[ Chapter5「ヒロインはどこへ消えた?」 - D ]

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「さ、これ持って。ちゃんとついてきてね」
 柳院長は店のロゴが入った買い物かごをウィルの手に託した。その中身が空だったのは数秒のこと。すぐに近くの棚から取り出された野菜が転がり込んできた。
 日曜の昼前、まさに買い物日和と言っていい空の下。
 この日、ウィルは院長に連れられ、駅近くのスーパーマーケットを訪れていた。店の外観は以前に大学病院へ移送中の車窓から見かけたことがあったが、中に入るのはこの日が初めてで、そこが何のための場所なのかもこの場面でようやく理解した。
 院長は「お手伝いの一環」としてウィルを呼んだというが、自分の素性以外にもいろいろ忘れている居候に生活上の知識を教える目的もあったらしい。かごに入れたものひとつひとつを彼の手に取らせては、その名前や用途などを丁寧に説明していた。
「本当は仕事の方も手が足りないけど、あれは専門の資格がない人にはお願いできないことだらけなの。でもそれ以外のことだったら、こうやって教えてあげるから」
 思い出せないならまた覚えればいい。冷凍食品のパックを見比べながら言う院長の隣で、ウィルは片手に提げたかごを強く握りしめた。
 そこには少々ややこしい嘘がある。
 知っているはずで忘れていることなど何もない。どこから来たかも、どうしてこの地にいるのかも。一方では記憶にない事柄も数多くあるが、それは忘れたのではなく最初から知らないだけだ。本人が知覚している限りでは。
(本当にそうなのか?)
 ウィルは自分の手元に視線を落とした。
 そこに例の日記帳はない。外出時は常に持ち歩けと教官に指示されていたが、今回に限っては院長があまりにも強く急かしたので、こっそり持ち出すことができなかった。
(まさか本当に何か大事なことを忘れてはいないだろうな?)
「ウィル、こっちよ」
 少し考え事をしている間に、院長と棚ひとつ分の距離が開いていた。ウィルは疑問を思考の外に追いやり、早足で遅れを取り戻した。
 店内が混み始めた。少し歩くだけで多くの人間とすれ違う。
(おかしいといえば、今の状況も明らかにおかしい)
 肉類の売り場では呼び込みをしていた店員が院長に声をかけてきた。一週間ほど前に柳医院で受診したらしい。院長はその店員と何かを話しながらウィルに手招きし、小さくカットされた試食用のソーセージを彼の口に突っ込んだ。
 突然のことにウィルが驚く間に、その商品がかごの中へ飛び込んでいた。目の前でなされる決断のテンポに買い物初心者はついていけない。
(どうして離脱ではなく待機命令なのか)
 レジの順番待ちの列に並ぶよう言われる頃には、購入予定の品物がこぼれ落ちそうなほど積み上げられていた。かごが重くないかとウィルに尋ねた院長は何故か笑いをこらえるような顔をしていた。
(教官は俺に何をさせたいのか)
 レジでの精算を終えるとサッカー台へ移動し、かごの中身をビニール袋に移し替える作業の指導があった。あれこれと助言のような指示をもらったウィルが要領を掴めず悪戦苦闘していると、横から長い指が割り込んできた。
 振り向いたウィルの真後ろに重孝が立っていた。
「あら、重ちゃん。そっちは終わったのね?」
 重孝は母親の問いかけに応じて首をわずかに動かすと、手を止めたウィルに代わって品物を手際よく袋に詰めていった。そして袋の一つを持って店の出口へ行ってしまった。
 サッカー台の上には店のロゴ入りの袋が二つ残っていた。院長は「次行くわよ」と言ってウィルに両方を持たせ、重孝を追いかけた。
 大きくふくらんだビニール袋は見た目以上に重かった。袋の底面が台から離れた途端、重量によって持ち手が引き伸ばされ、早速ウィルの手のひらに食い込んできた。
(ここでこんなことをしているのは本当に正しいのか)
 店から一歩出ただけで空気の温度と匂いが変わった。
 旬の果物や鉢植えが並ぶ店先にも、来店前より多くの人間がいた。ウィルは彼らの大半が自分の方を見ていることに気づいた。
 視線が向けられる理由はおよそ想像がつく。肌や髪の色、目鼻立ちに背丈、何もかもが他とは違う存在へは自然と驚愕や関心が集まる。それはこの世界に降り立った日にも目にしたし、柳医院の職員たちにも最初は同じような目で見られていた。
 しかし今回ウィルは過去の経験と同時に、別の話も思い出していた。
《サリエルというのは、特別な「目」を授かった者に与えられる名前のひとつです》
 次の目的地へ向かう母子に数歩遅れてウィルもついていった。
 道すがら、手元にない日記帳を記憶の中でめくり、教官の手で綴られた長い報告の一節を振り返る。
《彼は“視線”を介して相手の心を動かし、苦しみや憎しみを溶かし、あるいは戦意を奪うといった技術を得意としていました。それゆえ物質界の人々を痛みから救い、また悪事から引き離す役目を担っていました》
 ひとたび思い出せば余計に人々の視線が気になってくる。
 ウィルの懸念を知らない院長親子は振り向かず歩き続ける。
《通常、天の軍勢から脱走した者には堕天使として別の呼び名がつけられます。仲間という認識を断ち、敵として狩る対象に加えるためです。しかし彼は例外的に元の名のまま呼ばれています。貴重な賜物のひとつが敵の手に渡ったことを上層部は認めたくないのでしょう》
 院長が歩道に面した建物のひとつに入っていった。先のスーパーよりは小さな店で、軒先に色あせた看板がかかっている。
 重孝は母親の後に続かず、店の入口の前で足を止めていた。ウィルはその隣に立った。
《サリエルはどこに潜んでいるかわかりません。先日のような出来事がまた起きるかもしれない。もし彼の存在を察知したら、決して目を合わさないように》
 店の大きなガラス窓の内側にパンが並んでいる。その奥を通りかかった客らしき女性が外を向いた。
 視線がぶつかったと認識した瞬間にウィルは目をそらしていた。
 何も起きなかった。
(……考え過ぎか)
 今見たのは普通の人間だった。ウィルは緊張を解き、改めて周囲の様子をうかがった。不審な気配は感じ取れない。
 院長が細長いパンを抱えて店から出てきた。ウィルは院長をも疑い始めた心を強引に意識の外へ追いやり、来た道を戻り始めた彼女についていった。
「買い物おしまい。帰りましょう。パン屋さんの中は今度案内してあげる」
 今度は院長とウィルが並んで歩く形になった。重孝は二人の後ろへ回った。
「どうだった? お買い物」
「それは……」
「いっぺんに全部覚えられなくても、気にしないで。何回も来たら慣れるから」
 スーパーを通りすぎてからは往路と少しだけ違う道を進んだ。
 途中で通りがかった広い土地、塀の向こうに見えた白い建物について、院長は重孝が通う高校だと説明した。他にも何か言っていたが、ウィルの耳には半分も届かなかった。
 そこは、補習のきっかけとなった、あの大失敗の現場だった。
「そうそう、来週の土日は文化祭なのよ。途中でポスター見かけたでしょ? せっかくだから行って……どうしたの?」
「……あ、はい」
 ウィルの足を鈍らせた苦い記憶が、手に持った袋の重みに潰されて散った。
 高校の近辺はスーパーの周辺と違って商店がほとんどない。その先の道でも小ぎれいな住宅か地味な建物ばかりが目についた。中層マンションの形のいくつかは、ウィルが炎天下を一人で歩いたときにも見かけたものだった。
 しばらく進むと行く手に橋が見えてきた。二車線道路の上にかかった歩道は往路でも渡ったものだ。ウィルはこの場所を覚えておこうと思った。
「ちょっと遅くなっちゃったけど、帰ったらお昼ごはんにしましょう」
 気持ち先を急ぐ院長に合わせ、早足で歩道を渡り始めた、直後。

 地震か轟音に似た、とてつもない衝撃が、魂の奥底を貫いた。

 ウィルはそれが右手方向から来て足元をくぐり抜けていったように感じた。その逆、左手の方向を見ると、車道を猛スピードで走り去る黒い車が見えた。
(敵だ)
 まだ震えている魂が直感をつぶやく。次いで教官の通達をなぞる。
(このあたりに押し寄せている。……何のために?)
 狙いは同胞か、それとも。
 ウィルは自分の前後を交互に見た。もう歩道を渡り終えていた院長は振り向いて、不思議そうな顔をしていた。真後ろにいた重孝は橋の手前で足を止め、何故かウィルが見たのと同じ方面の車道を見つめていた。
(もしもこの人達に何かあったら、俺は、どうすればいい?)