[ Chapter6「とある悪魔の解放交渉(ネゴシエーション)」 - A ]

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 ウィルは風を切って道路を突き進んでいた。
 翼を得たわけではない。自分の足で走っているのでもない。ヘルメットを被り、黒い大型バイクの後部座席にまたがり、ハンドルを握る重孝の背にしがみついているのだ。
『あの、桜埜公園……ご存知、ですか』
 文化祭当日の季花高校を訪れたウィルが校内で重孝を発見し、柳院長から託された忘れ物を届けたのが、ついさっきのこと。そこへ先日路上で出会った少女が現れた。二度目の乱入に驚くウィルの前で、彼女は顔見知りらしい重孝に、すがるように話を切り出した。
『陣内先輩に何かあったみたいで、西原くん、いきなり飛び出していってしまって』
 途中で出てきた名には聞き覚えがあった。先日サリエルの情報と共に読み、心に刻みつけたばかりの知識。この街へ来た理由、探すべき救出対象、そのファミリーネームがそうではなかったか。
 ウィルは少女の話を書き留めようと考え、重孝から借りた青いショルダーバッグを開け、例の日記帳を取り出そうとした。
 しかし彼の指先が背表紙に触れた瞬間、証言者とは全く違う声が同時に聞こえた。
『そのまま最後まで聞いてください。記録はこちらで取ります』
 見習いを送り出したセラフィエル教官の声だった。
 少女が不審な電話の目撃談を語り終えると、教官は改めてウィルに語りかけた。
『貴方が推察した通り、彼女が語っているのは私達が救うべき少年のことです。そして彼女は知らないことですが、電話をかけたのは、ある悪魔の一派です』
 ウィルの背筋が伸び、そして震えた。
『彼は敵に呼び出され、要求に応じようとしている。このままでは先日以上の危険にさらされます。今すぐ彼を追いましょう、目的地に着く前に先回りして捕まえるのです』
(しかし、俺が行ってもいいのか)
 声を出さずに答えた訓練生の心を拾い、教官は言う。
『本当は敵の近くに貴方を行かせたくはありませんが、応援を待つ時間もないのです。すぐ行ってください。重孝さんが道を知っています、案内を頼みましょう』
 それは一般人をこの非常事態に巻き込めという指示だった。一刻を争うとはいえ問題はないのか。ウィルは疑問を抱いたが、結局は教官に従った。
 重孝は頼まれごとを二つ返事で承諾し、校舎裏に駐車していたバイクを持ってきた。その大きな乗り物が彼の父親の所有物であることをウィルは後で知った。
 爆音を上げて走り出したバイクはウィルの想像以上に速かった。彼が学校へ来る際に歩いた道を見つけたと思ったときには、既にそれは視界から消えている。硬いシートと振動に慣れ、風を感じる余裕が出てきた頃には減速が始まり、どれだけ時間が経ったか考える間もなくバイクが停車していた。
 フルフェイスのヘルメットを被った運転手が振り返り、ハンドルから離した左手で真横を示した。
 重孝の人差し指の先で、住宅とマンションに挟まれた緑の空間が口を開けている。
 ウィルはバイクから慎重に降りた。次にヘルメットを外し、それを重孝の手に押しつけて、はっきりと言った。
「あんたはここで待っていてくれ」
 そしてガードレールを一息にまたぎ、石畳の歩道に降り立った。他の歩行者が来る様子はない。確かめてから一歩前に出る。
 一見、公園の中には誰もいないようだった。住宅側の壁に沿って一列に植えられた桜並木がざわざわと騒ぐだけだ。
 先回りして保護対象を待ち受けるのに成功したのか。既に手遅れなのか。確かめるべくウィルは進んだ。右手をショルダーバッグの中に滑り込ませ、指先が触れたものをたぐり寄せてから、アーチ型の車止めを乗り越える。石畳から離れた足が舗装のない地面を踏んだ。
 その一歩を置いた瞬間、足の裏が震えた。
 振動が足を駆け上がり全身に伝播したことを知覚したとき、ウィルは体を動かせなくなっていた。
(これは……敵の、罠)
 指一本にさえ意思が伝わらない。不快な雑音が体にまとわりつく。
 公園の入口に結界が仕掛けられ、自分がその中へ自ら飛び入ったことを、ウィルは悟ると同時に悔やんだ。
 その直後、固定された視界の隅に光るものを見た。
(照準、)
 何かの爆ぜる音が思考を吹き飛ばした。
 背後からの強い衝撃が体を弾き飛ばした。
 それらが同時に起きたことをウィルが認識したのは、前のめりに倒れた自分の上に重さのある熱源が覆い被さってきた後だった。
(……何が起きた?)
 ウィルは重量をはねのけるように上半身を起こした。耳にした破裂音が銃声だったことに遅れて気づいたが、自分の体には地面に擦りつけた以外の痛みはない。
 振り返った顔に南東からの日差しが刺さった。とっさに目を伏せると、直視した太陽光の残像とともに、自分が背中から振り落としたものを見た。
 車道に残してきたはずの重孝がヘルメットを被ったまま倒れていた。
「ま……待っていろと、言わなかったか」
 重孝はわずかに首を動かした。動作は遅いが、大きな怪我はなさそうだった。
 ウィルは少しだけ安堵し、動かないように言うとそれ以上は確かめずに、右手をバッグから引き抜いた。そして握っていたものを公園の奥へと向けた。自由に動かせる視線が再び小さなきらめきを捉えた瞬間、指先を絡めていた引き金を迷いなく引いた。
 小銃から放たれた火球が何かを木の上から叩き落とした。それは人型をしていた。
(動きを封じてから狙撃する。そういうつもりの罠なら)
 耳の奥をかき乱す雑音に顔が歪む。結界の副作用に耐えながら周辺の様子をうかがう。本来の作用である空間の不安定を利用し、人間たちは発しない干渉者の匂いを嗅覚ではなく魂で直接感じ取る。そして若き天使は結論づけた。
(敵のレベルは高くない。持ちこたえられる)
 ウィルは素早く立ち上がり、振り向きざまに右後方へ二発目を撃ち込んだ。何かが飛び込んだ茂みへもう一発。素早く左右を確認しながら小銃に次発を装填し、見つけ出した怪しげな気配を続けて撃ち抜いた。
 体が軽い。信じられないほど思い通りに動く。
 結界内で物質界特有の制約から解放され、天界での訓練に近い環境を得ていることに、このときウィル自身は気づいていない。手元に現れる弾丸がどこから来たかにもまだ考えが及ばない。しかし演習で集団を相手にする模擬戦闘を経験したことは思い出していた。
(様々な経験を積めば、そのうちどれかが本番に活かせる。教官が言った通りだ)
 左前方、木の影からの反撃がこめかみの脇をかすめた。ウィルは怯むことなくお返しの一発を見舞った。当たったかどうかを確かめはしない。気配が動くか否か、それだけを手がかりに次の標的を探した。
 三回目の装填を終えた直後に"次"が来た。今度は上から。魂が捉えた気配は彼の眼前に降り立ち、鋭く尖った刃の先端を突きつけてきた。
 引き金を包んでいた指先が滑った。
「そこまで」
 少女の声と灰色の眼光がウィルの集中の糸を断ち切った。
 すぐ近くのように感じていた敵の匂いが、いつの間にかすっかり消えていた。
「よくそんなオモチャみたいな武器ひとつで敵陣のど真ん中に飛び込めたわね」
「好きで飛び込んだわけじゃない。ある人間を探しに来ただけだ」
 ウィルは一歩下がってから小銃を下ろした。
「奇遇ね。私もそうなの」
 少女は両手で握っていた巨大な鎌を片手に持ち替え、肩に担いだ。
 ブラックフォーマルのワンピースの上に黒のマントを羽織り、その肩に灰色の長い髪がかかっている。マントを胸元でつなぎとめるバッジに、鬼火と天秤をあしらった紋章が輝いていた。
 ウィルにとってそのデザインは初見ではなかった。いつか少しだけ習った死神という定義を思い出した。
「これから畳み掛けようとしていたのよね。でもちょっと調べたいことがあるから、とどめを刺しに行くのは待ってくれない?」
 弧を描いた刃に見習い天使の顔が映った。
 それは色を寄せ集めただけのおぼろげな形に見えた。しかしじっと見続けていると、本気で困惑している表情のように見えてきた。