[ Chapter9「監視と病魔」 - E ]

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 街を席巻した熱風邪の流行は一週間ほどでほぼ終息を迎えた。欠席していた生徒たちは順調に回復し、学級閉鎖を恐れていた教職員たちは一様に胸を撫で下ろした。
 時は十一月初旬。冬の入口。
 いつもの活気を取り戻した一年三組の教室に、いつも以上にやかましい声が響いた。
「なあ、なあ、ちょっと聞いていい!? 昨日のことなんだけど!!」
 沼田の手にはボールペンとメモ帳。小脇に抱えるのはボロボロになったひと月前の週刊誌。そんな装備に寝不足の顔で質問攻めに回るので、級友たちの多くは完全に引いていた。
「今、沼田のやつに何聞かれた?」
「あー、あれだよ。最近また通り魔が出たってニュース。あれの目撃者探してるらしい」
「なんか前にもそんなことやってなかった?」
 休み時間の雑談の一コマを、サイガは誰より苦い顔で聞いていた。
 熱風邪の広がりと時を同じくして、季花高校の周辺では奇妙な傷害事件が立て続けに発生していた。通行人が突然何者かに殴り倒されるというもので、遺留品や目撃情報が少なく犯人像は絞れていないが、複数の共通点から同一犯の仕業だと目されていた。
 例えば犯行時刻。日没前後、生徒たちの下校時刻に集中している。
 例えば現場の状況。被害者はいずれも軽傷だが、気絶した状態で発見されている。しかも彼らは一様に、犯人の顔どころか殴打されたこと自体を覚えていないという。
 そしてもう一つ、警察も沼田も掴んでいないだろう情報があった。
(なんか、あのバツマークの場所、見覚えある場所ばっかりだったぞ……)
 サイガがその事実に気づいたのは、この日の朝のホームルーム前、沼田から一枚の地図を見せられた時だった。
 道路沿いに連なるX印が事件現場だと沼田は熱く語った。噂の数より印の方が多いのは、九月の文化祭前の時期に起きた類似の事件も数に含めたためらしい。妹が寝込んでいる間に活動を自粛していた反動か、情報収集にもその説明にもやけに気合が入っていた。
 彼の妄想めいた推理はサイガの耳に全く入らなかったが、地図の情報だけは授業が始まってからも記憶に残っていた。
 何しろ印がついた道のほとんどが、西原家から高校への通学路に重なるか、極めて近くにあったのだ。一つだけ大きく離れた位置にも記されていたが、そこは水泳部が冬季に利用する温水プールの近くだった。
(……しかも、俺達が先週あそこ行ったの、事件と同じ日だし)
「どうしたサイガ。顔が青白いよ」
 意識を現実に引き戻す一声にサイガは身構えたが、数秒で肩の力を抜いた。
 実隆がサイガの顔を覗き込んでいた。
「別に。なんでもない。マジで何もない」
「そうかな? 本当に体調悪かったら、今のうちに保健室行きなよ。根本先生には僕から言っておくから」
「そんなひでえツラしてんの俺」
 サイガは黒板の横にかけられた時計を睨んだ。現代文の授業まで残り一分。懸念の吹き溜まりを頭の中から吐き出すには時間が足りない。そして、今は教室じゅうを走り回っている沼田が、もうすぐ真後ろの席に戻ってくる。
(また記憶が消えたなんて知られてみろ。どんなめんどくさいことになるか……!)
「サイガ?」
「ん!?」
「そういえば……」
 実隆の一言を休憩終了のチャイムがかき消した。
 サイガはすぐに言葉の続きを聞き返した。しかし返事が得られる前に、今度は実隆自身が沼田に押しのけられてしまった。

 その日、水泳部の活動は顧問不在のために休みだった。それでも部員の一部は誰かが呼びかけるでもなく集い、放課後の自主トレが始まった。
 サイガも積極的に手を挙げ、先輩部員に混じって体育館の片隅で汗を流した。体を動かす間は何一つ余計なことを考えずにいられた。インターバル中には何度か雑念の破片を拾いかけたが、心地よい疲労が手を滑らせた。
 即席の運動メニューを一通りこなして解散する頃には、サイガは今日の懸念をすっかり忘れることができた。
「お疲れー」
「しっかり休めよー。今日足痛めて明日の部活休みとかナシだぞー」
 先輩と別れ、同輩と別れ、すっかり暗くなった道を進む。周囲を歩く人間が減っていくに連れ、サイガの意識の中につむじ風が戻ってきた。
『そういえば桂ちゃんはどうしたのかな、と思って』
 耳の奥でリピート再生されるのは沼田ではなく実隆の声だ。
 聞かれるまで言うつもりのなかった自分の言葉も、完璧に思い出せる。
『まだ治ってない。なんか全然熱下がらないとか言ってた』
 流行とかけ離れた病状には別の病気が疑われるものだ。桂をもう一度病院へ連れていく計画が朝食の席で上がっていて、それはサイガの耳にも入っていた。きっと昼のうちに病院へ行っていて、今頃は家に帰っているだろう。
 心配はしていない。しかし警戒とも腹立たしさとも違う、なんだか気味の悪い感覚が、冷たい風と一緒に身体を包んで離れない。
(何だろうな……なんか知らないけど、これだけじゃ済まないような気がする)
 考え過ぎだと自分に言い聞かせるうちに歩みが鈍くなってきた。やがてサイガは道路の真ん中で立ち止まっていた。
 ぼんやり前を見ていた目が急に視界を広げ、ある異変を捉えた。
 街灯がついた電柱の真下、夜の住宅街に取り残された明るい世界の中心に、男がうずくまっていた。うつむいた顔からうめくような声が時々漏れている。縮こまった姿勢から年齢や背格好は読めず、薄汚れた衣服が学校の制服でないことを判断できたぐらいだった。
(こんなところで何やってんだ?)
 サイガは座り込む男を遠巻きに観察してから、一度振り返り、次に左右と正面を見た。人や車が近づいてくる様子はない。家々の窓は固く閉ざされている。
 ここには彼自身と、顔もわからない誰かしかいない。
 周囲に気を取られていると、うめき声が大きくなった。サイガは学生鞄を持ち直しながら男に近寄り、軽くかがんで様子をうかがった。
「生きてんのはわかったけど……大丈夫か?」
 つぶやきに反応するように男が顔を上げた。
 突然の大きな動きにサイガが怯む間に、それまで動かなかった男は目を見開き、腰を上げた。乾ききった肌には赤みがさしていたが、酒の臭いはまとっていない。
「な、なんだ、動けんのか」
「うう……」
 何か訴えるような声の破片を拾い、サイガは男が休息程度で治らないような不調を抱えているのではと察した。救急車を呼ぶ電話番号が頭をよぎり、取り急ぎ助けだけでも求めようと、鞄から携帯電話を取り出した。
 その瞬間、男が拳を作ってサイガに殴りかかってきた。
「は!?」
 とっさに身を捩ったサイガの眼前で青白い拳が止まり、すぐ引っ込められた。
 こんな展開をどこかで見なかったか。聞かなかったか。脳内を舞う記憶がとにかく全力で警鐘を鳴らしている。
(まさか今日の話ってこれか? こいつが通り魔か!? ……ってことは)
 沼田の妄想を全否定するまともな犯人像に安堵したのは一瞬だけ。直後にサイガは一切の回想を捨て、全力で逃走を図った。自主練でほぐれた足は軽やかに回り始めた。
 ところがスタートダッシュから数秒で逃走劇は打ち切られた。取り出したばかりの携帯電話が手の中で滑り、勢い良く飛び出して地面に落ちたのだ。
「やべっ……!」
 一度心が乱れてからの反転は、プールの壁を蹴ってターンするようにはいかなかった。振り向こうとした体が大きく傾き、伸ばした手で地面を突くように転倒した。
 男が追いかけてくる。薄汚れたサンダルが正面に迫る。
(畜生、来るな! あと早く動け俺の足!)
 サイガは寝返りをうつように距離をとった。だが当然歩くほうが速い。接近する足音をアスファルト伝いに聞き、反射的に天頂を仰いで、
 振り下ろされる靴底を見た。
 それを難なく受け止める自分の左手を見た。
(……あれ?)
 どうしてそんな動きができたのか。己の身なのに分からない。
 サイガは靴ごと足を受け流し、相手を転ばせつつ立ち上がった。何も考えなくても体がなめらかに動いた。ずっと練習してきたフォームで水に飛び込むときのように。
 掴みかかる男を左手で振り払う。
 右手はしびれたように動かない。