[ Chapter8「俺はまだ勉強始めてないだけ」 - A ]

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「サイガってもしかして、桂のことも苦手?」
 何気ない問いかけは静かな居間によく響いた。
 カレーライスに突き刺さりかけたスプーンが止まった。
「は? 何だよ急に」
 十月も半ばに差し掛かったある日の夜。西原家の居間で家族が夕食を囲む、その和やかな空気が突然、思いがけない一言に吹き消された。
 質問者はサイガの母、美由樹だった。空席を一つ置いた隣から、無難な返事を期待する視線を長男に送っている。その隣、ちゃぶ台を挟んでサイガと向かい合う位置には、桂のきょとんとした顔があった。
「あなたから桂に話しかけるところ、見たことない気がするの。菜摘はよく面倒見てくれてたけど、ほら、夏休み終わったからアパート帰ったでしょ?」
 短大近くでの一人暮らしを再開した姉に代わり、実家にいる兄が弟の世話を引き受ける。美由樹はそんな展開をひそかに、あるいは無意識に期待していたらしい。
 桂はしばらく美由樹の横顔を見上げていたが、やがて興味を失ったのか、カレーライスをゆっくりと口に運び始めた。スプーンを持つのは左手で、右腕はちゃぶ台の下に引っ込めたまま。小さな皿はその下に敷かれた滑り止めが支えていた。
「桂も本当はお兄ちゃんと仲良くしたいって思ってるはずよ。気づいてないみたいだけど、時々あなたのことじっと見てる時があるんだから」
「どうだか……」
 サイガは母の言い分に対して首を縦に振れなかった。
 この食卓で一番多い山盛りのカレーが、一向に減らないまま少しずつ冷めていく。対照的に、一皿だけ色の違う子供向けカレーは順調に食べ進められていった。
「たまには遊んであげてね。……それで、実はね。サイガにお願いがあるの」
 美由樹は自分の向かいに座る夫の両親を見てから、少しためらうように話を切り出した。
「今度、私とおじいちゃんとおばあちゃんの三人で、お父さんのお見舞いに行こうと思ってるの。今いる病棟は集中治療室ほど厳しくないから、ゆっくり面会できるし。でもね、そこもやっぱり桂は連れていけないのよ」
 病院とは病気の集まる場所だ。小さな子供連れの面会は基本的に禁じられている。先日は帰国直後という特殊な状況だったのでやむなく病院内を連れ歩いていたが、今は違う。
「だからその日はあなたに桂のことを見てほしいの。お父さんのお見舞いには行かなくていいから、二人でお留守番しててくれる?」

 仲良くしてほしい。母のささやかな願いは、夕食の時間が終わるなりあっけなく放棄された。サイガは桂に一切話しかけることなく、最低限の用だけ済ませるとすぐ自分の部屋に閉じこもってしまったのだ。
「簡単に言ってるけど……」
 ひとりきりの空間にほっとした口から本音のかけらがこぼれた。
 閉ざしたふすまの外側からは今のところ何も聞こえなかった。
「……仲良くって、何すりゃいいんだよ」
 そもそもサイガは十歳も年下の子どもとの接し方がわからない。何をして遊べばいいかなんて思いつかない。桂が菜摘式を忠実に守って毎朝布団へダイビングをしてくる意地悪には慣れたが、それも痛みをこらえるのが精一杯で、反撃や対策には至っていなかった。
 ましてや相手はただの幼児ではない。無邪気な笑顔の下には別人、それも大人の人格が潜んでいて、話し言葉は片言でも周囲の人間の会話は完璧に理解しているらしい。しかもその本性を知るのは、この家の中では恐らくサイガだけなのだ。
(時々急に大人の声でしゃべるし。こっちが何かしたらすぐ首絞めてくるし。……そういや結局この前のこと聞けてないけど、聞けるかよ、あんなやばい奴に)
 考えるほど嫌な要素しか浮かばない。ついにサイガは思考そのものを放り出して畳の上へ寝転がった。
 心と体の緊張が程よく抜けたところで起き上がると、日課にしている筋トレを一通りこなし、そして級友から借りた漫画を読み始めた。半分ほどまで読み進める頃には憂鬱になっていたこともすっかり忘れていた。
 しかし、漫画の中の戦いが白熱してきたまさにその時、ふすまを開く音がサイガを現実に連れ戻した。
「何だよ、声ぐらいかけ……桂?」
 顔を上げたサイガが見たのは、薄暗い廊下に立つ桂の姿だった。おもちゃの柄のパジャマに表情のない顔、すっかり寝る準備の整った弟が、まっすぐ兄の部屋へ入ってきたのだ。
「勝手に入んな。お前の部屋は隣だろ」
 サイガは壁を指した。示した先には美由樹が寝起きする部屋がある。夏の間は菜摘が、そして先月からは桂がそこに間借りしていた。
 その桂はというと、一度は兄の指が向いた先へと目をやった。しかしすぐに小さく首を傾げると、後ろに回した左手でふすまを閉ざしてしまった。
「だから勝手に入ってくんなって。ここは俺が寝る場所。お前はあっち」
"What?"
「そのニホンゴワカリマセンって顔やめろ。俺はだまされないからな」
 一言ずつ強調しながら、サイガは桂をにらみつけた。
 桂はしばらくぼんやりと正面を見ていたようだった。ところが急に目をはっきり見開くと、左手を正面に伸ばし、手首をひねった。
 黒いチョーカーがサイガの首を一気に締め上げた。
「またこれ、かよ……畜生っ……!」
 サイガは漫画を放り出して畳の上に倒れた。全身の脈が警報を鳴らす中、鼓膜を飛ばして頭の内側に声が響いてくる。
『何も解っていないのは貴様の方だ。抵抗しているつもりのようだが、見当違いも甚だしい』
 兄を見下ろす目が黄金色の光を放った。
 弟を見上げようとした目にその輝きが刺さった瞬間、サイガは呼吸を忘れた。直後に首輪の拘束が緩み、解放された血流と緊張が全身に拡散して、再び起き上がる力を奪っていった。
『先刻の会話を思い出せ。ただ話を合わせておけば済むような場面に、貴様はわざわざ理由をつけて依頼を断ろうとしていただろう。抗うべき相手は母親なのか?』
「そ、それ、は……」
『あの事故から一月半。最初に相見えた時には威勢のよいことも言っていたが、その後はどうだ。目の前の苦難から闇雲に逃れようとするばかりで、我が支配に立ち向かっているとはとても言えぬ』
 サイガの反論は言葉の形を取る前に押し潰された。その残骸がおかしな声として喉からこぼれた。
 そもそもの原因や経緯はともかく、ろくな反撃ができていないのは事実だ。どうすれば反撃になるのかもわからない。
 けれども。サイガは奥歯を噛みしめる。
「別に……俺だって、手ぇ抜いてるわけじゃねーし」
『解っている』
 桂が倒れたままの兄の傍らに立ち、その視界の中央で片膝をついた。
 そこにいるのは五歳の幼児のはずなのに、サイガの目には何故か、いつかの武装した歩兵の姿が重なって見えた。
『元より貴様には何の心得もなく、いくら己の頭で考えたところで我輩を打ち払う手段には辿り着けないはずだ。勝敗は初めから明らか。……しかしそれでは面白くなかろう』
 黄金色の目がサイガの顔を覗き込む。そして、
『近々、貴様が通う学校で中間試験が行われると聞いている。そこで貴様の実力を示し、我輩を満足させられる成績を残せたのなら、相応の報いを与えてやる』
 幼児の小さな口が、あるいは歩兵の黒いマスクが、意外な言葉を発した。
『何ならその首の縛めを外してやってもよいぞ』
「へっ!?」
 提案する桂――サリエルは遊びに誘うような気軽さをもって言う。
 聞かされたサイガはその言葉を、表情をまず疑った。しかし提案の意味に気づくと、無意識に右手で首筋に触れていた。
「マジかよ。本当に外せんのかこれ」
『実行する気のない条件を提案する趣味はない』
 冷たい指先がチョーカーの縁をなぞるように撫でた。そんなふうに錯覚したサイガは、首筋にまとわりつく寒気を振り払うように起き上がった。
「いいぜ。その話、乗ってやる」
『その意気や良し。だが簡単に手が届くと思うな。全科目で満点を取ること、それが解除の条件だ』
 甘い話が一瞬で険しい勝負へと変わった。
 サイガの全身から静かに熱が引き始めた。しかし以前とは違い、拒絶も抗議も舌の上に乗らなかった。
 男に二言はない。
 陽介が嘘をつく時の決まり文句が頭をよぎったからだろうか。
「……分かった。やってやるよ。俺だって本気出せば中間ぐらい……!」
 答える口だけでなく拳にも力が入った。手のひらに爪が深く刺さった。