[ Chapter5「ヒロインはどこへ消えた?」 - C ]

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「やっぱ帰るのやめた。寄り道してくる」
 最初は単純な思いつきのつもりだった。
 金曜日の夕方。サイガは最終下校時刻ギリギリまで行われた通し練習からようやく解放され、級友たちと共に家路についた。しかし途中で思い立って道を変え、自宅と正反対の方向、駅前の繁華街に一人向かった。
 ところが目当てだった柏木の店には《本日貸切》の札が掲げられていた。こういうときは開店前でも店に入れてもらえない。それをよく知っているサイガはおとなしく引き返したが、帰る道には足を向けなかった。
 目的はなくても動機ははっきりしていた。
(どうせ家にいたってろくなことねーし)
 西原家が新しい家族を迎えてから丸一週間。
 桂は初めて触れる異国の生活にあっさり馴染み、家族ばかりか近所の住人たちとも難なく打ち解けたらしい。一方で朝晩の食卓では英語が飛び交い、祖父は仕事帰りによく土産を買ってくるようになった。無邪気に笑う幼い弟は今や疑いなく家族の中心になっていた。
 しかしサイガだけは違った。突然現れた幼児がちやほやされる様子は面白くないし、英語が苦手な身は英語漬けの生活についていけない。さらに夏休み終了目前の菜摘が自己流の「起こし方」を桂に遊び感覚で教えたため、ここ数日は朝からストレスを抱えたまま起床することを余儀なくされていた。
『Good morning!!!』
 思い出すだけでみぞおちの辺りが痛くなる。
(ただでさえ居づらいのに……しかも、そいつは、やばい奴とつながってんだぞ)
 病院で出会った桂を家へ連れ帰る途中に彼の正体を確信したサイガは、その日の夜に告発を試みた。しかし家族に話を切り出そうとした途端、あの黒い首輪が突然縮んで首を圧迫し始めたため、床を叩いて降参する羽目になった。以来、桂の素性については沈黙と無視を決め込んでいる。
(アッシュはどこ行った? 俺そのうちあのガキに殺されんじゃねーの!?)
 いくら心の中で叫んでも自称死神は現れない。
 サイガは冷たい北風を避け、駅に隣接する商業施設のビルに逃げ込んだ。特に用はないはずだったが、よく利用するドラッグストアの看板が目に入ったので、なんとなく店舗へ足を運んでみた。
 しばらくは何も考えずに店内を歩いた。気がつくとサイガはある売り場の前で立ち止まり、棚に並んだ商品のひとつを手にとっていた。
 金髪の男の得意げな顔が箱に描かれている。男性用のヘアカラーだ。
 今のサイガが自分らしさを保つために必須のアイテムだが、短期のアルバイトの経験しかない高校一年生には少し値が張る。だから常に特売日をチェックし、母親の分の買い物も引き受けてポイントカードの恩恵にあずかり、最大限に安くなる条件でしか買わないようにしていた。そして今はその時ではなかった。
 サイガは箱を棚に戻しながら、初めて髪を染めたときのことをふと思い出した。
 中学三年生になる春。友達に誘われ、その兄がもう使わないからとゆずってくれた脱色剤を試した。そのときはあまりきれいな仕上がりにならなかったが、今までの自分からまさに生まれ変わったように感じた、その興奮は今なお鮮やかに記憶している。
 でも夢見心地には必ず終わりがあるものだ。帰宅した彼を待っていたのは、今にも卒倒しそうな母の顔と、噴火口のような色に染まった祖父の顔だった。父親のこと以外でこっぴどく叱られたのもまた初めての経験だった。
(あー、もうあんな家、マジで帰りたくない)
 思いつきが次第に本気の熱へと変わり始める。中学生の頃にも、確か小学生の時分にも、同じようなことを考えて駅前をふらついたことがあった。サイガは変わらない自分を思いながら、棚を眺める視線を横へずらした。
 髪色を薄める薬剤の隣には、髪を黒く染めるスプレーが置かれていた。
 スプレーを構えてにじり寄る某教師の姿が脳裏をよぎった。
 サイガは上半身を震わせ、慌ててその売り場から離れた。店の奥へ進んでいくと生活用品を集めた区画に行き着く。台所用洗剤と掃除用具に挟まれた通路で一度足を止めると、本物から逃げ切ったときのように深くため息をついた。
(最悪だ……)
 雑念を払いのける間に、前方から来た買い物客がサイガの脇を通り過ぎた。
 人の気配に釣られるように振り返ったサイガの眼前で、その客が抱えていたハンドバッグから何かがこぼれ落ちた。床の上に残されたのは四つ折りになった女物のハンカチ。持ち主は全く気づかない様子で、ハイヒール特有の鋭い靴音を立てて遠ざかっていく。
 見ないふりをするには距離が近すぎた。
「あの、これ」
 サイガは前かがみになって、足元の落し物に手を伸ばしながら、目の前のかかとに向けて声をかけた。
 気づけばその足首から向こうずねにかけてのラインに見とれていた。
(……何やってんだ俺は!)
 靴音が止まった。
 ハンカチを拾ったサイガが体を起こす前に、ハイヒールの爪先が回れ右をしていた。
「これ……落としました、けど」
 内心で自分を叱咤しながら立ち上がったサイガの視界に、今度は丸みを帯びた何かが飛び込んできた。
 それは大胆に開け広げた白いブラウスに包まれていた。襟の内側は薄紅色のレースに縁取られている。ふくらんだ肌の中心を貫く縦一線の谷間が、小さく揺れたようにも見えた。
 一秒あったかどうかもわからない空白の後、サイガは自分が何を凝視しているかに気づいた。頭の奥から焦りが噴き出した。視線は遠くをさまよい、ようやく本来見るべきものを思い出して、話しかけた相手の顔に照準を合わせた。
「あら。ありがと」
 若い女が真紅の唇に艶やかな笑みを浮かべていた。表情も化粧も完璧。恐らく二十代半ばから後半。サイガが無意識に年齢を見積もる間に、その人は拾われたハンカチをさりげなく取り返していた。
 いつの間にか甘い香りがあたりを包んでいる。それは一言発した際の吐息か、両肩の上で竜巻のような形に整えられた髪が発生源か。サイガには特定できなかった。
「いや、別に」
 引きつった口で何を言ったのか自分でもわからなくなった。
 サイガはその女が去ろうとしていた方向へ、駆け足に近い早足で突き進んだ。レジ前を通り過ぎてから肩の力が抜け、入口手前まで来た頃に頬の内側から熱が引いた。再び立ち止まって大きく息を吐く。それでも肺のあたりに変な感触が残った。
(ホントに何やってんだ、いったい! ……もう見慣れたと思ってたのに)
 緊張が溶けてなくなった後に現れたのは、不快感。
 『巨乳の女はめんどくさい』――それはサイガが小学生のときに自身の経験から導き出した持論だ。今もそれは覆されていない。友達が色気に興味を持ち始め、そういう話が仲間内の話題に上るようになっても、サイガ一人だけが根深い偏見のために周囲と話が合わなくなることがしばしばあったほどだ。
(まあ、最近あの手のカッコした人見かけてなかったもんな……クソッ)
 肺を締めつける苦しみの原因を作ったのは他でもない、陽介だった。
 画家を本業としていた彼は自宅の庭に置いたプレハブ小屋を自室兼アトリエと定めてから、たびたび見知らぬ女をそこへ招き入れていた。そして自分が席を外す間は決まって長男に客人の相手をさせていた。まだ幼かったサイガはどうして自分が呼ばれるのか理解できなかったが、目一杯抱きしめられることが何故か怖かったし、引きつった笑顔で意味不明な空気にどっぷり沈められる日々は苦痛でしかなかった。
 陽介本人は女を連れてくることについて、ただ絵のモデルを頼んだだけと主張していた。実際そのアトリエからは神話の女神たちを描いた連作の絵画が世に送り出されている。しかし彼が画家である以前に無類の女好きだと知る者は誰も言い訳に耳を貸さなかったし、サイガも強制的に付き合わされるうちに嘘つきの匂いを学習した。
 馬鹿な男と一緒に夜通しふざけていた女たちは、みんなよく似た体型をしていた。
 今ここで出会ったあの人もそれに近いボディラインを持っている。ということは、もしあいつに口説かれていたら、同じように乗せられてしまうのだろうか。
(そりゃさすがに失礼か)
 サイガは少しだけ視線を後ろに向けた。
 レジのあたりに先ほどの女がいた。入口へ顔を向けていて、サイガの方に手を振ってきた。どうやら振り向く前から向こうに姿を見られていたらしい。
 再び身震いしたサイガは迷わず店を飛び出した。
 家に帰ろう。そう心に決めた。ここにいてまた嫌な記憶を思い出すより、現在進行形の苦難に付き合わされる方が、まだ耐えられそうだった。