[ Chapter8「俺はまだ勉強始めてないだけ」 - E ]

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 晴れた空の色が紫に見えることはないわけではない。サイガも目にしたことがある。しかしそれは部活の練習帰りの夕方や合宿中の早朝のことで、決して太陽が送電線の上にあるように見える時間ではなかった。
 だからサイガはまず、恐怖を感じた。それから嫌な予感に肩を掴まれた。
「また始まったよ……」
 これまでの経験を踏まえるなら、今できることは一つ。
 その場にとどまるな。
 サイガは避難を決断して即座に実行した。両足首をほぼ同時にねじり、全身の向きを反転させながらもう走り出して、さっき出てきたばかりの玄関に飛び込む。引き戸の端に指先をかけて全力で戸を閉めると、直後に足がもつれ、盛大にひっくり返った。
「おわっ!?」
 誰かの靴に肩をぶつけた痛みはさほど気にならなかった。サイガは跳ねるように起き上がり、サンダルを脱ぎ捨てて廊下に着地した。
 顔を上げた瞬間に次の一歩を忘れた。
「……ちょっと」
 両側をふすまに挟まれた板張りの廊下が奥まで延々と続いている。
 突き当たりにある台所ののれんが見えない。
 学校のプールのコースより短いはずの廊下に、終点が見当たらない。
「待て」
 背筋を伝う寒気に誘われて振り向くと、そこにも全く同じ構造の廊下が続いていた。
 ついさっき一歩を置いたはずの土間が見えない。
 何かの間違いだと信じて来た方へ走り出しても、果てしない廊下は一向に消えなかった。
「ふざけんな……っ!」
 全速力で走り抜けても全く景色が変わらない。この奇妙な状態が少なくとも錯覚ではないと悟ったサイガは立ち止まり、歯噛みした。
 抵抗したつもりになっているだけ。
 先日食らったキツイ一言が、記憶の中からもう一度冷水を浴びせてくる。反射的に湧いてきた腹立たしさと辛さと不満をまとめて舌打ちで潰すと、改めて周囲を見回した。
 廊下は曲がり角も起伏もない一本道で、床と天井、二つの平面が交わる場所ははるか遠く、肉眼では暗闇にしか見えない。動きも物音もない静止した世界だった。
 天井を支えるのは等間隔に並ぶ木の柱とその間を埋める壁、そして無数のふすまだ。構成と色合いは見慣れた自宅とそっくり同じ。ところがそのふすまはいくら叩いても全く揺れず、横へ動かして開けようとしても小指一本分の隙間さえ作れなかった。
(……実隆ならこういうとき、もう少しマシな手思いつくかもな)
 頭のいい片岡や牧田でもきっと冷静に謎解きを始めるだろうし、妙案を出せるかもしれない。空手の心得がある池幡ならこの壁を蹴破れるかもしれない。しかしサイガは彼らのような知力や腕っ節を持たないし、この無限の壁を崩すようなひらめきも降りてきそうになかった。
「畜生、なんで俺ばっかりこんな目に!」
 目の前の一枚を殴りつけても、右手が痛くなっただけだった。サイガは力任せの攻略を諦めて手を下ろした。
 抜け道がないならこの廊下を進むしかないのか。
 でも、どっちへ? どこまで?
 迷いに迷い、苦悩が頂点に達した、そのときだった。
『サイガ……!』
 静まり返った空間に声がはっきりと響いた。
 自分の名を聴きとった瞬間、サイガはその声の主を特定し、確信した。
「実隆! そこにいるのか!?」
 叫び返してから左右を見て、振り向く。その視線が廊下のある位置、一箇所だけ他と明らかに違う壁を発見し、釘づけになった。
 柱と柱の間に立てられているのは、古びたふすまではなく、二枚の障子。外から薄明かりを取り込む障子紙の色は、居間と縁側を隔てる見慣れた光だ。枠の形にも覚えがあった。
 ここなら開くかもしれない。動かなくても障子なら壊せる。
 急に現れた希望の灯がサイガの気力を蘇らせた。その明るい場所へと駆け寄り、手をかけようとして――手も思考も止まった。

 [  I  ] [ want ] [    ] [ escape ] [    ] [ here. ]

 二枚分の障子紙に横書きの文字が記されていた。
 ちょうどサイガの目の高さ、横一列分の枠に英単語が一つずつ。それも何故か空白の枠を挟んで不規則に並べられている。
 サイガは一枠ずつ順に文字を見てから、背後のふすまにぶつかるギリギリ手前まで下がって、全体を見ようとした。するとその左足が何かを踏みつけ、サイガをよろけさせた。
 体勢を立て直してから拾い上げた落し物は、一本の黒い筆ペンだった。
(は? なんでこんなもんが……)
『じゃあ、ここの空欄の部分を埋めてみようか』
 再び実隆の声が廊下に入ってきた。
 それは障子の向こう側から聞こえたようだった。薄い和紙を隔てた空間はただ明るいだけで人の気配まで感じさせなかったが、サイガは自分の耳を信じることにした。
 聞き取れた内容には心当たりがある。数日前、休み時間を利用して実隆に英語の勉強を見てもらったとき、確かそんな会話があったのだ。
(確かあのときやってたのは、穴埋め問題。……ここに何か書けってことか?)
 不自然な空白は、そういえば虫食い穴に見えないこともない。
 謎の文字列は規則を理解できた途端に難問へと変わった。
 サイガは息を呑み、筆ペンを握りしめたまま障子を凝視した。頭の中では記憶のページが滝のような勢いでめくられていく。
(アイ、ワント……これ絶対どっかで見たぞ。思い出せ)
 正面の文字を見つめ続けても、そこに結びつきそうな記憶が浮かばない。次第にじっとしていられなくなってきて、腕を組んだりその場で足踏みしたり、果ては障子の前を何度も往復するように歩き回った。
(つーか、なんでこんな時に英語の問題? よりによって一番苦手なやつとか……最悪だ!)
 そうして学校の休み時間よりは長い体感時間が過ぎていった頃、授業で習った内容をようやく思い出した。サイガは筆ペンのキャップを外し、左側の障子の白い枠に書き込んだ。

 [  I  ] [ want ] [ to ]

 この構文はつい最近見た覚えがあった。自信を持てた。一息つく間だけは考えることを忘れ、それから残る右半分を見て、頭を抱えた。
(これだよ。これ何だ? E、S、……習ったっけ?)
 文字列の中で最も字数の多い単語について、サイガは見覚えがあるという感覚さえ思い出せなかった。それからしばらく悩み、結局「わからなければ一旦飛ばす」という試験中の基本姿勢にならうことにした。
 残る一語は読める。"here"(ここ)。気持ちだけを高校受験前の頃に戻したつもりになって考えていると、直前にくっつきそうな単語を一つ思いついた。

 [ escape ] [ is ] [ here. ]

 もう一つの空白を埋めた瞬間、枠を押さえていた左手が鋭い痛みに襲われた。
 サイガは驚きのあまり声も出せずにのけぞり、しりもちをついた。じわじわ痛む左手と軽くしびれた右手を廊下についた間抜けな姿勢になって顔を上げると、書き込んだばかりの文字だけがゆっくりと消滅していくところだった。
(もしかして今のは不正解ってこと? ……外したら今のアレ? 結構ヤバくねーか?)
 直感的な予想は正しかった。次に思いついた解答を書いた瞬間にもまた同じ痛みとしびれを浴びせられ、それが何度も続いた。
 サイガは当てずっぽうに頼るのをやめ、廊下の真ん中に座って真剣に考え始めた。先日の会話の時に前置詞の問題を解いたことを思い出し、とりあえずそのあたりに候補を絞ったものの、いまひとつ決め手をつかめない。
(hereの前に来る奴……ここ「で」、ここ「まで」、ここ「より」、ここ「から」……ん?)
 ふと、先ほど書き込んで何も起きなかった左半分の文字列に視線が向いた。
 サイガの脳裏で何かが火花を散らした。
(そういや確か、toとセットで使うやつがあるって、実隆が言ってたような)
 意味も解釈もついてこないまま、ただネオンのように明滅する記憶を逃さないよう、筆を執る。

[ I want to ] [ escape from here. ]

 指先はしびれなかった。そればかりか、二枚の障子は音もなく左右に動いた。
「よっしゃあ!」
 目の前に開かれた道にサイガは迷いなく飛び込んだ。
 そこには見慣れた間取りの和室があった。しかし人も調度品もない。そして正面のふすまに、横書きで何かが記されていた。