[ Chapter6「とある悪魔の解放交渉(ネゴシエーション)」 - B ]

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 サイガは冷たいフローリングの床に横たわっていた。
 鼻の奥に残る甘ったるい香りのせいか、しばらくは意識も視界もぼんやりしていた。霧が晴れるように目の前の世界がはっきり見えてくると、次第に周囲の様子が、そして自分の置かれた状況がわかってきた。
 体が重い。
 両手が背中の後ろに回され、手首を縛られている。
 同じ感触に足首も締めつけられている。
「……西原くん。……西原くん、聞こえますか」
 優しいささやき声が耳元に舞い降りた。
 声が来た方へ視線を向けたサイガは、まず白い光を、次にその光が照らす足を見た。それからゆっくりと首を動かし、白いソックスを履いた足の持ち主を見上げた。
 陣内慎が椅子に座ってサイガを見下ろしていた。
「先輩っ!?」
「待って。動かないで」
 起き上がろうとしたサイガを、陣内先輩は静かに、しかし強い口調で制した。
「落ち着いて、よく聞いてください。今、あなたは、両手と両足を縛られています。それはわかりますか」
「……はい」
 サイガは上半身をわずかに浮かせた姿勢でじっとしていたが、次第にその姿勢がつらくなってきたので再び体を横たえ、背筋と腹の力を抜いた。
 蛍光灯の真下に座る先輩を足元から仰ぎ見る格好になる。セーラー服のスカートと脚の間を見ないように視線のやり場を探していると、腰に巻きつけられた白いロープが手に入った。
 陣内先輩はただ座っていたわけではなかった。椅子に拘束されているのだ。
「それ、私の体にかけられたこのロープと、同じものです。それで……西原くんの手に巻いてあるロープの、もう片方の端が、後ろの棚に結んであるんだけど……」
 先輩が顔を上げ、サイガの後方を視線で指した。
 サイガは同じ方向を見ようとして首を回したが、天井しか見えなかった。首と眼球を限界まで動かしてようやく、スチール製の棚の最上段が視界に入った。
「あなたをここまで連れてきた人の話だと、そのロープを今の位置から強く引っ張ったら、棚が倒れてくるようになっている、そうです」
「倒れる? こっちに?」
「そう聞きました」
 棚の最上段に載っている木箱が頭上に降ってくる幻覚が見えた。
 次に棚自体が襲いかかる錯覚が見えた。
 サイガは反射的にうめき声を上げ、首を元の向きに戻した。手首に感じる脈が早い。まとわりついていた香りはいつの間にか消え失せていた。
「そうだ、先輩、は」
 悪い想像を振り切るべく、話題の変更を試みる。
「陣内先輩は、どうしてこんなところに。集合時間になっても来ないからみんな心配して、三年の先輩とか、何回もメール出してたのに」
「ごめんなさい。大事な文化祭は今日なのに。皆さんにご迷惑をおかけしてしまって」
 先輩は真横に視線を向けた。
 壁の一面を厚いカーテンが覆っている。床との間からわずかに漏れた光が、そこに窓があること、今が昼間らしいことを示している。
 しかしサイガの目が届く範囲に時計はない。携帯電話を探そうにも手が動かない。
「今朝、学校へ行く途中、男の人に道を聞かれて。地図を見せられたので、それを使って説明していたら、『地図に光が当たってまぶしいから日陰に行こう』と言われて……近くに止まっていた車の陰に移動したら、急に車のドアが開いて、気がついたら車の中に押し込まれていました」
「そんな……先輩、全然、何も悪くないのに」
 今の話のどこに謝るような落ち度があったのか。ただひどい扱いを受けただけだ。
 怒りや嘆きの言葉がサイガの喉の奥にいくつも現れ、ぶつかり合って嫌な音を立てた。
「西原くんは? 皆さんの様子をご存知なら、時間通りに登校されたんですよね?」
 出かかっていた言葉が全部まとめて砕け散った。
 自分の事情となると言い出しづらいことばかりだ。サイガはしきりに目を動かしながら考えに考え、結局、不審な電話があったことだけを話した。それも電話の内容さえ若干ごまかした曖昧な説明にとどまった。その代わり、最後にこう付け加えた。
「多分、俺のせいです。先輩は本当、巻き込まれただけで。最低だ」
「そんな、西原くん、自分を責めないで。あなただって……」
「わかってます。悪いのはこんなことした奴らだ」
 陣内先輩は口を閉ざし、目を伏せた。
 サイガは少しだけ身をよじり、体の片側に集まった痛みを逃がしながら、周囲の様子をうかがった。
 部屋の中に他の人間はいない。誰かの生活を感じさせるものも置いていない。
 椅子の後方には他の部屋へ通じているらしいドアがあったが、その向こう側からは何も聞こえてこなかった。カーテンの隙間からは木の枝葉がこすれ合う音が断続的に入ってきて、時間の流れが存在することだけを静かに主張していた。
「……そろそろ、演劇部の公演が始まっている頃かもしれませんね」
 しばらく続きそうだった沈黙を、陣内先輩が脇へ追いやった。
 季花高校の演劇部は毎年部員が少ない上、文化祭では伝統の合同劇で裏方を指導する役目を代々任されており、期間中はそれなりに忙しい。しかし部員たちも舞台に立ちたい。そこで合同劇の舞台と小道具を使い、ついでに一部の裏方も借りて、午前中に短い創作劇を上演するのがひそかな恒例行事となっていた。
 そしてそれが終わる頃、合同劇のメンバーは再集合することになっている。もしその時間までにヒロインの所在不明が解決しなければ、どうなるか。
「このままだと、私も西原くんも、大遅刻になっちゃいますね。どうしましょう」
 サイガは横たわったまま陣内先輩の顔を仰いだ。
 悲嘆に沈みそうな心を崖っぷちで引き留める横顔がそこにあった。
「……せめて、先輩だけでも」
「え?」
 カーテンを見つめていた先輩が、何度かまばたきをしてから、サイガを見下ろした。
「先輩。さっき言ってた、俺を連れてきた人って、どんな奴でしたか」
「ええと、若い女の人でした。とても綺麗な方で、確か……」
「すっげぇ派手な格好で、その、なんだ……頭。そう髪の毛、くるっくるに巻いてました?」
「あ、はい。そんな感じだったと思います」
 特徴を表す言葉の選択を迷いに迷い、先輩を困惑させない説明ができたことにサイガは安堵した。そして同時に自分の記憶と今の状況のつながりも確認し、一つだけ心を決めた。
「そいつか、先輩を捕まえた奴か。とにかく誰かがここに来たら、先輩だけでも解放するように頼んでみます」
「そんな。どうして」
 先輩の目が大きく見開かれて後輩の顔を映した。
 後輩は逆に先輩から目をそらし、頬を床に押しつけた。
「詳しくは言えないけど、犯人の狙いは多分、俺を誘い出すことでした。それは達成したから後は俺だけ残ればいい。先輩だけでも学校に」
「それはダメです」
 ささやくことを忘れた一声が、サイガの主張を途中で折った。
「西原くんも大事な役を任されているでしょう。戻るなら一緒に、です」
「でもそんなこと言ってられる状況じゃ」
「ダメです。だって、あなたがいなかったら、私と法廷で戦えないでしょう?」
 ポーシャは断言した。
 シャイロックは口をつぐんだ。
「もしかしたらもう誰かから聞いたかもしれませんが、あなたをシャイロックの役に推薦したの、四組の桑田くんなんです。絶対に合う役だからって。本番もとても楽しみにしているって聞いてます」
 陣内先輩はさらに語気を強めた。
 サイガにとってそれは初めて聞く話だった。
 唐突に出てきた名前から連想したのは、水泳部の前部長。この夏の引退まで部員たちを指導してきた頼れる先輩。それ以外の答えをサイガは知らない。
「桑田先輩、が? どうして……」
「聞いてなかったみたいね。桑田くん、ずっと西原くんのこと気にかけてて、一学期の……」
 どうやら話には続きがあるらしい。顔を上げたサイガは話の続きに耳を傾けようとした。
 しかし陣内先輩の話は唐突に、別の声によって打ち切られた。
「ずいぶん楽しそうじゃない」
 部屋のドアが開いていた。
 サイガは椅子の脚の向こうに、ベージュのストッキングに覆われた爪先を見た。