[ Chapter4「Death and the Shadow」 - B ]

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 回想の重苦しい余韻を載せた車がK大学付属病院に到着した。
 柏木は外来棟の正面玄関で姉弟を降ろし、車を置くために駐車場へ向かった。彼が戻るまでに面会の手続きを済ませるため、菜摘はさっさと建物へ入っていった。
 自動ドアの前にサイガだけが残された。
「何なんだ、あの野郎……」
 苦い記憶を奥歯で噛みしめる。
 六年前のある日、美由樹は陽介の浮気相手ともみ合いになって転倒し、負傷した。その翌日に彼女はお腹にいた三人目の子を流産した。陽介が姿を消したのはその後のことだ。怪我と流産には関連がある、そして二つの出来事が失踪の引き金だったと当時小学生のサイガは疑っていたが、美由樹はその仮説に否定的だった。
 その美由樹がやけに気に入ったらしい問題の男児は今年で五歳になるという。サイガは事実関係を逆算して、気づいた。自分の計算と保健体育の知識に間違いがなければ、あの男は国外逃亡した直後ぐらいには、他の女に手を出していたことになる。それはつまり。
「……本当にめんどくせえな」
 怒りも憎しみも湧いてこなかった。ただただ理解できない。
 サイガは顎の力を抜いて、正面玄関を見た。ガラス越しに高校の制服姿の自分が映る。そしてもうひとつ、真後ろでごそごそと動く何かも。
「……ん?」
 鏡像の足元を見ても、そこには日没直前の長い影があるだけだった。
 何を見間違えたのかとサイガが考える間に菜摘が戻ってきた。続いて柏木も合流した。
「これ、見舞客用のバッジ。ちゃんとつけてね」
 番号入りの丸いバッジを渡されたサイガは、自分の周辺を横切る動物か何かがいなかったか、二人に尋ねようとした。しかし話しかける前に菜摘が再び外来棟へ入ってしまったので、質問を放棄して姉の後についていった。

 目的地は別の病棟の一階にあるという。連絡通路を抜けた先に現れた案内看板には『集中治療室』。同じ文字が大きく書かれた扉の正面に、美由樹が落ち着かない様子で立っていた。
「お母さん、お待たせ。サイガも連れてきたよ」
「ああ良かった……」
 サイガが目にした母の姿は、約二週間前の渡米時に比べて明らかにやせ細っていた。今にも倒れて最寄りの処置室に担ぎ込まれそうだ。
 そして母の足元には、彼女を支えるように、もしくは隠れるように左足にしがみつく、紺色の野球帽をかぶった男の子がいた。
 視線がぶつかった瞬間、サイガは頭が真っ白になった。
「お母さん。もしかしてその子が、電話で言っていた、あの」
「そう。陽介さんの、子ども。……『はじめまして、西原桂(ケイ)です』」
 美由樹が子どもの後ろ頭に優しく触れて、自分の前に出るよう促した。
 その間にサイガは柏木に肩を軽く叩かれ我に返った。何が起きたのかわからないまま、改めて名前で呼ばれた“弟”を改めて見下ろす。
 細くやわらかい髪は黒色に近く、顔立ちは整っているが日本人離れした印象はあまりない。しかし眼の色が明らかに周囲の人間と違った。薄いなんてものじゃない。野球帽のつばが作る薄い影の下で、それは濁った黄色に見えた。
「やだ、かわいい。私は菜摘。よろしくね、桂ちゃん」
 菜摘がさっそく桂の正面にしゃがみ、目線の高さを合わせて話しかけた。そして美由樹からまだ日本語がわからないと聞かされると、中学の教科書を読み上げるような英語で自己紹介をやり直した。
「えっと…… I'm Natsumi, your sister. Nice to meet you.」
"What?"
 桂は一言だけ口にして、見守っていた養母を見上げた。
 自分の発言が全く伝わっていないと気づいた菜摘も、苦笑いを浮かべながら実母を見上げた。
「しょうがないわね。まあ、最初だから」
 美由樹は困り顔を笑みに変えると、菜摘が試みた挨拶を言い直し、ついでにサイガと柏木のことも桂に紹介した。英語の先生のような発音だった。
「さ、お父さんに会いに行きましょう。きっと首を長くして待ってるわ」
「そうだった。この中でしょ?」
 本来の目的に話が及ぶと、菜摘の表情が引き締まった。サイガは顔をひきつらせた。
 美由樹は子どもたちに集中治療室の面会ルールを説明してから、柏木に桂を預かってほしいと頼んだ。幼児は中に入れてもらえないのだという。そして最後に、桂の両肩に手を置いて言った。
"Cain, wait here with him, and be a good boy."(彼と一緒にここで待ってて。いい子にしてるのよ)
"OK."
「ケイン?」
 さっき聞いた名前と少し違う発音に聞こえたような。そういえば帰国前の母は電話越しにそんな名前を口にしていた気がする。サイガが首をかしげると、美由樹は指を一本立てて空中にスペルをつづった。
「もともとの名前。どうしようか悩んだけど、うちの子になっても名前はそのままに近いほうがいいと思ったから、日本語ではケイって書くことにしたの。木へんに土ふたつ」
「……ああ」
 シンプルな名前がうらやましい。サイガは喉から飛び出しかかった本音をこらえた。自分に面倒で奇怪な名前を押しつけた張本人が扉の向こうにいる、という事実をついでに思い出してしまい、唇が震える。
 その時。
 サイガが肩にかけていた鞄の中から、短い信号のような着信音と振動の低音が同時に鳴り始めた。
「こら、サイガ! 病院の中なんだからケータイ切りなさいよ!」
 菜摘が声を荒げた。サイガは姉の反応を無視して、鞄から携帯電話を取り出した。右手で端末を掴む頃にはもう音が止まっていたので、電話ではなくメールだと判断し、流し読みだけするつもりでメール画面を開いた。
 差出人は見知った名前ではなく電話番号。
 本文はたったの二行だけ。

《今すぐ一人で中庭に来なさい
 決して誰にも知らせないように》

 ゼロばかり十一桁が並ぶ送信者欄、そして簡潔な内容をそれぞれ数回ずつ読み返してから、サイガは連れて行かれるはずだった扉に背を向けた。
「俺、ちょっと電話してくる」
「サイガ? これからお父さんに会うってときに何言ってるの?」
「二人もいれば十分だろ」
 サイガは呼び止める菜摘を振り切り、集中治療室の前から去った。
 来た道を記憶にある範囲で引き返す途中、エレベーターホールの壁に貼られた地図によって中庭の位置が明らかになった。サイガは建物の外に出ると壁沿いに半周、すっかり暗くなった通路を抜け、広い中庭になんとかたどり着いた。
 そこには葉を茂らせた大木と石のベンチがあるだけで、人の気配はなかった。
 呼び出されたのに誰もいない。サイガは携帯電話をもう一度開いた。確かにメッセージは表示されている。
(これ、誰が送ったんだ? っていうか、どうやって?)
 電話番号を宛先にして短い文章を送れるテキストメッセージ機能、いわゆるSMS。サイガは利用したことはなかったが存在は知っていた。そして、ゼロ並びの電話番号などありえないことも知っている。
 存在しない番号からの着信。よく考えると不気味な話だ。
(もしかして……一人で来るの、まずかった?)
 文面からなんとなく感じた気迫、そしてどんな手を使ってもあの場から離れたいという本音に押され、何も言わず来てしまったことをサイガは今になって後悔した。もうどうにもならないと言い聞かせるほど、中庭を包む闇が深くなったように見えてくる。
 強い風が大樹の枝を揺らし、土埃を舞い上げた。
 サイガは反射的に目を閉じ、身震いした。しばらく耐え、風が収まるのを待ってからゆっくりと目を開けると、今まで気づかなかったものを正面方向に見つけた。
 大樹の下に誰かが立っている。