[ Chapter3「路地裏の怪人」 - C ]

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 その日の放課後。
 三年二組と一年三組の生徒たち、合わせて三十名ほどが、校舎一階の北東に位置する視聴覚教室に集まっていた。彼らは舞台を彩る予定の役者、そして本番での裏方作業を担う担当者たちだった。
「本番まで残り三週間。今日からは幕ごとに通しでやって、出演者も裏方も含めて全員に、本番中の動き方を確認してもらいます」
 教壇に立った和泉先輩の声だけが室内に反響する。
「さて、三年二組のみんなはもう聞いていると思いますが、ネリッサ役の白戸さんが今日から一週間学校を休むことになりました。来週には復帰できるそうなので役の交代はありません。でも今週の通し練習については、代役を立ててみんなの練習を手伝ってもらいます。代役には一年生の雨宮さんに入ってもらいますので、よろしくお願いします」
 教室内が少しざわついた。まず後方に固まって座る一団が視線を一箇所に注ぎ、誘われるように他の生徒たちも同じ方向へ首をひねり始める。
 同級生たちと先輩たちの注目を一度に浴びせられたまりあが、台本で顔を隠しながら縮こまった。
「みんなは自分の役割に集中してください。本番までに何が起こるかわかりません。不測の事態に少しでも良い対応ができるよう、自分の動きと、そのとき誰がどう動くか、今のうちにできるだけ覚えてください。僕からは以上です。意見や質問はありますか」
 呼びかけに答える生徒はいなかった。
「では練習を始めます。今日はまず、第一幕を通しで」
 気の抜けた返事がまばらに上がった。その後に机を引きずって動かす音が続いた。

 幕の代わりにスクリーンを下ろした即席の舞台上で、芝居が始まった。
 第一場。和泉先輩扮する貿易商アントーニオの嘆きに皆が注目する。そんな中、サイガは教室の最後列の席に座り、主役と同じぐらい憂鬱な顔で台本を眺めていた。
『今はとにかく普段通りに過ごすこと』
 頭の中で柏木の声が自動再生される。
 サイガが先週末にバーへ持ち込んだ悩みに対し、店主が出した答えがそれだった。常識外れの問題は常識では解決できない。手に負えない問題に悩むよりは勉強に悩み、目の前のことに打ち込もう。そう勧めてもいた。
『君が見たものが本当に陽介だったのか。まずはそこから、僕が代わりに調べてみるよ。もう少し状態が良くなったら見舞いに行こうと思っていたところだから』
 ありがたい申し出にサイガは迷わず頭を下げた。相手は見舞いどころか声も聞きたくない存在、対面を避けられるなら何だってする気でいたからだ。
 新人戦出場が望み薄なのも柏木の言う通り、この合同劇への参加が先に決まっていたからだろう。そう考えて諦め、先週の不可解な出来事の影響は考えないことにした。
 文化祭の準備に集中する決意が完全に固まろうとしている。
「雨宮さんは、ここに書いてある演技とかは気にしないで。指定の位置に立って、台本のセリフを読むだけでいいから」
 練習に意識を戻すと、アントーニオの友人たちの語らいに混ざって、打ち合わせの声も聞こえてきた。何列か離れた斜め前の席に、聡明な貴婦人ポーシャの美しい横顔が見える。その正体は三年二組の陣内(ジンナイ)先輩。彼女こそ多くの後輩の憧れであり、この季花高校でヒロインに最もふさわしいと誰もが認める存在だった。
「あの、ここに『移動』と書いてありますけど、これは……?」
 サイガの目に、台本を確認するまりあの不安そうな顔が映る。ネリッサはポーシャの侍女。女性では数少ない名前のある役のひとつで、劇中では主人の遠出に同行するなど出番の多い人物だ。
 台本を持ったままでいいとはいえ、素人の芝居とはいえ、練習参加初日にいきなり舞台上へ連れ出すのはさすがに無理がある。サイガには先輩たちの意図も、無茶ぶりを引き受けてしまった転校生の心境も分からなかった。
「そこは私についてきてください。ネリッサは一人で動く場面がそんなにないから、他の人にぶつからなければ大丈夫」
「は、はい」
 まりあが指示にうなずいてから、周囲の様子を気にするように首を左右へ向けた。振り向いた直後にサイガと目が合って、大きな目を見開き、まばたきをする。後ろの席にも人がいることに今気づいたのか。それとも別のことが気になったのだろうか。
「どうしたの?」
「いえ……」
 陣内先輩の方へ視線を戻したまりあは台本をめくり始めたらしい。少し読み進めては、後方をちらっと見る。明らかに台本の中の何かを気にしている。そんな彼女の仕草をしばらく眺めてから、サイガも自分の手元にある台本に視線を落とした。
 最初のページは最初の場面ではない。一学期の半ばに決まった配役、次いで裏方ポジションの責任者の名前が書き連ねてある。商人とその友人たち、ヒロインとその従者たち、彼らを取り巻く人々。主要な役の多くを三年生が占める中、一年三組の文字と共に、浮いて見える名前が混ざっていた。
 シャイロック。演じるのは一年の西原彩芽。
 商人に難題を突きつけ追い詰める金貸しのユダヤ人、強欲な悪人にして主役より有名な男の役が、三年生を差し置いてサイガに回ってきたのだ。理由は文化祭実行委員の推薦、そして三年二組による満場一致の承認だという。
『ちょっと待て。こんなどう見ても大事そうな役、演劇部がやれよ。俺無理、絶対無理』
 指名された時のやりとりは昨日のことのように思い出せる。あらすじを読み、一年生には荷が重いと反発したサイガに、同級生の演劇部員はこう言い放った。
『大丈夫だ、サイガ。お前ならやれる。毎朝殺し屋とやりあってるだろ、あの調子でセリフ言えば完璧だから。きっと先輩たちもあの目を期待してるんだ』
 その発言で本人以外のクラス全員が納得するほど、堂々と校則を破る生徒と生活指導教諭との対立は広く知られていた。つまり日頃の行いが呼び込んだ結果だった。こうして本人の反論や対案は誰からも相手にされないまま、大抜擢の配役は多数決の強行により可決、確定したのだった。
(結局きっちり練習出る俺も俺だけどな。ま、これ以上バッシングの材料増やしてもしょうがないし。……でも、そういや最初に言い出したのは誰なんだ?)
 サイガが回想を抱えてため息をついている間に、転校生と先輩が席を立った。もうすぐ第二場、貴婦人ポーシャと侍女ネリッサの場面。早速代役の出番が来る。
 即席の舞台上では青年バサーニオが観客に熱く語りかけていた。彼こそ劇中の騒ぎの発端、ポーシャに求婚するため親友アントーニオに援助を求めた男なのだ。
 自分の出番を待つサイガが台本をめくっていると、後ろから首筋をつつかれた。
「なあなあ、サイガ、あれから何か思い出した?」
 ニヤニヤ笑う沼田の顔が隣に現れた。
「こんな時に何だよ……」
「やだなー、もう忘れた? 今朝話してスレも見せただろ?」
 断りもなく手近な椅子に座ろうとする同級生にサイガは「あっち行け」の仕草を返した。それでも居座られたので、今度は台本以外を視界から追い出すように、両手を目の横にかざした。
「見ての通り、俺は今忙しい。お前も変なモン追っかけてないで実行委員に戻ってくれ」
「そんなこと言ったってさー。ここで黙ってちゃミステリー研究会の次世代エースの名がすたるんで」
 秘密の掲示板に流れた怪人の噂。出会った者は死ぬか記憶を奪われる。ということは、もしも文言通りに事が起きているなら、何か大事なことを忘れている人間は噂の現場から生還した人物かもしれない。沼田はそう考え、教室の中で獲物を探していた。
 よりによってそんな時に、サイガは昼休みから放課後までの記憶をまるごと失うという“事件”に出くわしてしまった。しかも記憶の埋め合わせのため、当日の自分の行動について周囲の数名に質問していた。聞かれた側にとっては不可解な質問だっただろう。沼田はそのことを誰かから聞いて、サイガに目をつけたようだった。
「ちょっとでいいからさ、何か情報くれよ。気がついたときどこにいたとか、何か見たような気がするとか、なんでもいいから」
「だからお前に付き合ってやる暇なんかないんだって。何度も言わせんな」
「どうしても思い出せなかったら言ってくれ、我らミステリー研究会が総力を上げべぼっ」
 サイガは近くに放置された空き缶を沼田の口に突っ込むと、台本を置いて立ち上がった。そして舞台袖の方を見て首を振った。
 後輩の様子を心配そうに見ていた和泉先輩が、本当に大丈夫か、と言いたそうに首をかしげた。