[ Chapter7「新たなる課題」 - D ]

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 職務質問、というものをその時のウィルはまだ知らなかった。
 しかし女が提示した紋章のモチーフには見覚えがあった。それをどこで見たのかはすぐに思い出せた。警察署。彼が柳医院に保護されて間もない頃、検査の後に連れて行かれた場所だ。
 ゆえにウィルは状況を推測できた。相手は制服も装甲も身につけてはいないが警察官なのだろう。そんな人物から、恐らく個人的ではない理由で、問われている。
「あなた、先週の土曜日に起きた人質立てこもり事件の現場にいたわよね。規制線の外をうろうろしているところ、私、見てたんだけど」
 女は手帳を閉じてスーツのポケットに収めながら、矢継ぎ早に言葉を並べた。断定する指摘、その根拠、そしてまた問いかけ。
「どうしてあの時現場にいたの?」
「え?」
 どうして、と問い返すことをウィルは寸前で取りやめた。
 白金色の影を映した瞳が少しもぶれない。女は背の高いウィルをただ見上げているだけとも取れるが、その両足の姿勢は獲物が隙を見せる瞬間を待ち構えるようでもあった。
 少なくとも味方に対する態度とは思えなかった。
「ほら、他の人かき分けて前に出ようとしてたじゃない。本当は何か……」
「稲瀬(イナセ)さん! また勝手に一人で始めて!」
 たたみかけようとした女が別の声に押しのけられた。
 それはウィルの背後から飛び込み、続く足音とともに新たな人物を連れてきた。稲瀬と呼ばれた女の肩を引いて下がらせたのは、朝晩によく見かける勤め人の装いをした若い男だった。
「あ、すみません。何か気分を悪くされることを聞かれませんでしたか」
 男は稲瀬の反発を遮りながらウィルの方へ振り向き、小刻みに何度も頭を下げた。困りきった顔を前にウィルは何の反応も返せなかった。
 どうやら男女二人は仲間らしい。女の方に比べて体格は勝るが何故か弱そうに見えるこの男も、やはり警察官なのだろうか。
「どうして止めるの。さっきも言ったじゃない」
「だからそういう問題じゃないんですって稲瀬さん、ちょっとこっちに来てください。あ、すみませんがお兄さん、ほんの少しでいいので、そこでお待ちいただけますか」
 もう一度だけ頭を下げた男は、稲瀬の肩に手を置いたまま、押し出すようにしてウィルからさらに遠ざけた。連行される女の抗議が多少聞こえにくい程度の距離が開いた頃、移動が止まり、口論のようなものが始まった。
 横断歩道の前にウィル一人が残された。
 本当はこんなところに突っ立っている場合ではない。課題の終了は告げられていないし、買ってきた商品を院長に届ける仕事だって残っている。彼は十分に自覚していた。
 しかし実際には一歩も動けなかった。稲瀬が相棒の肩越しにチラチラと視線を投げてくるのが嫌でも目に入る。帰ろうとすれば即座に飛びかかられそうで、警戒を放り出せなかったのだ。
(仕方ない。方針を変えよう)
 ウィルは視線から逃れることをひとまず諦め、彼らが戻ってきたときの対応を考え始めた。稲瀬が明確な目的を持って行動しているなら、それを達成させれば話も済むだろう、と考えたからだった。
 それにしても彼女は一度見かけただけの相手に何を期待しているのか。
 先ほどの会話からキーワードを拾い集めていると、別の形で出会ったフレーズも思い出した。
《マンション立てこもり“早すぎた突入指示”警察が前代未聞の大失態》
 少年を追って書店に入った際に見かけた文章の一つだ。もちろんそれが記された冊子を手に取る暇などなかったが、恐らく同じことを指している話題を、ウィルはその日の朝にテレビから聞かされていた。
 曰く、あの事件はまだ終わっていない。
 世に言う立てこもりが発生すると警察は通常、まず犯人との対話を試みる。なだめ、話を聞き、要求を引き出し、時には受け入れ、人質解放を目指して交渉を重ねるのだという。犯人を刺激しないよう慎重に話を進めるため、解決までに日をまたぐことも珍しくないらしい。
 ところが今回は、危険な状況下の最終手段であるべき強行突入が他の段階を待たず、通報からわずか数時間という異例の早さで実行された。人質の無事と犯人の身柄は確保されたものの、その経緯が警察内部で問題視され、すぐに調査が行われた。そして驚くべき事実が明らかになったという。
 現場周辺で武器を構えていた捜査員たちは「無線を通じて突入の指示を受けた」と口を揃えた。その一部は無線の相手と会話もしていると答えた。
 彼らを指揮していた隊長は指示自体を否定した。彼の周囲にいた捜査員たちは何も聞いていないと主張した。
 そして無数の交信記録を解析した結果、突入を指示する音声や捜査員との会話は一つも見つからなかったというのだ。
(警察は声の主を探している、と言っていた。あの二人がその一部隊ということか)
 事件当時、現場となったマンションの前で、ウィルは“指示”を耳にした。
 無線を介さず。
 結界の中で。
 ウィルには一つ心当たりがあった。犯人も手口も容易に想像がつく。しかしそれは天の軍勢の一員だからこそ導き出せる推測だ。結界を感知できない人間に話したとして、彼らは説明を理解できるだろうか。情報として受け入れるだろうか。
 思考を巡らせている間に、離れていた二人が戻ってきた。
「お待たせ。話の続き、聞かせてちょうだい」
 稲瀬は相棒との会話によって戦意をだいぶ削がれたらしく、声の勢いが少し弱まっていた。
「ああ、すみません、本当にこの人が失礼しました。このところ奇妙な事件が立て続けに起きていまして、少し焦っていたようです」
 その相棒の方は先ほどと変わらず困った顔をしていた。感情が消えていないだけでなく、元からそういう人相なのかもしれない。
「とにかく、あなた現場の様子を見に来たって言うより、何か探しているみたいだったから気になったの。何が目当てだったのか教えてくれる?」
「あ、言いづらかったら、いいですよ。任意なので。はい」
 相棒から間髪入れずフォローが入ったが、それでも稲瀬の眼差しから返答を強く求める空気は消えなかった。
「……人を探していた」
 ウィルは仕方なく、あらゆる詳細を省いた最低限の答えを提示した。嘘は言っていない。その自負を持って、疑う稲瀬を逆に見つめ直した。
「見つかった?」
「見つからなかった」
「そう」
 稲瀬は隣を一瞬だけ気にして、それから眉間にしわを寄せた。
「あの辺にいたとき、不審なものは見かけなかった? 怪しい機械を持った人とか、誰かが喧嘩してるところとか。あと、誰かの悲鳴を聞いたとか」
「いいえ」
 不審な人物は見ていない。出会ったのは敵だけだ。
「ありがとう」
 ウィルが言い切ったことでようやく諦めをつけたのだろうか。稲瀬は顔面と肩肘から力を抜いた。そして先程の手帳をもう一度取り出すと、その中に挟んでいた白いカードを一枚抜いて、ウィルに手渡した。
 それは彼女の名刺だった。
「何か思い出したり、気づいたりしたことがあったら、いつでもここに連絡して」
「ご協力ありがとうございました」
 二人の警察官は小さく頭を下げてから、書店脇の歩道へと去っていった。
 交差点の片隅に再びウィル一人が残された。
 通り過ぎる人々の視線を絶えず浴びながら、彼はカードの表面に目を通した。文字は読めるが意味はつかめない。
(院長に聞こう。これは教官の領域ではない)
 裏返そうとしたカードが風にあおられ、買い物袋の隙間へ落ちていった。