[ Chapter4「Death and the Shadow」 - G ]

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「ちょっと、何やってるのよ!?」
 中庭から戻ってきたサイガが家族の前に姿を見せるなり、菜摘が悲鳴を上げた。視線が弟の顔から胸元へ移っていくのに合わせ、眉間のしわが深くなる。
「電話しに行って、どうやったらそんなに汚れるの? これじゃ面会できないじゃない」
「んなこと言われても、転んだんだから、しょうがねーだろ……」
 サイガは弱い声でしか反論できなかった。本当のことを正直に言うほどでたらめな言い訳になる。だから慎重に言葉を選ぼうとしたが、使えそうな語彙をほとんど思いつかなかったのだ。
 途切れがちな弁明は姉の怒りを鎮めるどころかさらに火をつけた。事情などどうでもよかった。通常以上に清潔さが求められる集中治療室に、野球の試合で滑り込みを決めた後のような姿では入れてもらえるわけがないのだから。
「まあ、まあ。ふたりともその辺にして」
 姉弟の間に柏木が割って入った。
「今ここでどうこう言っても、起きたことはもう戻せないんだから。それに今サイガくんが中に行っても、きっと退屈だと思うよ」
「え、なんで柏木さんがそんなこと」
「君がなかなか戻ってこないから、さっき僕も陽介と会ってきた。やっぱり長旅の疲れがあったのかな、うとうとしているところで、こっちには気づきもしなかったよ」
「じゃあいいや」 サイガは面会のキャンセルを即決した。 「あいつの寝顔なんか見たくもねーし」
「決まりだね。もう時間も遅いし、今日は帰ろう」
 誰からも異論は出なかった。
 撤収を提案した柏木が、壁際に置いていた美由樹の荷物を拾い、サイガに渡した。そして車を玄関に回すため一足先に廊下の角へ消えた。
 サイガが長旅帰りのバッグと自分の学生鞄をバランスよく抱え直す間に、美由樹は右手を出して桂の左手を握り、英語で何かを話した。菜摘はなんとなく意味を理解した顔になったが、サイガには"home"という単語しか聞き取れなかった。
(あーそうだ、今日からこいつも俺達と一緒に住むんだった)
 意図を理解し笑顔でうなずいた桂に、今度は右側から菜摘が左手を差し伸べた。
「私も手、つないでいい?」
 ところが桂は不思議そうに菜摘を見上げただけで、目の前まで下りてきた手を取ろうとしなかった。
「お母さん、『手をつなぐ』って英語でなんて言うの?」
 菜摘は母親に助けを求めた。
 しかし美由樹の返答は、質問の内容とは結びつかない言葉だった。
「あ、菜摘、そのことなんだけど……実は、桂は右手が不自由なの」
 息を呑む音がした後、菜摘の目が惑った。謝る言葉を探しているのか。
 美由樹は長女の手を取り、桂の左手を重ねて、優しく包むように握らせた。
「生まれつき右腕を動かせないそうよ。一応、自分の身の回りのことはだいたいできるみたいだけど、手助けできることはしてあげてね」
 そして自らは動かないという右手の方を握り、長女と次男を先導するように歩き出した。
 菜摘はすぐに笑顔を取り戻した。桂本人は話の内容をわかっていないのか、何も言わない。つないだ両手、並んで歩く新しい家族を交互に見上げて、ニコニコしている。
 一人出遅れた格好のサイガは三人の後ろに付く形で、来た道を戻った。今度は中庭ではなく最初に通った病棟へ戻るコースだ。
「そうだ、お母さんに頼まれたもの買いに行ったけど、確かお箸ってリストに入ってなかったよね。お皿とか買うとき一緒に子供用の買っちゃったんだけど」
「あぁそうね、忘れてたかも。向こうじゃ全然使わないから。お箸の使い方はこれから練習しないとね」
 母娘の話題は報告から今夜の献立へと移っていく。祖母の手製のカレーライスが嫁と孫たちの帰りを待っているという。
 耳慣れた日本語の会話を聞きながら、ふたりの五歩分後ろを歩くサイガだけが、違うことを考えていた。
『西原陽介には隠し子なんか存在しないわよ』
 死神を自称する少女が最後に置いていった情報。彼女はどうして唐突にそんなことを言い出したのか、いくら考えてもわからなかった。
 嘘かもしれない。でもそんなことをわざわざ言う理由が浮かばない。
 本当かもしれない。でも仮にそうだとしたら、今そこで手を引かれてはしゃぐガキはどこの誰だというのか。
「篠原(シノハラ)先生!」
「またお会いしましたね」
 前方から美由樹の声、そして知らない男の声が聞こえてきた。
 サイガはようやく前を見て、家族が立ち止まったこと、そして少し前に比べてさらに距離が広がっていたことを知った。駆け足で距離をゼロ歩分まで縮める間に、母が呼び止めた人を娘に紹介していた。
「お父さんがここに転院できるよう協力してくださった先生なの」
「はじめまして」
 にこやかに挨拶した医師は美由樹や柏木と同年代らしき男で、あまり目立つ特徴のない地味な人物だった。白衣の胸ポケットの名札に貼られた顔写真もぱっとしない。四角い黒縁のメガネを外しただけで誰だかわからなくなりそうだ。
 胸部心臓外科。篠原皓一郎(コウイチロウ)。名札に記された肩書と名前は立派に見えるだけに、本人の顔や挙動とのギャップは恐ろしささえ感じるほどだった。
「お父さんとは留学中に知り合ったんですって」
「留学! どちらにいらしたんですか?」
「ええと、ボストンに一年ほど」
 話に食いついた菜摘が突っ込んだ質問を始めた。たじろく篠原先生がなぜか下の方を見たことにサイガは気づいた。
 そこには桂がいる。
 養母が手放した右腕が振り子のように揺れ、真下を指して止まる。
(右手が……動かない……)
 桂が振り返ってサイガを見上げる。
 琥珀色(アンバー)の目が子供らしからぬ気迫でにらみつけてくる。
(……ちょっと待て)
 ついさっきまで、この病棟の外で会っていた相手は。
 自分の前に二度現れ、二度とも命の危険にさらした奴は。
 同じような右腕を持っていなかったか。
 同じような色の目をしていなかったか。
 まさか。
「桂……お前本当は」
"     "
 サイガが嫌な予感を否定させようと口にした一言は、短い英語のフレーズにかき消された。
 意味はわからない。まともに聞き取れたかどうかも怪しい。だが、バカにされたことだけはサイガにもなんとなくわかった。
「……てめえ……」
「そろそろミーティングの時間なので失礼します。なにかお困りのことがありましたらいつでも連絡ください」
「本当にありがとうございます」
 弾けそうになった怒りが心の中で処理される間に、雑談が終わっていた。近くのエレベーターホールへ行く篠原先生を見送ってから、親子は改めて病院の正面玄関へ戻った。
 自動ドアの真正面に柏木の車が横付けされていた。サイガは運んできた荷物をすべてトランクに収め、それから車に乗ろうとした。ところが来るときに彼が座っていた席は立派なチャイルドシートに占領されていた。
「サイガ、反対側回って。お母さんと桂ちゃんと三人で後ろに座って」
「いや、ここはサイガくんが助手席に来たほうがいい。美由樹さんと菜摘ちゃんは体が細いから並んで座れるけど、サイガくんは鍛えてるから」
 柏木の一声によって菜摘の提案は却下され、チャイルドシートとの狭苦しい相席は回避された。ホッとした顔で助手席に座ったサイガがシートベルトを付けた直後、その耳元で声がした。
『しばらくは貴様を直接監視することにした。逃げられると思うな』
 窓の外のサイドミラーに長い影が映っていた。
 サイガは頭が真っ白になった。