[ Chapter4「Death and the Shadow」 - F ]

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 右肩の表面を何か細いものが撫でた後、サイガの体を後ろへ倒そうとしていた力が急に消えた。
 反動でサイガは前のめりになって地面に両手をついた。するとたちまち黒い何かが集まってきて、手のひらが沈み始めたので、慌てて引っ込めた。
 そこはコンクリートの板を敷き詰めた通路のはずだ。手をつく直前までは間違いなくそう見えた。しかしサイガが数秒触れて感じた手触りは、水をたっぷり含んだ砂に似ていた。
「動かないで!」
 アッシュが声を張り上げた。両手で再びリボンを広げている。鎌は彼女の背後に、曲線の刃を下にして突き立てられていた。
 死神の隣で歩兵が左腕を振り抜いた。その手元に一瞬だけ輝いた白銀の星は、サイガがそれを見たと思ったときには、埋もれた両膝の間に突き刺さっていた。さっきまで振り回されていた短剣だった。
 少しでも足を動かすことができていたらどうなっていたか。恐ろしい想像に肝を冷やしながらサイガは振り返った。
 肩に張りついていた何かが痕跡も残さず剥がれ落ち、背後には黒い粘液のようなものの山が築かれている。それは頂上に短剣――サイガの足元に落ちたものと全く同じ形状だった――を突き刺したまま、夏場の氷のようにみるみる溶けていくところだった。
(さっき俺の肩かすったのはこれか!?)
 また手をつかないよう肘を浮かせながら、足元へ視線をスライドさせる。両足がさらに深く沈んでいた。サイガは離れた位置にいる二人へと再び目を向けた。
 サリエルは左手に何かを握り、低めに構えていた。ボールを握るような手つきなので少なくとも短剣ではないらしい。だが次の動作はキャンセルされ、彼は無数の黒い粒に押しのけられるように後ろへ大きく飛び退いた。サイガの両脇に現れた真っ黒な機関銃から集中砲火を浴びたのだった。
 代わりに別の一矢が飛んだ。闇より黒い軌道が夜の空に一線を引く。アッシュが放ったリボンの先端は大きくうねって、サイガの手元に落ちてきた。
「掴んで!」
「触るな!」
 同時に発せられた声が空中で衝突した。
 矛盾した要求の間で迷う余裕などない。サイガは目の前に降ってきたものが何なのかを判別すると、すぐに両手でそれをしっかりと捕まえた。
 アッシュがすかさずリボンのもう一方の端を手繰り寄せ始めた。引っ張られた勢いでサイガは両腕を、そして上半身を前へ突き出す格好となった。固定された両足、特に強く押さえつけられた足首が、悲鳴を上げるように痛みを発した。
『こっちへ  はやく にげ 』
 激痛の合間に聞こえたかすかな声は気のせいか。確かめる間もなく、人の手のような感触がサイガの腰を両脇から掴んできた。胴体を引きずり込む作戦のようだ。体勢の変化によって両足の痛みは和らいだが、体が沈む速度は確実に増した上、引っ張り合いの負荷が今度は両肩の筋肉を引き裂こうとしていた。
 リボンの先にいる二人はというと、どうやらもめているらしい。
「全然動かないじゃない。どうなってるの!?」
「考えが甘いからそうなる。仕方ない、そのまま続けろ」
 サリエルがリボンを巻き取ろうとするアッシュの横に並んだ。自分の手元に視線を落とし、左手を腰のベルトの側面に当てて何かをひっかく動作を見せる。それから握っていたものを山なりに投げた。今度は星にならなかった。
 飛んできた物体はサイガの頭上を越えて背後に落ちた。薄明かりをまとった輪郭が球状のように見えたが、それ以上のことは確かめられなかった。
 爆音と熱量と風圧と振動がサイガの背中を蹴り飛ばした。
 腰と両足の拘束がほころびた瞬間、リボンにしがみついていた体が宙を舞った。途中までは絶叫マシンのスピードで描く緩やかな放物線。うつ伏せの状態で肘から着地した後に大きく跳ね、中庭に敷かれた石畳の道を滑りながら横切ったのち、ようやく静止した。
 しばらくの間、サイガは動けなかった。五感を打ちのめした衝撃の余波が多少和らいだ頃、覚えのある声を拾って、自分がまだ生きているということを認識した。
「逃げたみたいね。まさか“影喰い”が出てくるなんて。さすがに現世の妖怪たちの界隈とは接点ないと思ったのに、あなたっていったいどこまで敵に回す範囲広げたの?」
「関わった覚えは無い。疑わしいなら無駄なことばかり嗅ぎつけるその鼻で探してみろ」
「ああそうですか。それにしても敵は容赦なく葬るとは聞いていたけど、さすがに今のやり方は無茶すぎないかしら。獲物もろとも爆破って!」
「持っていたから使っただけだ。一々煩わしい」
 サイガは倒れたまま、頭上から降ってきた口論に耳を傾けた。
 自分が助け出されたことはなんとか理解できた。しかし頭は会話にほとんどついていけない。全身を駆け巡るいろんな痛みが邪魔して、首を動かすこともできなかった。
(あ、さっきの衝撃は、あれか……手榴弾……)
「ときに貴様、少しは己の言動も省みたらどうだ。影の中に潜むものを強引に引き剥がすとどうなるか、彼岸の者なら知らぬとは言わせんぞ」
「方法によっては魂に直接ダメージが入るから今こうやって動けなくなったって言いたいのね。それくらいわかってる。でも物理現象に擬態しているだけで構造自体は普通に取り憑くのと同じことじゃない」
 ようやく首を横に向けたサイガが天頂の方向を見ると、死神と目が合った。
 相変わらず話がよくわからない。爆発の瞬間は熱かったし手足もちぎれそうなほど痛かったけどそのことだろうか、とぼんやり思った。しかしその痛みは既に弱まっていて、今動けない理由はむしろ着地とスライディングの衝撃、特に二度目の着地の際に石畳の縁で股間を強打したことだった――できればそこは悟られたくないところだが。
「……まあ、先に対処しておかなかったのは私の判断ミスね。ごめんなさい」
 アッシュはリボンを束ねてブレザーのポケットに戻すと、サイガを助け起こしてくれた。冷たい手に掴まれた二の腕がたちまち鳥肌に覆われた。
「邪魔も入ったし、ここはいったん退いてまた出直すわ。今のごたごたで自分の置かれた状況はよくわかったでしょう?」
 寒気を振り払ったサイガが再び自分の力で立ったとき、足にはもう何もまとわりついていなかった。制服の白いシャツは土の色に汚れていたが、なぜか焦げてはいなかった。
「もしまだわかってなかったらよく考えて。今ここに私がいなかったら、あなたは知らない場所で変死体になっていたかもしれないんだから」
 考えたくもない話だった。
 サイガが身震いする間にアッシュは背を向け、地面から引き抜いた鎌を担いで中庭の奥へと歩き出した。揺れるスカートの影が夜の中心へ溶け込む直前、彼女は数秒だけ立ち止まり、こう言い残していった。
「ひとつ言い忘れていたけど。西原陽介には隠し子なんか存在しないわよ」
 大木の後ろに隠れていた街灯が、今頃になってまたたいた。
 いつの間にかサリエルもいなくなっている。白く照らされた中庭にサイガだけが残されていた。


 集中治療室の一番奥のベッドに一人の患者が横たわっている。
 腰から下に毛布、上半身に病衣。布がかぶさっていない部分はほぼ全て、頭頂部から指先までが余すところなく包帯とガーゼに覆われている。一目見ただけでは成人男性の体格ということしかわからない。
 点滴の調整を終えた看護師がベッドのそばを離れ、入れ違いに現れた男が同じ位置に立った。
「……陽介」
 柏木が静かに呼びかけると、包帯まみれの頭部がわずかに動いた。薄く開けたまぶたは焼け焦げた色をしていた。
「サイガくんから聞いたよ。また無茶な頼み事をしたそうだね」
 返される言葉はない。
 ベッドを囲む医療機器の電子音が時を刻む。
「覚えてるかな。あの日からもうすぐ二十年になるんだよ。約束の日までもう少しだっていうのに、どうしてこんなことを」
 患者のまぶたがゆっくりと閉じられ、またわずかに開いた。
「君はもうとっくの昔に約束を破った。それだけでも言い訳できないのに、ここに来て自分の子供にまで迷惑をかけて」
 まぶたが小刻みに震えた。
 柏木の視点から眼球の動きは見えない。
「もう起きたことは仕方ない。せめて謝る準備だけはしよう。どうせ当分はそこから動けないんだ、自分が何をしたのかよく考えよう。……ところで」
 変わらず刻まれるリズムに、一つだけ重いため息が混ざった。
「美由樹さんが連れてきたあの子に会った。ひと目でわかったよ。あれは……」