[ Chapter8「俺はまだ勉強始めてないだけ」 - G ]

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 中間試験当日がやってきた。
 三日間の日程は生徒たちの努力も油断も不安も自信も平等に呑み込んだ。
 サイガはその波を乗り切れたつもりでいた。しかし最終日の最後、英語の試験で制限時間内に最終問題までたどり着けず、全教科パーフェクトの可能性は消滅した。
 首輪からの解放という夢は結果の通知を待たずに散った。


 週末を挟み、次の週の授業で答案の返却が順次行われた。
 本番中にサイガが得た「やれるだけのことができた」という小さな手応えは、「前回以上の成績」として手元に戻ってきた。勉強会も含めた様々な作戦は確かに実を結んでいた。
 しかし彼は喜ぶどころか、やる気も集中力もすっかり失い抜け殻と化していた。再開された授業は耳を素通り。答案は机の中に置き去り。部活にも身が入らず、部長に怒鳴られる始末だった。
 そんな状態で迎えた最後の返却日の、夜。
 浮かない顔のまま帰宅したサイガは、自分の部屋に入るなり、氷水に飛び込んだような衝撃を受けた。
「け、桂!?」
"Hi, brother!"
 桂が部屋の真ん中に堂々と座っていた。その左足の脇にはおもちゃの船が転がっている。勉強机の隅に置かれていたものを勝手に持ち出したらしい。
 サイガはおもちゃを取り上げようとして、その周囲に散らばった紙に気づいた。
 持ち帰った覚えがない中間試験の答案用紙だった。
「なんでお前がこれ持ってんだよ!?」
『結果を通知されたにも拘わらず貴様が一向にそれを開示しない故、わざわざ学校まで引き取りに行ってきた』
「はぁ!?」
 桂の発した言葉を別人の発言がかき消した。幼児の口から成人の声を聞いたように錯覚したこと以上に、その内容がサイガを震わせた。
 どうやって持ち出した。尋ねようにも息が喉でつかえて何も出ない。
『忘れたのか。“実力を示し、我輩を満足させられる成績を残せたなら、相応の報いを与える”。そういう話だったはずだ』
 兄の喉がおかしな音を鳴らした。
『見ろ。完答こそならなかったが、いずれの科目も学年平均を上回る点数だ』
 サリエルの指摘に合わせるように、桂が答案を順に左手で指し、赤で記された点数を読み上げていった。もちろん英語で。
『その場しのぎの対策の割には上出来だった。努力を認め、約束通り褒美をやろう。貴様の望みを一つ叶えてやる』
「望み? 叶え……え? は?」
『我輩に訊きたいことがあるのだろう? 言ってみろ』
 サイガは桂の顔を見た。
 黄金色の瞳に吸い寄せられるように、喉の奥で引っかかっていた言葉がこぼれた。
「お前は……桂、お前は、いったい何なんだ」
 自分の言葉にハッとした直後、サイガは目を焼かれるような痛みに悶え、膝と両肘をついて倒れ込んだ。

 痛みが引くのを待って顔を上げたとき、サイガを取り巻く景色は一変していた。
 広い廊下を人々が行き交う。英語が飛び交う。通行人は肌の色も髪の色も様々だったが、そのほとんどはひと目で医療関係者と分かる服装をしていた。
「病院……?」
『これは“過去”だ。貴様のいかなる行動も反映されない。大人しく見ていろ』
 立ち上がったサイガの耳元でささやく声があった。間違いなくサリエルのものだ。しかし近くには歩兵も警察官も幼児も見当たらなかった。
『あの自動車事故の後、西原陽介はこの病院に搬送され、治療を受けた。二週の間に幾度も手術が行われたことは貴様も既に聞いているだろう』
 サリエルが姿を見せないまま語りかけてくる。
 その間に廊下の奥からストレッチャーが運ばれてきた。サイガは慌てて廊下の端に退避してから、運ばれていく患者の顔を確かめ、見知った顔でないことにほっとした。
『陽介は事故現場に居合わせた我輩の出自をひと目で見抜き、助命を求めた。どうしても生きて故郷に帰らねばならない。目的を果たすまで死を遠ざけてくれ。それが彼奴の願いだった』
 サイガは死神アッシュが告げたことを今の話に重ね合わせた。
 陽介を救出した人物の手によって、死神は追い返され、死のスケジュールは延期された。まさに望まれた通りに。
『だが本人の魂はあまりに弱く、運命を覆す対価として適う程の価値はなかった。故に我輩は貴様を選び、陽介にも承諾させた』
 サイガは初めてサリエルと対面した瞬間を鮮明に思い出した。
 それが現実である証、黒いチョーカーが巻かれた首に、冷たい空気が触れた。
『契約は成立した。本来はそれだけの話だった。しかし容体が安定した陽介は、更なる欲を抱いた』
 冷たい息吹が気配に変わった。
 サイガの隣に黒い煙のようなものが現れた。それは周囲に広がることなく、辛うじて人間のシルエットに見える曖昧な形を作りながら、ゆっくりとサイガの前を横切った。
『陽介の要求はこのようなものだった。「俺の大事な家族を助けてくれ」』
「大事な、って……今さらすぎだろ」
 自分から捨てて逃げ出したくせに。そう言いかけた途中で息が止まった。
 黒い粒子の集合体が次第に輪郭を作りながら廊下を進んでいく。頭部と左腕の形がはっきりした頃、その進路の先にあるものに、サイガは気づいた。
 道を急ぐ人々の中に一人、壁際に立ち尽くすアジア人の女がいる。
「……母さん?」
『事故を契機に、陽介はようやく出奔を恥じ、家族の心を傷つける行いを悔いた。そして同時に、これまで己の身に降りかかっていた災いが縁者に及ぶことをひどく恐れた』
 サリエルの声は続く。変わらない距離と、変わらない落ち着きを保って。
『我輩は要求に応じた。西原陽介の両親、娘、そして妻を本人に代わって支え、彼らをあらゆる災難から守ると約束した。対価は陽介自身の両足の自由、そしてもう一つ』
 黒い造形は成人の大きさの人型をほとんど完成させていた。幽霊のようにあやふやだった両足が形を保って床を踏みしめたとき、その姿は立ち尽くす女の正面にあった。
『西原美由樹は心に空白を抱えていた。それは大切な者を一人失い、また一人失おうとしている悲しみだ。我輩はそれを敵に利用されぬよう直ちに繕う必要があった』
 美由樹は遠くを見つめたり、顔を手で覆ったりしていた。サイガに気づいた様子はない。それからしばらくして、不意に、手を下ろしながら自分の足元へ視線を落とした。
『我輩は空白が生じるに至った経緯を調べた。懸念、願望、夢想、あらゆる断片をくまなく精査し、それら全てを埋めるに相応しい人物像を導き出した』
 彼女の動きに呼応するように、黒い影が大きく震えた。そして空気が抜けた風船を思わせる振動と共に収縮を始めた。
 右腕だけがぼやけたまま、元の半分ほどの大きさに固まった、その姿かたちは――

 ひざまずいて両手をついたサイガの真正面に、桂の顔があった。
 琥珀色の瞳が蛍光灯の光を受けて輝いていた。
"How are you?"
「うおああっ!?」
 サイガはとっさにのけぞり、それからここが自分の部屋であることに気づいた。
 今までの出来事は夢か幻か。
 耳の奥には、不可思議な光景の終盤に聞いたサリエルの言葉がはっきり焼きついている。
『後悔、空虚、疑念、そして愛情。妻が夫に対し抱いた感情から産み落とされたのが、この空想の幼子だ。……災いに苦しむのは陽介だけで良い。そう思うなら、彼女が見ている夢には一切水を差すな』
 一節ずつなぞるたび、一歩ずつ思い出すたび、サイガは歯を食いしばった。
 おもちゃの船で遊び始めた桂は英語の歌を歌っている。その口からは幼児らしい高音の声しか聞こえてこない。
(冗談じゃねえ。こいつも、あのクズも。母さんを、俺を、何だと思ってやがる)
 畳の上を滑ってきた船の舳先が膝頭に刺さっても何も感じない。
 胸の奥にわだかまるものが誰への怒りか、そもそも怒りなのかもわからない。
 サイガは先日の悪夢で出会った一文を、後で実隆から正しい解き方と意味を教えてもらったあの問題文を、つぶやかずにいられなかった。
「I want to escape from here...」(ここから逃げ出したい……)