[ Chapter8「俺はまだ勉強始めてないだけ」 - F ]

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 最近張り替えたばかりの真っ白なふすまに文字列が書かれている。
 おそるおそる近づいたサイガは英字が見えるなりその単語を解読しようとした。しかし次の一歩を進む間に、その一文がさっきのものとは根底から異なることに気づいた。
(に……二次方程式!?)
 記号と英数字の組み合わせがたった一行。今度はヒントになりそうな声も聞こえてこない。しかしそれが何かを理解したサイガに、自分が求められている行動は一つしか思いつかなかった。
 この方程式を解け。
 頭に浮かんだ対応もまた一つきりだった。サイガは設問の正面に立ち、筆ペンを握り直した。そして一学期の試験の記憶に頼ったうろ覚えの解き方を、設問の下の大きな余白に書き込んでいった。
 導き出した数字を記した直後、ふすまが音もなく開いた。
 その先に現れたのは全く同じ構造の和室だった。実際、西原家の居間の隣にはもう一つ和室があるが、ここまでそっくりではない。
(おいおい、これじゃさっきの廊下と同じじゃねーか)
 飛び込んだ新たな部屋にもまた数式が用意されていた。ついさっき解いたものより文字数の多い方程式を前に、サイガは頭を抱えた。
(なんとなく分かってきたぞ。正解すれば開く。それで最後まで行けば……)
 何度道が開けても、そこには次の設問が用意されているだけだった。不等式、二次関数のグラフ描画、三角比。次々に出題される設問はいずれも見覚えがあった。
 だが一発正解ができたのは結局最初の二次方程式だけ。その後は静電気を浴びる、突然ツヤが増した畳に足を取られる、開きかけたふすまに指を挟まれるなど、痛いアクシデントが次々と発生した。
「誰だよ、こんな趣味悪い仕掛け作ったのは!!」
 悪戦苦闘すること九問。最初の障子も含めて十問目。次なる計算結果を書きつけたサイガは、どこか遠くで鍵が外れたような音を耳にした。初めて掴んだまともな手応えだった。
 今度の扉は自動で開かなかった。汗と緊張とペンを握ったままの手がふすまにかかると、それはゆっくりと横に滑っていった。
 現れたのはまたも同じ広さの和室だった。しかし今までと明らかに違うのは、真正面が壁やふすまではなく障子で、和紙で透けた光を背にして誰かが立っていることだった。
『ようやく辿り着いたか。復習の時間は終わりだ』
 あの完全武装の歩兵が、赤黒く染まった畳の上に土足で立っていた。その左手は何かを吊るすように持っている。
 筆のように濡れた黒い毛の束。その下にぶら下がっている丸い物体は――


「……ぎゃあああっ!?」
 サイガはけたたましい音に突き動かされるように飛び起きた。
 全力疾走直後のような心拍と呼吸を落ち着かせる間に、置かれた状況が見えてくる。
 ここは自宅の居間の隅で。今の音の正体は自分の悲鳴で。
「あ、起きた」
「サイガ大丈夫か? 今すっげーうなされてたけど」
 ちゃぶ台を囲む級友たちが揃って勉強の手を止め、サイガを見ていた。
 嫌な汗が額からこぼれ落ちる。サイガが身震いをすると、ふらついた上半身を駆け寄った実隆が支えてくれた。そしてこう尋ねられた。
「インターホンが鳴ったからって外へ行ったのは覚えてる?」
「へ? あぁ、覚えてるけど」
「その後なかなか戻ってこないから様子を見に行ったんだ。そしたらサイガが玄関で倒れてて、桂ちゃんが頑張って起こそうとしてたんだよ」
 実隆の話によると、発見時点のサイガはうつ伏せの状態で顔は玄関マットの上、両足は靴に埋もれていた。しかも決して心地よくはない姿勢のまま熟睡していたという。
 当初は実隆も起こすのを手伝おうとした。しかし週の中頃にサイガ本人から聞いた話を思い出して、考えが真逆に変わった、と彼は語った。
「言ってなかった? ここのところ毎朝早起きして暗記モノ頑張って、学校でも部活のとき以外はずっと勉強。それで夜もだから一日中勉強してるって」
「俺そんなこと言ったっけ?」
「うん。そんな生活疲れて当然だよ。疲労に睡眠不足。今まではいろんな手で眠気をごまかしてたかもしれないけど、一瞬気が緩んだだけでこうなった。もう限界越えてたんだよ」
 やせ我慢は否定できない。でもそこまでの無理をした覚えはない。
 腑に落ちないところを言葉に表せなかったサイガはうつむいた。
「マジか。カッコ悪すぎだな。……でも俺、玄関で倒れてたんなら、なんでここに?」
「みんなで運んだんだよ。ほっとくわけにもいかないし。君の部屋で静かに寝かせる案もあったんだけど、何かあったときに備えて人の目があるところにしよう、って柏木さんに言われてここにしたんだ。結局何事もなくてよかった」
 サイガは頭を下げることしかできなかった。

 片岡講師による関数グラフの復習が一区切りついた頃、台所の片付けを終えた柏木が居間に顔を出した。店を開ける準備があるので帰るという。彼を見送るため、サイガは再び勉強会を抜け出し、玄関までついていった。
「美由樹さんたちも疲れてると思うから、夕食も作って冷蔵庫に入れておいたよ。電子レンジで温めるぐらいならサイガくんにもできるよね?」
「そんなん別に……」 いらない、と言いかけたサイガの脳裏を、最近よく見る母のくたびれた横顔がよぎった。 「……まあ、できるけど。なんかすいません」
「気にしないで。ここの冷蔵庫を見て新しいレシピを思いついたから、そのお礼」
 柏木が靴を履く。その足の周囲に他の客人たちの靴が散らかっている。
 サイガは表に出てからの自分の行動を省みた。引き返した後、土間で誰かの靴を蹴飛ばした気がする。その直後に現実の世界から閉め出されたのだろうか。
 だったらあの紫色の空は何だったのか。そもそも家から出なければ、不自然な光景を見なければ、何事もなく友達のもとへ帰れたのかもしれない。
 不自然な空間で遭遇した出来事は本当にただの夢なのか。影に飲まれたり縛られたり首を絞められたりといった命の危険はなくても、匹敵する痛みは何度も味わったけれど。
「……柏木さん」
「うん?」
「俺、さっきそこで居眠りしてたって聞いたんだけど。あれ本当は」
「知ってる。また災難に巻き込まれたんだよね?」
 言いかけた訴えが思わぬ一言に弾き返された。さらに続く言葉はサイガをよろめかせた。
「実はねえ。君を居間へ運ぶように言ったの、桂くんなんだ」
 一報を受けた柏木が駆けつけたとき、玄関では実隆が必死に呼びかけながらサイガの両肩を揺すっていた。当然柏木も手を貸そうとしたが、突然背後から服を引っ張られ、足踏みすることになった。脇を見ると、桂の左手が柏木の服の裾を掴んでいたのだった。
「そのときかな。うかつに触れるな、っていう声を聞いてね」
 玄関に集まった少年たちの誰とも違う声は、続けざまに指示を出した。柏木はそれに従う形で、サイガを寝かせたまま友人たちに運ばせ、勉強会を再開するよう勧めたという。
 そこまで話す間に柏木は靴紐を結び直し、立ち上がった。土間へ降りた分だけ低くなった視線がサイガの顔を心配そうに見上げた。
「君が目を覚ます前に正気を失っては困るから、現実に限りなく近い場所に居させろ、とも言われたよ。本当に効果があったかはわからないけど、こうして無事だったことだし」
 何がどうつながっているのか、よくわからないが、どうやら助けられていたらしい。
 サイガの上半身から力が抜けた。半ば反射的に頭を下げると、後頭部に大きな手が触れた。
「君がどんな夢を見たのかは、試験が終わってからゆっくり聞かせてよ」
 二人で踏み出した外の世界は青空に包まれていた。
 サイガは門の前で柏木を見送り、その姿が見えなくなったら、一人で家の中へ引き返した。今度は焦らなかった。異変の予兆もなかった。
 そして戻ってきた玄関で、居間から漏れてくる声を聞いた。
「えっ何、桂ちゃん今なんて言ったの」
「こんなのも分からないなんて本当に高校生なの、だそうです」
「うっわー、オレたち今五歳児に負けてる! 超ダセェんだけど!」
「アメリカ育ちの子と比べんなよ……」
 サイガは笑い声に袖を引かれ、煮え切らない気持ちをサンダルと一緒に脱ぎ捨てた。そして廊下を台所方面ではなく縁側の方へ折れ、庭と居間を隔てる障子の前に立った。
 勉強会はもうすぐラストスパート。トリは実隆による英語の授業だ。
 深く息を吸って気を引き締め、障子を開け放とうとしたその瞬間、あの威圧的な声がどこからかささやきかけた。
『最初に解いた空所補充問題を覚えているか』
 数学に穴埋め形式の設問はない。それがあるのは英語の試験だ。
『今のうちに言っておく。貴様は正答に辿り着いたが、解く過程は大いに間違っていた。言語の学び方が全くなっていない。まさしく幼児以下だ』
 悪夢から醒めたときに匹敵する悲鳴が再び西原家に響き渡った。