[ Chapter8「俺はまだ勉強始めてないだけ」 - C ]

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 金色の油でカラリと揚がったフレンチフライが大皿に盛られている。
 その険しい山の頂に、がっしりとした指が降りてきた。最も高い位置に直立していた一本が引き抜かれると、周辺の均衡が少しだけ崩れ、別の数本が急斜面を転げ落ちた。
「そんじゃ、遠慮なく……」
 サイガは指先でつまんだ棒状のポテトを直接口に放り込んだ。数回噛み、まだ味が残っているうちに次の一本を手にする。しかし二口目は背後からの声に止められた。
「そのままでも確かに美味しいけど、頼んだことは忘れないでね?」
 金曜夜、開店直後の『UNDERWORLD』。通常は従業員しか入れないカウンター裏のキッチンで、サイガはテーブルの中央を陣取り、大皿を独り占めしていた。
 部外者を招き入れたのはもちろん店主の柏木だ。その理由は彼が大皿の脇に置いたガラスの小鉢にある。三個並んだ小鉢のそれぞれに、少しずつ色味の異なるサワークリームが入っていた。
「これを食べ比べればいいんだろ?」
「そういうこと」
 柏木は二人分のマグカップを持ってきて、サイガの隣の椅子に座った。
 期待の眼差しが向けられる先で、右端の小鉢にポテトの先端が飛び込んだ。サワークリームの中を泳ぐ間も勢いは止まらない。あっという間に白い塊をすくい上げ、サイガの口の中へと運んでいった。
「んー……まあ、普通」
「普通。なるほどね。普通。隣のはどうかな?」
「隣って、これ?」
 サイガは山頂から転げ落ちたうちの一本をつまみ、中央の小鉢の中をくぐらせてすぐ口に入れた。
「あれ? なんか違う。気のせい……じゃねーな、こっちのより酸っぱい」
「作り方と寝かせた時間は全部同じだよ。それぞれ、ある材料を足しているけど」
 自家製サワークリームは市販の生クリームとヨーグルトを混ぜて作られる。しかし今回は三種類のそれぞれに異なる隠し味が入っている、と柏木は教えてくれた。
「何だろ、全然わかんねー。うまいけど。これ柏木さんが考えたやつ?」
「二つはね。もう一つは先週から入ったバイトの子が考えたレシピ」
「さっきまでここにいた人か。なんか頼りなさそうだったけど」
「まだ緊張が抜けてないみたいだね。でもそのうち慣れていくよ。何事も勉強だから」
 柏木は立ち上がり、店内に出る扉の方へ向かいかけて結局取りやめ、同じ椅子に座り直した。
 その間にサイガはサワークリームのディップを一通り試し、それから塩味しかついていないフレンチフライを何本か口に放り込んだ。
「勉強といえば」 柏木が椅子に座り直す。 「美由樹さんから聞いたんだけど、明日、家に友達を呼んで勉強会をやるんだって?」
「え? あーそうか、もう明日だ。やるよ。やる、けど」
「もしかして忘れていたとか?」
「そりゃない。授業の後とかに実隆たちと何回も打ち合わせしてるし」
「じゃあ、何か困ったことでもあった?」
「それが……何つーのかな……」
 サイガは口に詰めたポテトを全部飲み込んでから、口の中に残った空気をいっぺんに吐き出した。
「馬鹿な取引、しちゃったんだよ、俺も。あいつと」
「俺“も”、というと?」
 柏木は続きを促してから、その意味に気づいたのか小さく声を上げた。
 促されたサイガの方はもう一度ため息をついた。そして最近の出来事、特に先日サリエルの挑発に乗せられ好成績を約束してしまった話を、何一つ伏せずに語った。
「あのクズの話と違って俺の命がどうこうってわけじゃないけど、だからって逃げたら俺の負けだろ。それも超ダサい負け方」
「なるほどねえ。それで後に引けなくなったと」
 振り返った記憶が苦かったのか、サイガは口直しに用意されたマグカップの真水を一気に飲み干した。
 空になったカップがテーブルに置かれると、すかさず柏木がそれを引き取り、テーブルの端に置いていたピッチャーから水を注いだ。
「でもそこでまじめに勉強しようと考えるところは、サイガくんらしいね。これが陽介ならきっと今頃カンニングの作戦を練っている頃だ」
「最低だな。でもそんなのが通用する相手じゃねーよ、多分。ちょっと目が合っただけで頭の奥まで見られてるような気がして、実際いろいろ見抜かれてて、こっちはすっげー気持ち悪いのに」
 サイガはフレンチフライの山の上に右手を伸ばし、崩れかかった山頂の十本ほどをまとめて掴んだ。そしてそれを左端のサワークリームに一度だけ突っ込み、束のままかじりついた。
「そうか。まあ、こういうのは真っ向勝負の方が案外うまくいくものだから。それで、勉強会だっけ。それはサイガくんの提案?」
「いや、幹子の、じゃない。最近転校してきた雨宮ってやつが『一緒にやろう』とか言い出したんだ。それで実隆や幹子が周りに声かけてってくれて、頭いい連中集めて勉強教えてもらえることになった」
「良い友達を持ったね」
「本当にな」
 三種のサワークリームが代わる代わる消費されていく。
 食べながらしゃべるサイガを柏木はとがめない。
「それで、明日なんだけど。勉強会をする間、美由樹さんたちは陽介のお見舞いに行くそうじゃないか。だから、サイガくんさえ良ければ、昼ごはんは僕が作りに行くよ」
「えっマジ!? やった!」
 サイガは目を輝かせた。
 元はといえばその日こそが、先日母親から言われていた「桂と二人で留守番」の実行日だった。しかし当人にとって得体の知れない男と二人きりで過ごすことには不安がある。何より勝負のためには少しでも勉強する時間を多く確保したかった。
 そこでサイガは当日に自宅を勉強会の会場として提供し、級友たちを家に招くことにした。人前では猫をかぶる桂の態度を利用して、その本性、ついでにちょっかいも封じ込めようという目論見だった。
「柏木さん来てくれるんなら、もし何か変なこと起きても速攻で相談できるし、昼飯もうまいに決まってるし。超やる気出てきた」
「もしものとき? どこまで助けになれるかは、わからないよ?」
 肉親に次ぐ保護者として、面妖な事情を知る数少ない人物として、誰よりも頼りにできる。そんなサイガの眼差しに、柏木は戸惑いと笑顔を半々にしたような表情を返した。
「でも実を言うと、個人的に、桂くんとはもう一度会ってみたかったんだ。陽介が入院したときには話らしい話をしなかったし。それに、あの子が陽介の事件やサイガくんのおかしな出来事について何か知っているなら、そろそろ聞かないとね」
「柏木さん……」
「どうもサイガくんからは聞きにくいみたいだから」
「マジ助かる」
 懸念も疑問もお見通しだった。
 サイガはポテトを運んでいた指先を手近にあった台布巾で拭うと、両腕をテーブルの上に投げ出し、皿の前に突っ伏した。もとい柏木に向けて深々と頭を下げた。その顔は肩にのしかかっていた重荷を一つ残らず下ろしたように緩んでいた。
「そうだ、そろそろ聞かせてよ。そのサワークリームなんだけど……」
 柏木がサイガの頭越しに小鉢を回収しようとしたそのとき。
 扉の向こうの店内で、金属製の何かが落下して派手な音を立てた。それはキッチン中の音をぶち壊して、しばらく反響してから、空調の低いうなりだけを残して静まった。
 サイガは顔を上げ、柏木は手を引っ込めた。そして顔を見合わせた。
「……何かやらかした?」
「そう、みたいだね。ちょっと待ってて」
 柏木が急ぎ足でキッチンから出て行った後、サイガは再び頬をテーブルに寄せた。
 腹が膨れたからか、つい先程まで勉強に闘志を燃やしてきた疲れか、眠気が頭の中に白煙を広げていた。