[ Chapter7「新たなる課題」 - G ]

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 日没が刻一刻と迫っている。
 ウィルは公園のベンチの片隅で、買い物のビニール袋を両側に従えるようにして座っている。そしてもう一方の隅には、幼児の姿をしたサリエルが座っている。
 身を乗り出せばその細い腕を掴める距離。ウィルにとっては意味のある構図だった。その気になればいつでも敵を捕獲し、反撃される前に組み伏せられる。そんな好機は多くない。
(そうだ。ここでこいつを捕まえたら)
 相手はウィルが補習を受ける羽目になった原因のひとつ。
 そして補習を完遂させるにあたって恐らくは最大の障害。
(もしかしたら……)
 ウィルはおそるおそる横を見た。
 幼子の愛らしい顔がこちらを見上げていた。
 見られている、ただそれだけなのに、何もかも見透かされたように感じたのはどうしてなのか。考えようとしたところで教官の警告が再び頭をよぎり、ウィルは無駄に力を入れて首を逆へ向けた。
「そういうあんたは、どうなんだよ」
 黙っていられなくなり、思いついたことを口走る。
『何の話だ』
「その姿の話だ。人間の中に紛れるといっても、さすがに小さ過ぎはしないか」
『これは必要なものだ』
 ベンチの足がわずかにきしむ音を立てた。
 自分の手元に視線を落としたウィルの隣で、幼子が両足をブラブラと揺らしている。
『貴様が考える通り、この身体は脆い。今この場で殴られでもしたなら容易く壊れるだろう。しかし利点も案外に多い』
 サリエルの言葉はこの状況を楽しんでいるようにも聞こえるものだった。声色にも充分すぎる余裕が伺える。
 そして、刃を向けてくる気配は一向に現れない。
 向こうがそう来るなら。ウィルは相手からも情報を引き出そうと決めた。疑問なら日記帳に書ききれないほど抱えているのだ。
「いったいここで何をしようとしている」
『今は言えない。言った所で何の利益も生まない』
「魂の取引があったと聞いた。あの人間を手に入れてどうするつもりだ」
『それもセラフィエルに吹き込まれたか』
 板のきしむ音が止まった。
『取引を行ったことは事実だ。仔細は教えないが、当面の間あれは殺さずにおくだろう。欲しければ早く奪いに来い』
 簡単な遊びに誘うように敵は言う。
 もちろん気楽に乗ることなどできるはずもない。
「どうするか決めるのは俺じゃない。……でも、待ってくれ。それは……」
『それは?』
 ウィルの眼の奥で記憶がまたたく。
「……教官と何か関わりのあることなのか?」
 彼がサリエルと最初に相対し武器を交えたとき。
 暴発した銃のエネルギーが飛散した瞬間、霊的素子(エーテル)の濁流の中に、セラフィエル教官の姿を見た。
 追いすがる。泣き叫ぶ。哀しみ、悔やみ、怒る。言葉は何一つ拾えなかったが、行動を起こさせる情動の強さはまぶしいほど伝わった。
 何故そんなものが現れたかは今も不明だ。しかしウィルはその出来事が目の前の敵と無関係だとは考えていなかった。相手が幻惑の使い手と聞いてからはなおさら疑った。
 だから踏み込んだ。彼なりの確信、しかも教官に口止めされた話の外側に。
『はっきり言っておこう。それは貴様に課されている目標とは全く関係ない』
 サリエルは何一つ聞き返さずに答えた。
『だがいつまでも無関係のままでいられると思うな。全ては貴様次第であり、貴様がいつまで教官に従い続けるかにも依るだろう』
 幼子がベンチから降りた。そして乾いた土を踏みしめ、ウィルの正面に立った。
 小さな靴に描かれた不気味な生き物が、下を向いたままのウィルをとぼけた顔で見上げていた。
『セラフィエルに伝えろ。気づくのが遅すぎる、と』
 ウィルは思わず顔を上げた。
 その時既に幼子は回れ右をしていて、直後には走り出していた。向かった先、公園の奥を通る道に、誰かが立ち止まっている。短い足による全力疾走の終点はその人物が広げた両腕の中だった。
 サリエルは去った、とウィルは解釈した。今ここで彼の目に認識できるのは一組の平凡な親子だけ。天使の技能で魂を感じ取ろうとしても、期待したものは何も拾えなかった。
(あれを……あいつをどうにかしない限り、俺の課題は終わらないのか)
 名前も知らない親子がどこかへ歩いて行った後、公園にはウィル一人きりが残った。取り残されたのか、解放されたのか。とにかく一人になったことで見習い天使の緊張は緩んだ。
 両腕から力が抜け、手の甲が両脇に置かれた買い物袋に触れた。
 その瞬間、敵への警戒を失った心の空隙に現実がなだれ込んだ。果たすべき大事な用事がある。今起きたことの意味を考える暇などなく、そもそも公園の片隅に座っている場合ではなかった。
(俺は何をしていた?)
 ウィルは即座に立ち上がった。そして両手に袋を持って、来た道を引き返そうとした。しかしその足は三歩と進まず再び止まった。
 公園の入口に重孝がいた。いつからいたかは分からないが、とにかくそこに立っていた。


 結局ウィルは日没を過ぎてから、重孝に連れられて柳家へ帰り着いた。寄り道続きのお使いについて院長は何も尋ねず、ただ労をねぎらった。
 夜の家事を一通りこなし、重孝から借りている部屋に引き上げて、ようやくウィルは一人になる時間を得た。ドアの外に他者の気配がないことを確かめてから日記帳を開くと、新しい書き込みが現れた。
《今日もお疲れ様でした》
 見慣れた教官の筆跡がページを埋めている。その内容は、ウィルがまさにこれから要求しようと考えていた、今回の課題の解説だった。

《結果については既に聞いています。対象を最後まで見届けることができなかった点は残念でしたが、一度の失敗で立ち止まらず最善の手を探し続けた姿勢は評価します。
 今回の観察対象の少年ですが、接触中にいくつか不自然な挙動が見られたはずです。彼は当時、友人たちから盗みを働くように強要され、それを実行に移そうとしていました。しかし貴方を見たために彼は罪を犯すことをやめました。そして寄り道も災いもなく無事に帰宅したと、そちらの地域の守護天使から報告がありました》

 読み進めるほどウィルは難しい顔つきになった。
 無事を知らせるくだりには少しだけほっとしたが、その続きによって再び目が険しくなる。

《今回の最大の目的は人間というものを知ることでした。
 貴方は今日の課題を進める過程で、様々な人間に出会い、その言動を観察しましたね。本来は少年の追跡を通して「見守り」の適切な距離感についても学んでいただくつもりでしたが、予想外に大きな収穫もあったようですし、及第点としましょう。
 一息ついたら、今日出会った人々についてレポートを作成し提出してください。それでこの課題は終了とします》

 視線が余白までたどり着いた。ウィルは日記帳に挟んでいた羽根を手に取り、余白の隅に先端をかざしかけて止めた。
 報告の題材なら山盛りだ。買い物客、書店前の通行人、警察官たち。そして黄昏の下の出会い。覚えていることを順番通りに記すにしても、全部詰めればいいというものでもない。
 ウィルは真夜中過ぎまで悩んだ末、まず人間たちについての報告だけをまとめた。それから敵との突然の遭遇について経緯を記し、最後に二つの疑問について教官に意見を求めた。
 稲瀬が調べていたらしい事件の、人間が知り得ない裏の真相。
 サリエルが一方的に託した伝言の、教官しか知り得ない真意。
 未熟者なりに表現と踏み込み方を選んだ書き方をしたつもりだった。しかし夜が明けても、さらに一日が過ぎても、日記帳に返答が書き込まれることはなかった。