かれたスツールを引っ張り出し、そこに腰を下ろした。
 傍目には一方的な、しかし本人たちの間では会話として成立しているらしいやりとりを、若き天使は黙って聞いていた。その首の動きに気づいた院長は、患者の背中を撫で、微笑みかけた。
「これ、あなたが倒れていた時に持っていた本よ。身元を知る手がかりになるかと思って調べてもらっていたの。勝手に持ち出してごめんなさいね。あ、この子は重孝(シゲタカ)。私の一人息子なの」
 どうやらこの男が行き倒れの現場を最初に目撃した人物らしい。
「さて、と。困ったわね」
 その重孝よりも手前にいる院長が、若き天使の顔をまじまじと見つめた。凝視された方は驚き、少しだけ身を引いてから、母と子の顔を交互に見た。息子の両目は前髪に隠れているので比べようがなかったが、鼻筋と口元は院長に似ているようだった。
「あなたの名前がわからない。どこから来たかもわからない。これじゃあ元気になっても帰る場所がないってことになっちゃうわね。あなたの帰りを待っているひと、必ずいると思うんだけど」
 訓練生の頭に、まず教官が浮かんだ。
 次には誰も浮かばなかった。
「大丈夫、焦らないで」
 目を伏せた患者の頭に、院長が右手を添え、前を向かせた。
「帰る場所が見つかるまでは、ここにいていいから。ゆっくり思い出せばいいわ。……でも、名前がないままじゃ何かと大変だから、仮の名前はつけさせて。そうねぇ。“ウィル”って呼んでいい?」
 若き天使は目を見開いた。
 予想もしない言葉ばかりだった。どこの誰ともわからない存在に、居場所がないからといって与えるのか。名前という、一度きりの関係では終わらせないための定義を、与えるのか。人間というものはここまでするものなのか。
「決まりね」
 院長は異論があるか確かめもせず、患者の両肩に手を置いた。

 やがて太陽は沈み、薄い雲のカーテンが空を覆った。
 天使は――ウィルはベッドの上で仰向けになって、ぼんやりと天井を見つめていた。院長が退室する間際にもう一眠りするよう言われていたが、全く寝つけないでいたのだった。
 物音が聞こえてこないことを確かめてからゆっくりと上半身を起こす。姿勢を整える過程で、枕元に置かれていた日記帳が指先に触れた。
(こんなところで寝ている場合じゃない)
 ウィルは膝の上に日記帳を置き、表紙をめくった。
 まず現れた一文は教官からの指令。結局それは達成できなかった。
 ページをめくると、何も書かれていない紙の間に一枚の白い羽根が挟まれていた。それを取り除いた直後、白紙だったページに新たな文字が浮かび上がった。
《体調はいかがですか》
 教官からの新たなメッセージだった。
 ウィルは傍らに置いた羽根を右手で持ち直し、その尖った先端を余白の上に走らせた。ペンとしての加工などされていないのに、羽根の先端が紙とこすれあうだけで、そこに銀色の線が生まれた。
《現時点では異常なし》
《それは何よりです》
 次の行に新たな一文が出現する。教官の反応だろう。それを読んだウィルは、さらに一行下にこう書き足した。
《あなたは生徒が危険な状態にあったのに何の指示も救援も行いませんでした。それ以前に、人間と出会った場合の対応を何ら指導しないまま課題を開始させました。実習の手順に問題があると思います》
 遠くで鳥が鳴いた。
《これは訓練です》
 紙の上をなぞろうとした羽根が止まった。
 これから先端が触れようとしていた位置に、見えない筆先で文章が書き込まれていく。
《貴方のパートナーは私です。そう伝えましたし、いつでも連絡を取れるようにこの日記帳を託しました。ですから私は、貴方が困ったことやわからないことを教えてくだされば、すぐにでも答える用意をしていました。それに、倒れる前であれば、連絡を取る時間はいくらでもありました。道に迷ったとき、最初に渇きを覚えたとき、自らの変調に気づいたとき。でも貴方は一度も日記帳を開きませんでしたね》
 羽根は動かない。
 ウィルの唇が震える。
《いいですか。貴方はまだまだ未熟で、何も知らないのが当たり前です。あえてそういう状態で送り込みました。「知らない」という状態を知る、これが補習の第一歩となります。そして、わからないことを聞く、これは自然に身につく技術ではありません。実践を通して習得するものです。それが二歩目となります。
 何も知らないまま未知の場所に独断で踏み込むことがいかに危険か、今の貴方にはよくよく理解できるかと思います。今後も質問を禁止することはありません。次からは聞けるうちに聞くことを心がけてください》
 自動筆記はここで途切れた。
 羽根を折りそうになっていたウィルは、その芯を持ち直し、すぐに記した。
《では、これから何をしたらいいのか、指示を下さい》
 数秒の間を置いて、見えない手が答えた。
《せっかく仮の居場所に出会えたのです。このまま記憶喪失の人間として療養を続け、物質界に慣れてください。今後のことは折を見て伝えます。以上》
 打ち止めを示す単語をウィルの目が認識した次の瞬間、日記帳は羽根を巻き込みながらひとりでに閉じ、膝の上から滑り落ちた。
 後には静寂だけが残された。
 若き天使はカーテンの向こうの明るい夜に目を細め、再びベッドに横たわった。