[ Chapter6「とある悪魔の解放交渉(ネゴシエーション)」 - D ]

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 声の主が誰かを察した瞬間、強烈な悪寒がサイガを硬直させた。
 鮮明な記憶が口と鼻からリアルに流れ込む。甘い香り。押し当てられた唇。熱い吐息。公園で出会い、囚われの身となるまでの一部始終が五感で再現され、回想に染まった空気が胃袋の底に到達するや吐き気に転じた。
「さっちゃんとセンパイ、本当に仲いいのねー。妬いちゃう」
「何、なん、だ、お前……」
 サイガは喉をせり上がろうとする苦味をこらえ、謎の女を精一杯にらんだ。非常時とはいえ陣内先輩の前でこれ以上無様な姿は見せられない。必死の抵抗だった。
 その女は足音をほとんど立てずに部屋の中へ入ってきた。そして陣内先輩を拘束する椅子の脇で一度止まり、中腰の姿勢を取ってささやいた。
「ゴメンね。本当はあなたのこと助けてあげたかったんだけど、ダメになっちゃった」
 耳元でお詫びをささやかれた陣内先輩が振り返り、上から下へと視線を動かして、顔をひきつらせた。一連の動作の理由をサイガはすぐに悟った。
 椅子の前に回りこんできた女は右手に真っ黒な何かを握っていた。
 それは拳銃のようなものだった。もちろん素人にひと目で本物かどうか判断できはしない。しかしそう見えるというだけで、怯むには十分だった。
「ひどいのよ、アイツ。最初にセンパイ騙して連れてきたあの男! さっちゃんおびき出すのに使うだけ、用が済んだら解放するって言ってたのに、気が変わった、両方殺せ、だって。もう、何も解ってない!」
 女が力説しながらサイガと陣内先輩の間を横切った。タイトなスカートの脇に入った銀色の一本線が蛍光灯の下で光り輝く。サイガは真上を見上げることをやめ、部屋の隅へ向かう足を目で追った。
「必要以上に殺したら余計な敵が増えるって言ったのに。だいたい呼び出す理由なんていくらでも作れるんだから、わざわざ人をさらうこともなかったのに。ここまでわからずやだなんて思わなかった!」
 カーテンの隙間が少しだけ押し広げられた。女のシルエットを切り取る光は弱く、枝葉が揺さぶられる音だけが強い。雲行きが良くないようだ。
 外の様子をうかがっているらしい女に、陣内先輩が声をかけた。
「今、その人は……この隣の部屋に?」
「ううん、隣のお家」
 女が振り向いた。分厚いカーテンは再び閉ざされた。
「あなた見てたでしょ、アイツがさっちゃん見てから、怒って出てったの。それからどうしたと思う? 銃持ってお隣さんのとこに押しかけて、そこの奥さんと子供を人質にとって、立てこもってるのよ。私があなたたちのこと両方撃たなかったらこっちを殺すって言って」
 事件の舞台と話の危険度が突然二倍に膨れ上がった。
 サイガはここでようやく、自分に変な呼び名がつけられていることに気づいた。しかしそんなことはすぐにどうでもよくなった。
 唾液を飲んで不快感を押し戻しながら、説明とも愚痴ともつかない話に耳を傾ける。
「さっきまで何度も交渉してたのよ。もうちょっと時間ちょうだい、とか、お互いひとりずつ解放しましょ、とか。でも全然ダメ。意地っ張りなんだから!」
 カーテン越しに聞こえていた風の音が途絶えた。
 一瞬だけ室内に充満した無音のノイズが、耳障りなプロペラ音に取って代わられる。窓の外をヘリコプターが飛んでいるらしい。
「では、あなたはどうするつもりなんですか。……私達、殺されるんでしょうか」
 陣内先輩が女の手元に目を向けた。
 問いかける声は震えていた。
「できるわけないに決まってるじゃない」
 下を向いた銃口も震えていた。
「その人の要求は、それだけですか」
「それだけだった。二人をこれで撃ち殺せ。壁の向こうからでもやったって分かるように」
「壁の、向こう。……音でしか、わからないなら。たとえば何か別のものを撃って、言われた通りにしたと伝えるのは」
「私もそれ考えた。でもねぇ……」
 女がカーテンの前を離れ、ロープを結わえた棚の前に立った。そして握りしめていた拳銃らしきものを棚の上に置くと、その手で違うものを取り出した。
 数秒後、小型の液晶テレビがカーテンの前に設置された。受像に必要なコードは既に接続済みで、女が側面のボタンを押すとすぐに電源が入った。
「多分、もう無理」
 子犬を抱いた赤毛の女性が画面に現れた。それが何のCMだったかをサイガが思い出す前に、映像が別のチャンネルのものに切り替えられた。
 ひと目でニュース番組とわかるフォーマットの中に、マンションの外観を収めた映像が入っている。男性の声がテロップをなぞるように説明を読み上げた。
『こちらのマンションの四階の部屋に、猟銃のようなものを持った男が立てこもっていまして、現在警察による説得が続けられているとのことです』
 それはいかにも物騒な事件の中継映像だった。
 概要に続いて述べられたのは耳に馴染んだ市名。繰り返し映し出される事件現場は見覚えある建物と歩道。報道陣や野次馬の奥に見える公園も、サイガには心当たりがあった。
 今そこでテレビをいじっている女に自分が捕獲された場所だ。
『警視庁によりますと、今日の午前十時頃にこのマンションの住民から「銃を持った男が突然家に入ってきた」という通報があり……』
 次々に変わる画面は、いくつかの報道番組とそうでない番組を交互に映した。この街で受信できる放送局を一巡して、事件の中継映像に戻ると、女はため息をついてカーテンの前を離れた。
「……今アップになってる、この部屋。警察の人がいるとこ。これが、私達のいる場所」
 マンションの廊下が映される。制服の警官だけでなく防具で武装した人もいる。
 陣内先輩が小さく声を上げた。悲鳴をこらえたような息づかいだった。
「今ね、こことお隣さんは、警察とマスコミに囲まれてるの。だから私がセンパイやさっちゃんを逃がそうとしたら、すぐ見つかっちゃうのよ。ちょっとでも動きがあったらすぐ騒がれるし、テレビのカメラ、向けられちゃうでしょ?」
 まさか。サイガは言いかけたが、直後に頭をよぎったリアルな想像が否定を否定した。
 すぐそこに警察がいるなら助けてほしい。
 でも自分たちが助け出されたら、そのせいで隣の部屋の人が死ぬかもしれないという。
「じゃあどうすりゃいいんだよ……」
 嘆きに応える者はいない。
 サイガはテレビから目をそらした。
 陣内先輩は閉じたまぶたに力を込め、うつむいた。
 素性の分からない女は糸が切れた操り人形のように座り込んだ。
 点灯したままのテレビだけがしゃべり続ける。進行中の立てこもり事件についてもう一度概要を読み上げた後、別のニュースを一つ伝え、続けて天気予報が始まった。今日の東京は夜まで晴れ。降水確率はゼロ%。
「もうすぐ、十二時」
 陣内先輩が下を向いたままつぶやいた。
「演劇部の公演、終わってしまいますね」
 サイガは何も言えなかった。
 気の利いたなぐさめなんて思いつかないし、今必要なのはそんなものじゃないだろう。欲しいのはこの嫌な状況を打開する妙案だ。しかしいくら考えても取っ掛かりの一つも見いだせず、己の無力を痛感するばかりだった。
 そもそも自分がこうして捕まった理由、命を狙われることになった原因も、まだわかっていないというのに。
(なんで俺が? ……いや、それより今は先輩だ。なんとしても逃がさないと)
 この部屋の中で、脱出の手がかりに近いところにいるのは一人だけ。協力を持ちかけるべく、サイガは自分をさらってきた敵を見た。そして鳥肌を立てた。
 相手もちょうどサイガの方へ顔を向けていたのだ。
「……おなかすいてきちゃった」
 唐突な発言の後、女はふらふらとサイガの前まで歩いてきた。
「どうせ誰も見てないし。最後の反撃の前に、もう一口だけ、もらってもいい?」
(もらうって、何を)
 サイガには見当もつかなかったが、嫌な予感はした。それも過去の苦い記憶が霞むほど強烈な、本能の警告。
(やばい。ふざけたこと言ったりシリアスな話になったりしたから気づかなかったけど)
 女が両膝を揃えてしゃがみこんだ。サイガの視界にぐっと近づいた顔は、どこかうっとりしているようにも見えた。
(こいつもやっぱりめんどくさい女だ!)
 迫り来る真紅の唇を前に、サイガが何かの終わりを覚悟した瞬間。
 上から何かが落ちてきたように見えた。
 重たい衝撃音と共に女が動きを止めた。そして膝を曲げたまま、横へ転がるように倒れたのだった。