[ Chapter3「路地裏の怪人」 - F ]

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 まりあは確かに目撃した。
 掲示板の噂そのままの怪人が、背中に黒っぽい翼のようなものを広げた姿を。
 その体が路地裏を囲む塀を飛び越え、屋根の向こうに消えていくまでを。
 仮面の奥に隠された目が金色の光を放ったように見えた瞬間を。
(あれ、は……本物? それとも、錯覚、でしょうか?)
 今にも降り出しそうだったはずの空がいつの間にか晴れていた。
 まりあは西に遠ざかっていく赤い雲を見つめていたが、ふと、この場にはもう一人の人間がいたことを思い出した。
 その人――怪人と争っていたらしい金髪の青年は、まりあに背を向けたまま、しりもちをついて動きを止めていた。紺色の服の袖が左右ともに大きく破け、さらに左腕は赤く染まっている。記憶が正しければ、怪人がナイフのようなものを投げた時にできた傷だろう。
「あの、大丈夫……では、ないですよ、ね。その、怪我」
 まりあは青年の傍に駆け寄った。驚かせないようにそっと横へ回って、おそるおそる声をかけると、青白い顔がわずかに動いたように見えた。何か言ったようだったが、まりあには聞き取れなかった。
「傷の手当、しないと、ですよ。血が出ています。見せてください」
 呼びかけながら差し出した手は振り払われてしまった。その動作がきっかけになったのか、それまで凍りついていた青年が突然顔を上げ、まりあを押しのけるようにして立ち上がった。
「邪魔をしないでくれ」
 二言目はそんなふうに聞こえるものだった。発した青年は足元に落ちていた白い本を拾い上げ、まりあの制止を避けるように路地裏を引き返した。しかし角を曲がろうとした直後に彼は足を止めてしまった。
 まりあの目には一瞬、曲がり角の先から壁がせり出してきたように見えた。
「見つけた」
 障壁に見えたものは紛れもなく人間だった。
 風が吹いただけでかき消されそうな声で、その人はたじろぐ青年に話しかけてきた。まりあがようやく見慣れてきた高校の男子制服を着ている。すぐそこの塀より視線の高さが勝るほどの長身でありながら、不思議なほど威圧感がない。
 そんな奇妙なたたずまいに、まりあは見覚えがあった。つい数時間前まで同じ教室で授業を受けていた生徒の一人だ。幹子の前にそびえる大木のような背中が記憶の片隅にはっきりと残っている。
(そう、確か……柳さん)
 依子の話では、柳重孝は本来ひとつ上の学年にいるはずなのだが、大きな病気をして長く学校を休んだために留年したという。今も休みがちらしい。まりあが転入してきた日も彼は教室にいなかった。
 そんな年上の同級生は、どうやら謎の青年と顔見知りのようだった。青年が左腕をかばいながら後ずさりするさまは警戒というより気まずそうに見えた。
 一歩近づかれる。一歩下がられる。
 数秒間の緊張の後、青年は体の向きを変え、別の方角に走り出そうとした。しかしそれより早く、重孝の長い腕が青年の肩を捉えてしまった。
「帰ろう?」
 青年がうなだれた。まりあにはそれが降参の意思表示に見えた。
 どういう関係なのでしょうか。
 少し気になったが尋ねるのはためらったまりあの前で、重孝は怪我人の腕を片手でしっかりと掴み、そのまま前かがみになって何かを拾った。脇道の入口に落ちていた誰かの学生鞄だった。それを肩にかけてからようやく、まりあの方へ顔を向けた。
 前髪が両目を完全に覆い隠す独特の髪型を、まりあはこの時初めて正面から目にした。視線がどこに向けられているのかちっともわからない。
(わ、私?)
 まりあは何を言われるのかと耳を傾けてみたが、相手は何も言ってこなかった。もしかしたら自分以外の何かを見ていたのかもしれない。そう思って左右の塀を見て、振り返って、他に誰もいないと確かめると自分の手元を見た。そして鞄と一緒に抱えている大切なモノを思い出した。
「いけない! これを西原くんに届ける途中でした!」
 さっき青年が試みたように、まりあは脇道から飛び出そうとした。
 ところがスタートダッシュは片手で止められてしまった。脇道の始点に立ったままの重孝が、空いた手をまりあに差し出したのだ。
「預かる」
「えっ……今、なんておっしゃいました?」
 意外な一言の意味をまりあはすぐにすくい取れなかった。聞き取れたとは思うが意図するところが掴めない。すると、重孝は出した手を強調するようにもう一度突き出してから、やはり弱々しい声で一言、
「近所」
 まりあが細切れの発言をつなげて話を推理するのに十秒ほどかかった。それもかなり好意的な解釈を加えてのこと。虫が良すぎないかと思いつつ、まりあは聞き返してみた。
「近所。……西原くんのご自宅の場所、ご存知なんですか?」
 重孝は首を縦に振った。口は開かれなかった。


 同じ頃。
 目を覚ましたサイガは、自分がまた知らないうちに水中にいることを知った。
「……!?」
 顔を上げた直後に視界が広がり、地面に接している感覚が戻ってきた。
 そこは公園だった。サイガにとっては幼い頃よく遊んだ思い出の場所であり、一週間ほど前には幹子にふられた現場にもなった。
 目の前には小さな丸い池がある。昼の決まった時間にだけ水柱が現れる地味な噴水だ。サイガはこの中にうつ伏せで倒れ込み、胸から上を水に浸す格好になったところで意識が戻ったらしい。今は膝をついて体を起こした姿勢になっている。
 夜の色に変わりつつある静かな水面を前に、サイガは荒い息を深呼吸で沈めながら、いつもより働かない頭で記憶を探った。
(文化祭の練習終わって、教室寄って帰って……)
 途中までは同じエリアに住む同級生が一緒にいた。道の途中で別れ、一人になってしばらく進んだあたりから、記憶が怪しくなってきた。
 後ろから誰かが来たような覚えがある。話しかけられたような気がするし、何もなかったような気もする。細かいところはちっとも思い出せない。
 次に蘇った記憶は、全身がやけに熱いように感じられたことだった。それが背後に気配を感じた時なのか、噴水に飛び込む直前のことなのか、はっきりしない。
(そうだ、柏木さんに連絡……って、携帯どこだ!?)
 またおかしな出来事があったら知らせるように。頼れる味方の言葉を思い出した直後、自分の学生鞄が見当たらないことに気づき、サイガはすぐに立ち上がった。
 携帯電話は鞄の中。その鞄は、少なくとも記憶が連続している間はずっと持っていた。だとしたら、普段の通学路とこの公園の間で落としたか何かしたのだろう。そんな単純な発想に促され、弾丸のように走り出す。
 通過した覚えのある場所まで引き返すことは簡単にできた。公園から距離にしておよそ二百メートル。実際に歩く道は限られる。そこから考えられる範囲をくまなく探したが、何も見つけられなかった。
(誰かに拾われたか? だといいけど……)
 こういうときは自分の携帯に電話をかけてみるといい。誰かが言っていたことを思い出したサイガは、ずぶ濡れの頭をかきむしりながら自宅に戻った。
 そして、自宅の玄関先に置かれた学生鞄と、その上に載せられた一冊の冊子を見つけた。
「台本? ……あ、これ俺のだ」
「あら、おかえりなさい。遅かったですねぇ」
 庭先にいた祖母が声をかけてきた。サイガは返事もせずに素通りし、庭の隅に置かれた一台の自転車を引っ張り出した。
「柏木さんの店行ってくる」
「今から? 晩御飯は」
「いらない!」
 走らずにいられなかった。
 顔に落ちるしずくも生乾きのワイシャツの感触も、晩御飯という言葉に触発された空腹感も、あっという間にどうでもよくなった。