[ Chapter6「とある悪魔の解放交渉(ネゴシエーション)」 - C ]

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「思っていたのとちょっと違ってたけど、しょうがない。終了」
 死神アッシュが茂みの中から立ち上がった。
 風で枝が擦れる音が鳴り続ける下で、ウィルは「調べ物」の一部始終をただ見ていた。敵襲は既に途絶えている。冥府のバッジを持つ黒衣の少女の他に、この公園を歩くものはない。
(これが死神。話に聞いた……のとは、だいぶ違う)
 講義の内容を思い出すほど訓練生の困惑は深まった。命を刈り取り「予定通りに」持ち去る存在であるはずの死神が、この場においてはまだ誰の魂も取り上げていないのだ。
 ウィルは思考をぐらつかせたまま、振り返って自分の真後ろを見下ろした。
 背もたれのない石のベンチに重孝が横たわっている。一見ただ眠っているようだが、彼の胸には太い針のようなものが一本、ちょうど心臓を貫くように刺さっている。針の先端にくっついた黒い風船のようなものが、呼吸に似たテンポで伸縮していた。
「ご協力ありがとう。あなたが先に飛び込んで制圧してくれていたからとっても楽だった。今から後始末をするから、もうちょっとだけそこで待っててね、見習いの天使さん」
「は?」
 死神の一言にウィルは思わず聞き返した。彼女は調査を始める前に身分証を出して名乗ってきたが、ウィルには指示をするだけで名前も身分も言わせなかったのだ。
「その銃。配属決まる前の実習生が持たされる訓練用のものでしょう? 正規の守護天使のと違うからひと目で判った。勝手に改造して威力上げてあることは黙っていてあげるから、早く鞄の中にしまっちゃいなさい」
 アッシュは忠告しつつ公園の入口付近まで歩くと、そこに倒れている男の背中から風船付きの針を引き抜いた。するとさっきまで彼女が歩き回っていたあたりから、そして重孝の胸元から、同じ針が一斉に飛び出して死神の手元に集合した。
 ウィルはひとりでに飛ぶ風船を見送ってから、握ったままだった武器をショルダーバッグに入れた。自分は何も細工していない、教官が最初からあの状態で送りつけてきたとは言い出せなかった。
「武器は収めた。ところでその針は何なんだ」
「これ? 魂の時間を一時的に止める道具。悪魔に関わった影響で寿命が縮んだ分を補填して、本来死ぬべき日時まで命の灯火が残るようにするの」
 死神の説明は料理の仕方でも教えるように気軽なものだった。ウィルには理解できなかったが、死神が命の定時にうるさいのは本当だということだけはよくわかった。
「ついでにあなたのお友達も調べたけど、結界に飛び込んであなたを奇襲からかばったところで体力を消耗して、あなたが戦っているところは全然見てなかったみたいよ。良かったわね、正体バレなくて」
「それは親切にどうも」
「で、あなた、誰を探していたの? そこに転がっている人間たちの中にいる?」
 アッシュが質問を投げ返してきた。
「人間……」
「さっきあなたに銃やら何やらを向けてきた皆さん、あれ全員、悪魔の誘惑に負けて心を操られた一般人だった。あなたに撃ち落とされて正気に返ったみたいだけど」
「……この中にはいない」
 ウィルは首を強く横に振り、顔に表れていた気まずさをはねのけた。
 今の解説があるまで自分は敵の正体を見抜けていなかった。その場をしのぐのが精一杯でヒントさえ探せていなかった。罠にかかったことといい、今日は情けない失敗ばかりだ。
「来ていないってこと? 一応聞くけど、どんな人間?」
「黄色い頭髪が特徴の若い男だ。多分、こいつと同じ服装をしている」
 ウィルが重孝を指し示しながら説明した途端、アッシュの目つきが変わった。
「そう。なるほどねえ。……なるほどねえ」
 死神は手元で針を一つに束ね、黒いマントの内側に収めると、ウィルの目の前まで歩いてきた。その表情には少しの怒りと強い嘆きがにじみ出ていたが、次に口を開く頃には、彼女はもう仕事中の死神の顔に戻っていた。
「そいつを追うのはやめておきなさい。あなたが近づいていい相手じゃない」
 否定から話が始まった。
「どうしてって聞きたそうね。答えはこうよ、『危険過ぎるから』。未熟なあなたでもさすがに気づいてるわよね? このあたりに悪魔やその眷属が集まってきてることは。その中心にいるのが、あなたの言う黄色頭の少年、西原彩芽(サイガ)」
 アッシュはぶれない眼差しと共に個人名を挙げた。
 それは教官が日記帳を通して教え子に伝えてきた情報と完全に一致した。
「ああ、確かにそいつだ。でもそいつは悪魔との取引も契約もしていない」
 ウィルは突きつけられた言葉を押し返すように語気を強めた。
 対する死神は一瞬だけ、しかし明らかに、何かに勝ったと確信する顔を見せた。
「本人が呼んだとは言ってないじゃない」
「なら、どうして危険だと言える。そいつは何をした?」
「いいえ何も」 アッシュは突き放すように答え、それから首をかしげた。 「そうね。多分あなたの担当教官も知らないでしょうし、隠すことでもないから教えておくわ。悪魔たちが集まっているのは、ある“賭け”のためよ」
「賭け?」
「今、地獄の軍団はその話で持ちきりなの。一部の血気にはやる下っ端たちが、自分の主君が賭けた方に勝たせようとして、ライバル陣営と足の引っ張り合いを始めるほどよ。正直、今はあなたたち天使との戦争よりそっちに燃えてるかも」
 信じがたい話だ。ウィルは口を挟みかけたが、続きを聞くうちに言えなくなった。
 大挙して来たというわりに悪魔たちの活動を見かけないこと。天使の中では残念ながら最弱レベルの自分が今日まで全く襲われなかったこと。「ない」尽くしの理由が敵方の内輪もめにあると仮定すると、出来事に少なくとも不自然でない説明がつけられるのだ。
「でも本当に大事な話はここから。いい? ……最近、西原彩芽の生死が賭けの結果を大きく左右する、という噂があるの。その影響で、あの子が死んだほうが好都合な悪魔、死なれると困る悪魔、双方による泥沼の争いが起きた。あなたは今それに首を突っ込んだのよ」
 アッシュは公園の奥の方へ歩き出し、ウィルについてくるよう言った。
 案内されたのは南北に長い桜埜公園のちょうど中央付近。何かの生き物を模したスプリング遊具から転げ落ちたように倒れた男がいる。仰向けの体を肩口から体幹の方向へ、赤い風船のついた針が深々と貫いていた。
「状況説明だけじゃ納得しないっていう顔をされたから、もう一個特別授業。ここに立って」
 もっと近くに寄るよう死神に求められ、ウィルは彼女の真横に立って男を観察した。
 横を向いて固まった男は武器を持っていない。痩せた体のどこにも何かを隠している気配はない。だがそれ以上に特徴的なのは、元の人相がわからないほどだらしなく緩んだ顔だった。半開きの口は自分自身のよだれに濡れている。
「こいつの、この辺の匂い。嗅いでみて」
 アッシュが男の頬を指した。そこには何やら赤い物体が付着していた。
 ウィルは困惑し、同時に死神の意図を疑った。しかし彼はもっと疑うべき相手がいることをすぐに思い出した。話を聞くだけ聞いて教官を問い詰める材料にしよう、そう思い直すと、膝と片手を地面について男の顔に鼻先を近づけた。
 空気を吸い込んだ瞬間、強烈に甘い香りがウィルの嗅覚を渾身の力で殴った。
「サキュバスの媚薬の残り香よ」
 耐え切れずのけぞった直後、耳に聞き慣れない言葉が刺さった。
 しりもちをついたウィルがよろめきながら死神を見上げた。息が苦しい。問いかけたくても舌が回らない。異変はすぐに収まったが、体の芯に鮮明な衝撃が残った。
「その様子だとまだ習ってなさそうね。快楽への執着から生まれたともいう夢魔の一種で、主食は人間の精気だけどたまに天使も襲うそうよ、せいぜい気をつけなさい。で、問題はそのサキュバスが、あなたの奮闘の裏でコソコソ動いていたこと」
 アッシュは風船の口を掴んだ。すると男の体が大きく震え、針の先端に吸い込まれるように収縮していった。同時に枝の擦れる音も静まっていった。
「この悪魔が結界を貼って人間を煽っている間に、サイガは別の場所で待ち伏せしていた女に捕まったみたい。でもそれが仲間の仕業なら、わざわざ味方を酔い潰す必要はないはず」
 倍以上に膨らんだ風船が死神の指先で揺れた。
「つまり、まさに仲間割れの真っ最中なのよ。解ったらお友達を連れてさっさと帰りなさい」


 まりあは心に重荷を抱えたまま校内を散策していた。
 重孝たちを見送った後、本当は彼らが戻るまで待つつもりだったが、時間がそれを許さなかった。無数の椅子、舞台上からの細かい要求、作業以上に途切れないおしゃべり。予想以上の多忙が彼女を捉えて離さず、気持ちの断片を口にする暇もなかった。
 設営が終わると、早速依子がまりあを体育館の外へ連れ出した。級友は最初こそ顔色を心配してくれたが、まりあがつい「大丈夫です」と答えてからは何も言われなくなった。
 言えない不安が静かに膨らむ。
 中でも心を強く締めつけられたのは、学校内を練り歩く出演者一行とすれ違う時だった。先頭を歩く和泉先輩が何か話しかけてきたが、まりあの耳には届かなかった。
 彼の後ろにいるはずの美しい貴婦人がいない。
 先輩方に混ざって歩くはずの級友もいない。