[ Chapter5「ヒロインはどこへ消えた?」 - A ]

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《貴方に大変残念なお知らせがあります》
 日記帳を開いたウィルの目に飛び込んできたのは、見慣れた筆跡で記された不穏な言葉だった。
《現在実行中の訓練について、地域の守護天使たちの助力を得られなくなりました。よって保護対象の捜索は中断します。指示があるまではいかなる行動も起こさず、身の安全の確保を再優先してください》
 ここは柳医院の三階。といっても病室ではなく、建物の北側を占める院長宅の一室だ。
 あの仮面の少年に切りつけられた数日後、ウィルは退院した。しかし身元不明の男に行く当てなどあるはずもない。院長のすすめもあり、結局彼は同じ土地で、親切な母子との同居生活を始めていた。
 平日の昼下がり。午前の診療が終了に近づく頃。若き天使はキャスター付きのチェアに座って机に向かい、日記帳のページをめくる。
《現在貴方が訓練を行っている地域に、悪魔たちが大挙して押し寄せている、との情報が入っています。ほとんどは統率されていない下級の悪鬼だそうですが、数が多いために守護天使たちは対処に追われ、誰も持ち場から離れることができないそうです。よって、仮に今日貴方が目的を達しても、保護対象を託す相手がいないということになります》
 青い視線が銀色の文字をなぞる。
 読み進めるほど眉間に力が入る。
《通常の派遣中にこういった事態が起きた場合は、任務を中断し味方の救援を優先するケースがほとんどです。しかし貴方は訓練生です。今回は戦列に加わる命令も許可も出ていませんから、もし戦果を上げても成績への加点はしません。敵の気配を感知しても飛び込まないように。
 これは訓練です。何より重要なのは貴方自身が無事であること。まず己の身を守れるようになって初めて、味方の援護も敵の排除も任せられるようになるのです》
 ウィルは教官の説教が並ぶ日記帳を机の上に放り出し、チェアの背もたれに体重を預けた。
「何もするな、か」
 机に向いたまま正面から少しだけ横を向けば、窓が目に入る。
 北向きの窓に日差しは入らない。それでも薄手のカーテン越しに見えるわずかな青が外の天気を知らせてくれる。
(ならば、俺は何のためにこんなところに居座っている?)
 窓のすぐ側に見えるのは、入院患者のものより二回りは大きなベッドだ。掛け布団はきれいに広げられていて、誰かが横たわった痕跡がない。
 目立つ設備も大きな個性もないこの部屋は、もともとは重孝の個室だった。院長がウィルに語ったところによれば、一人息子は居候のために自ら部屋を譲り、彼自身は父親――離島の診療所に赴任中だそうだ――の居室に移ったらしい。身ひとつのウィルに衣服を貸し、また新しく買ってきたのも重孝だという。
 母子はどこまでも親切だった。誠実な行いには報いよと教えられてきたウィルには、その親切をただ黙って受け取り続けることなどできなかった。そこで先輩たちの武勇伝にならって恩返しの労働を申し出てみたが、これはあっさりと断られてしまった。
(せめて何か有用な技術か能力があれば。治癒か……それとも)
 ウィルは両腕を前に伸ばし、しばらく自分の指先をぼんやり見つめてから、再び日記帳を手にとった。説教、もとい連絡の続きが目に入った。
《さらにもう一つ問題があります。サリエルが契約者を連れてそちらの近辺に現れました。保護対象の少年はほぼ完全に彼の支配下に置かれてしまったようです》
 紙の端をつまんでいた指先が震えた。
 最後に読んだ一文をしばらく見つめてから、ウィルは一度手を離し、読み進めていたのと逆の方向へとページをめくり始めた。
 筆跡は変わらない。しかし話題は戻っていく。
《これは訓練です》
 決まった一文から始まる説教の冒頭が何種類か現れた後、ようやく違う出だしが見つかった。
 そのページはウィル自身による問いかけから始まっていた。
《教官は、あれが何者なのか、本当は既にご存知なのではありませんか》
 より正確に言えば、それは長い報告の最後の一文だった。前のページには仮面の人物と交戦した件についての一部始終が一行も空けずに詰め込まれていることを、ウィルは記入者としてしっかり記憶している。
 ただ余白が足りなかったという理由で空白だらけの場所に記された一文に、しばらくは教官の反応がなかった。ようやく最初の一行が紙の上に浮かび上がったときには、報告を送ってから物質界の時間にして三日が過ぎていた。
《このたびの騒ぎにはある天使が深く関わっていることが判明しています。サリエルと呼ばれている脱走兵です》
 ウィルは教官からの回答を改めて黙読した。
《彼は“賜物(たまもの)”と由緒ある名前を受け継いだ戦士の一員でした。
 賜物については先輩がたから聞いているかもしれませんが、講義でまだ扱っていない話ですので簡単に説明します。
 我々天の軍勢の中には時折、他の者にはない特別な能力を持った天使が現れます。彼らは我々の主に理由あって選ばれたといわれており、授かった力、すなわち賜物の内容に応じた特別な名前を受け継ぐことが伝統となっています》
 具体例がいくつか記されている。それは天の軍勢の末端にさえ加われていないウィルでも聞いたことのある名前ばかりだった。
《ここに挙げた方々には及ばないものの、今代のサリエルもそれなりの手柄は立てていました。しかしあるとき戒律の一つを破り、捕らえられ、賜物を没収されたうえで収監されることが決まりました。ところが彼は刑罰の執行直前に脱走し、賜物たる力を持ちだしたばかりか、それを天の軍勢への反抗に使い始めたのです》
 ウィルの脳裏で銀色の刃がひらめく。
 先日遭遇したのは突然だった。接触すべきターゲットを見つけた矢先の妨害、そして一方的な攻撃。飛び道具による傷は幸い浅く、人間より回復の速い身体に何の影響も残さなかったが、何もできなかったという衝撃は心に深く刻まれていた。
 その前の遭遇はウィル自身の油断と慢心が招いた。何かを成し終えたついでのように近づいてきた相手は、今思えば、弱い天使を狩ろうとしていたのかもしれない。目的はわからないが。
 そしてウィルは連鎖的に思い出す。
 武器の暴発が見せた謎の幻影を。
 教官の、生徒の前では決して見せたことのない、苦悶の表情を。
《彼は現在も逃亡を続けています。そして先日、ある人間と取引をしたといわれています。そしてそのために、本来我々の元へ還るべき無垢な魂が、彼の企みに利用されようとしているのです》
 ドアの外から物音が聞こえた。
 誰かが階段を登る音。それも近づいてくる。
 院長だろうと見当をつけたウィルは日記帳をそっと閉じて、机の上に立てて並べられた本の中に紛れさせると、チェアを回してドアの方へ向いた。
 足音が止まり、二拍置いて、ドアがノックされた。
「ウィル? ちょっといいかしら」
 ドアの外で院長の声がした。
 読み通りの結果に安堵したウィルが「どうぞ」と返すと、少しだけ開かれたドアの隙間から、申し訳なさそうな顔が現れた。
「この前、お仕事を手伝わせてほしい、って言ってたでしょう。あのときはいきなりだったから思いつかなかったんだけど、見つけたの、あなたにもできること。頼まれてくれる?」
「……ああ」
 自分の発言を思い出したことでこぼれた一声を、院長は肯定する返答と解釈したらしい。台所へ来てほしいと言い残して階段を降りていった。
 ウィルは立ち上がった。部屋を出てから、今のお願いごとが教官の言う「何もしない」に含まれるかという解釈に迷ったが、最終的には考えないことにした。
 戦闘行為さえしなければ大丈夫だろう。助けを求められているのに手を貸さないのは、どう考えても天使の道にもとる話だ。