[ Chapter9「監視と病魔」 - A ]

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 柳院長によると、重孝は昔から体が弱く、何かあるとすぐ高熱を出して寝込むという。
 ウィルは柳家の居候になってから何度かそんな話を聞かされた。しかし目の前にいる本人は寝込むどころか、いつ見ても他の人間と変わらない顔色をしていたから、聞かされる話が本当のこととはあまり思えなかった。
 十月半ばのある日、ウィルが疑問を正直に口にすると、院長はくすりと笑った。
「最近は調子がいいのよ。そう、ちょうどあなたがここへ来た頃から」
 ところがその週の金曜に、重孝が午後の授業を早退して自宅へ帰ってきた。ウィルがリビングで見かけた横顔は、彼が初めて目にする不気味な色をしていた。
 院長は重孝にしばらく学校を休ませること、診療時間中は息子の世話を居候に任せることを決めた。ウィルはやっと覚えてきた家事に加え、その合間に重孝の様子を見に行き、彼の体温を測ったり冷却シートを取り替えたりすることになった。
 すると、初日の夜に報告を読んだ教官がこんな指令を寄越してきた。
《丁度良い機会なので、次の課題は観察記録にしましょう。重孝さんの病状について気がついたことを毎日報告してください。実施期間は彼が学校に復帰するまでとします》
 今度は何を目論んでいるのか。
 ウィルは以前の“尾行”課題での経験を踏まえ、何か見落としてはいないかとそのページを何度も読み返したが、文面から他に読み取れることはなかった。
(まず、本当に報告だけでいいのか? あまりにも簡単すぎる)
 それでも言われたからには実行するしかない。ウィルは看病と並行し、人間たちの目を避けながら、病に関する小さな発見や変化を記録することになった。
 不慣れな看病と面倒な課題に苦闘するウィルと対照的なのが、看病される側の重孝だった。顔色はすぐれないままだが落ち着いた挙動には余裕さえ見える。一度ウィルがベッドの脇で白粥の器をひっくり返した時など、重孝は文句の一つも言わず、自ら片付けを手伝おうとしたほどだった。
 余裕は言動だけでなく魂にも現れていた。見習い天使が病人の手に触れたとき、わずかに“陰り”のようなものを感じ取ったことがあった。それは院長と接した時には捉えられなかったもので、ウィルはすぐに体調不良との関連を疑ったが、そのかすかな異物の気配が重孝を弱らせているという確証は掴めなかった。
(これが院長の言っていた、体が弱い、ということなのか?)
 ウィルにはその先を判断できるだけの知識も技術もない。人間たちと暮らして一月半、同胞とはいろいろと違う魂の気配にも慣れ、ここに来てようやくひとつひとつを区別し観察できるようになった。まだそんな段階だ。
 今はできることを実行するだけ。つまり気づいたと報告するだけだ。
(……たとえ教官が質問に答えてくれなくとも)
 幸い今回はウィルの考察を褒めるコメントが届いた。その後もマイナス評価はつかず、数日後には重孝が高熱から回復したため、課題は合格がつく結果となった。


 それから時は過ぎ、十月も終わりに近づいたある夜。
 ウィルは院長から届け物を頼まれ、近所の調剤薬局を訪ねた。そこは前にも何度か使いに出されている場所で、迷うことはなかったし、今回の用事も大して時間がかかったわけでもなかった。
 だがこの日、医院を出たときの空はまだ道の先を見通せる明るさだったのに、帰り道の半ばを過ぎる頃にはすっかり暗くなっていた。おまけに空気の音も匂いもすっかり変わっていた。
 この地域に季節の変化があることを知識として覚えてはいた。しかしウィルが首の後ろ側に感じた風の冷たさは想像以上で、しかも初めて出会う感触を伴っていた。
(これが、冬、というものなのか?)
 しかもウィルの想像に反し、冷たい感覚は柳医院に帰ってからも彼の肉体にまとわりついてきた。
 人間たちはこの急激な変化にどう対応しているのか。抱いた疑問をぶつける前に、彼の顔を見た院長が悲鳴を上げた。
「ウィル! こっちへいらっしゃい、すぐに体温測って!」
 聞き返す間もなくウィルは診察室へ連行され、脇下に体温計を突っ込まれ、他にもいろいろと調べられた。最初は言われるまま動いていたウィルだが、身体の状態をひとつずつ訊かれるうちに、自分の身に起きている異常を理解した。
 三十八度超の高熱。寒気と胸の痛み。そして喉の奥に何かつかえるような感覚。取り除こうと深い呼吸を繰り返してからは、激しい咳が止まらない。
 彼の肉体は明らかに、何かの病にかかっていた。
「インフルエンザの検査は陰性だったけど、風邪でも油断はダメよ。お手伝いはしばらくお休みしていいから、この薬を飲んですぐ寝てちょうだい」
 こうしてウィルは再び患者となった。寝かされる場所こそ間借りしている重孝の部屋だが、気分は二度目の入院に等しかった。
 一度横たわった後は文字通り起き上がれなくなっていた。彼は浅い眠りとぼんやりした目覚めの間で揺れながら、落ち着ける姿勢を模索した。
 ベッドの上でも布と羽毛布団に挟まれている間はやたらと暑苦しく、時にはわずかに浮遊しているような感覚も抱いた。しかし布団の下から抜け出そうとすると途端に全身が寒さに包まれ、体が重たくなった。
 そうしてどれだけの時間が経過したか。
 浮き沈みを繰り返すうち、ウィルは奇妙なことに気づいた。それは彼が布団の中にたまった熱を少し外へ逃し、肩の力を抜いた直後に起きた。
『クスクス……クスクス……』
 枕に埋めた耳元で、何かが擦れるような音が響いたのだ。
 しかも一度きりではない。彼の意識が夜更けの暗闇に飛び込もうとするたび、「音」は次第に子供が笑うような「声」に変わっていった。
 音の発生源、声の主、どちらもウィルには心当たりがなかった。柳家に幼い子供はいないし、彼が借りている部屋には他に誰も居ないはずだ。人間に限らず。
(まず、何故俺は今、あれを「声」だと思った?)
 薄目を開けて考えている間にも夜は更けていく。
 ウィルは耳をそばだて、ベッドの上からは見えない気配に注意を払った。そしてそこに誰も居ないことを改めて確認すると、まぶたを閉じ、全身の緊張を解いた。
 物質界に来てから覚えた動き方を全て放棄する。
 意識だけを肉体の外側へと研ぎ澄ませる。
『クスクス……クスクス……』
 かすかな音が魂をかすめた。それはウィルが知っている感触だった。
 重孝のバイクにしがみつきながら聞いた教官の指示。
 黄昏時の公園で突きつけられた敵の警告。
 あの時と極めてよく似た響き方の、しかし全く別の意思が、すぐ近くに潜んでいる。そしてまさに今、ウィルの魂がそこに触れたのだ。
『……ま……った…………う……い…………わ』
 散らばった音の隙間から、手を合わせるような歓喜が伝わってくる。
 問題はそれが誰の感情なのかということだ。
『……ん、…………きっ、と……』
 破片が飛び込んでくる。
 少なくとも味方の意思ではない。
 ウィルが仮説のひとつを捨てた瞬間、魂を這っていたゆらぎが消えた。水蒸気が換気扇に吸い込まれるように、眠気も浮遊感も薄れていって、夜明けの近づいた部屋に病人の肉体だけが残された。
(魂の陰り。……今、掴んだモノが、そうなのか)
 さしあたって手足が動くことを確かめると、ウィルは上半身を起こし、冷えきった空気に身震いした。それでも今度はすぐに沈まない。両足をずらして床の上に下ろし、両手で支える形ではあるが立ち上がった。
 隙間風のような自分の呼吸音だけが聞こえる。
 ウィルは窓の外のわずかな明るさだけを頼りに、机の上に放置されていた日記帳を見つけ出した。伸ばした手が本の装丁に届く前に、白い表紙がひとりでに開いて、中に挟まっていた羽根が余白までのページすべてを一度に持ち上げた。
 最新のページに教官の筆跡で一文が加わっていた。
《貴方の敵は貴方の手で始末しなさい》