[ Chapter7「新たなる課題」 - F ]

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 ――俺はどうしてそこで止まってしまったのか?

 ウィルはある公園の入口で足を止めていた。
 本人の意志がそうさせたわけではない。彼は教官の課題を諦めた後、せめて院長のお使いだけでもやり遂げようと、ようやく覚えた柳医院までの道順を忠実にたどっていた。記憶の再構築だけで頭の中は一杯になっていたはずだった。
 それなのにどういうわけか、先へ進めなくなった。
 目の前にあるのは、先日敵と交戦した場所とは違う、低木に囲まれた見通しのよい公園だ。子どもたちがカラフルな遊具に飛びついて騒いでいる。その近くにあるベンチの一つには、書店にいた少年の持ち物と同じ箱型の鞄が無造作に積まれていた。
(この中に……いないようだ)
 かすかな期待がひらめいて消えた。
 心の揺れが落ち着いた途端、ウィルは両手に持った手提げ袋が急に重たくなったように感じた。書店の前からこの場所に至るまでずっと袋の持ち手を握りしめていた手のひらが、ここぞとばかりに負荷の存在を主張してくる。
(ああ、そうか。俺は疲れているのか)
 ウィルが手元を見て再び顔を上げる間に、子どもたちが遊具から降りていた。それぞれが鞄(ランドセル)を背負い、競うように公園の外へ飛び出していった後、回転遊具の空回りする音だけが残った。
 熟した唐辛子を思い出させる、赤みを深めた空の下。
 両手を休ませると決めたウィルは一番手前のベンチに目をつけた。そして二つの袋を同時にベンチの上へ置くと、その間に割り込むように腰を下ろした。
 重荷から解放された手のひらの痛みが徐々にしびれへと変わっていく。
(失敗は失敗だ。そこを否定しても仕方ない。問題は教官へどのように報告するか)
 深く息を吐き出しても心のつかえはなくならない。ウィルは体の力が抜けるに任せてうつむき、それから顔だけ持ち上げて前を見た。
 直後、気の重さも体の重さもすべて吹き飛んだ。
 誰もいなくなったはずの公園に人がいた。
 中央の水場を背にして立つ人影がひとつ。先程まで遊んでいた子どもたちよりもずっと小柄で、鞄も背負っていない。もし同じものを持っていても大きすぎただろう。あの子らよりも明らかに幼い子どもなのだ。
 その幼児が、まっすぐにウィルの方を向いている。
 しかも歩いて近づいてくる。
 ウィルは最初、その様子をただ見ていた。距離が縮められるに連れて相手の容姿、表情といった物質界目線の情報は掴み取れても、心の中は全く視えてこない。視ようとすることを忘れていたのだから当然だが。
 そうしているうちに、その幼児はウィルに触れられる一歩手前で立ち止まっていた。
 背後の黄昏と同じ色の瞳が見上げてくる。
 あるいはどこかで見た不思議な色が。
「あ…………っ?」
 思考がようやく心当たりを捉えるや、ウィルの全身が氷に包まれたように硬直した。
 その間に幼児は訓練生の脇へ回り、ベンチの縁に手をかけてよじ登ると、荷物を置いていない端の空席に腰掛けた。
『ようやく気づいたか。あれほどの目に遭いながらここまで無防備とは』
 重厚な響きを持つ声が真横からウィルの耳を打ち据えた。若き天使は数秒前のひらめきを確信として掴んだ。
《もし彼の存在を察知したら、決して目を合わさないように》
 教官の警告文が記憶の先頭で激しく明滅を繰り返す。
 ところが、謎の幼児――堕天使サリエルは、そのあどけない顔に全く似合わない声色でこう告げた。
『力を抜け。今回は危害を加えに来たわけではない』
 ウィルの肩のこわばりが緩みかかった。しかし彼はすぐに自分の置かれた立場を思い出し、緊張の糸を張り直した。
 乗せられるな。相手は敵だ。
「……それなら、何を目当てに来たと言うんだ」
『貴様と話す為に』
 サリエルは迷いなく答えた。
『今が確かめる時だと判断した。あのセラフィエルが何を思い、不足ばかりの未熟者をこんな所へ遣わしたのか』
 固有名詞の不意打ちが緊張も警戒も押し潰した。
 ウィルは隣を見下ろさずにいられなくなった。
「教官のことを……その名を、どうして知っている」
 そこには横顔があった。
 自分と相手を隔てるものはふくらんだビニール袋が一つだけ。その程度の距離を置いて見た姿は、頭も両肩も小さい。腕も脚も細い。見た目だけはあまりにももろく、そしてウィル以上に無防備だった。
 そんな幼児がベンチの上で足を投げ出し、その爪先の方向に顔を向けたまま、語りかけてくる。
『我輩も元は貴様と同じ側にいたのだ。当然知っている。彼奴は若い天使達、それも貴様のように規律を乱す者ばかりを教えているのだろう?』
 ウィルの魂に氷柱が刺さった。
 相手が口を一切動かさずに発話していることにふと気づいたものの、そんなことは些細な疑問で、確かめる気も起こらない。
 教官の立場。それは指導を受けているウィル自身も薄々感づいていたことだった。思えば一緒に訓練を受けてきた他の未熟な天使たちは、何かしらの失敗や問題を引き起こしては呼び出される劣等生ばかり。最初に物質界を訪れた際のパートナーも、上の指示より自分の直感を優先して研修の現場から逃げ出した。あれはあれで減点されていたはずだ。
『しかしながら、最低限の課程も終えない内から争いの最前線に投げ込むなどという指導法は初めて見る』
「俺も聞いたことがない」
『そうか。では、貴様は今回のセラフィエルの行動について、どう考えている?』
「……俺が、どう考えている、か?」
 聞き返しながら、ウィルは日記帳の存在を思い出していた。それは今、ショルダーバッグに収められた状態で、座る背中の後ろに潜んでいる。
『他に何がある』
 サリエルの目が動いた。
 琥珀色の視線が次の方向へ定まる前に、ウィルは顔を背けていた。バッグの端へ伸ばしかけた手も思わず止めていた。
『充分に納得して、あるいは盲目的に付き従っているようにはとても見えない。何かしら考えたはずだ。例えば敢えて困難な課題を作る理由』
「訓練、なんだろう。概念で教えても身につかないから経験で覚えさせるだとか、そういう話じゃないのか」
『ではその容姿はどうだ。この土地に於いてはいささか目立つ特徴ばかりを備えているように見えるが。物質化はセラフィエルが自ら施したものだな?』
「ああ……」
 ウィルはまとまらない言葉の代わりに唸った。
 今度は補習初日から抱いていた違和感を射抜かれた。弱い風を浴びている生糸の色の髪も、西日を受けて色づく白い肌も、自分の他にはテレビや街角の広告でしか見たことがない。人とすれ違えば凝視を誘い、会話するときは他の人間たちとは少し違った態度を取られてしまう。そんな外見になったのはどうしてなのか。
 いくら考えても答えの入口さえ掴めていなかったのに。
 教官が単なる思いつきでこんな造形をしたのではないか、と思っていた。だが今は誰かの意図が絡まった「謎」にしか見えない。何らかの狙いがあってそうしたというなら、そこにはどんな心が隠されていたのか。
「気になってはいたが……分からない」
『成程』
 衣擦れの音がした。サリエルが座る姿勢を少しだけ変えたのだった。
『貴様が問題の本質を何一つ掴めていないことはよく解った』
 大きな鳥の影がウィルの視界を横切った。
 目の前に広がる真紅の世界が色褪せるような気配はなかった。