[ Chapter9「監視と病魔」 - F ]

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 光り輝く弾丸は何も祓うことなく空気をかすめた。
 ウィルは吹き荒れる鈍色の風に抵抗するうち、教官から提供された武器が目の前の敵に対して不利であると悟った。人間の内に留まり病を流し込んでいる間は「止まった」獲物だったから狙い撃ちをできたが、今は違う。位置も手応えも掴めない。現れたときと同じような姿を保ちながら漂っている。
 相手はウィルが高熱を払いのけた際の手法――自らの魂に触れて動かない敵を至近距離で仕留める――を察しているのだろう。時折風と共に背筋をかすめるだけで、攻撃らしい行動を仕掛けてこなかった。
(とはいえ、触れなければ何もできない点は相手も同じ。必ずどこかで仕掛けてくる)
 ウィルは引き金に指をかけたまま、魂の震えに耳を傾けた。
 にらみ合う時間がしばらく続いた。
 緊張の均衡が崩れたのは、空の色がはっきりと変わり始めた頃だった。強い風が氷の矢のようにウィルの頬をかすめ、ほぼ同時に鈍色の猛獣の形を崩したのだ。それは今までに何度か飛び交った牽制とは明らかに違う風だった。
(新手か?)
『お姉さま!?』
 ウィルが聞き取れた言葉を解した時には既に風向きが変わっていた。
 淡青が少しずつ黄色に侵食される空の下、病をもたらす下級悪魔は金属の摩擦音に似た悲鳴を上げ、駆け出していた。嫌な寒気の残りカスが宙を舞う。天より授けられた聖なる弾丸がすぐさま後を追うも、逃亡する勢いの一部さえ削ぐことができなかった。
(お姉様。……妹達。意味は近い。まだ他の個体がいるのか)
 肌の奥まで冷やす不気味な風が吹き続けている。
 空気の流れを確かめたウィルは迷わず風下へ走った。逃げ去った敵を追いながら、ショルダーバッグに収めた日記帳の存在を思い出したが、今回も立ち止まってページを開く暇はなさそうだった。ならばせめて表紙に触れようと試みはしたが、バッグに気を取られる間に風の行方を見失いかけたので諦めた。
 人間の肉体は風に変われない。追いつけはしない。だが空気の流れをなぞるように走るうち、その中をチリのように漂う感情の断片を確かに感じ取った。
(居る。それほど遠くない)
 視界の端で空の色が変わっていく。橙色と枯草色と群青色が折り重なり、家々の背景に長い帯を広げている。
 道行く人が足を止めて眺めるその光景に、ウィルは何の関心も抱かなかった。だが風に押し出されるようにして走り続け、時に通行人や車を避けて進路を修正するうち、空間の一端に生じた新たな変化を嫌でも目にすることになった。
 色の層があせていく。空だけでなく建物も木も、元の色彩を忘れ去った灰色の濃淡に変わり果て、程なく夜の漆黒に飲み込まれていった。
 途中から加わった変化の意味するところを理解したとき、ウィルは足を止めていた。
 敵がいる。民家の生け垣と隣家の壁を隔てた、恐らくは非常に近い場所に、濃密な怒りが集っている。
(間違いない。同種の悪魔だ。それと……)
 ウィルは小銃を握り直し、呼吸を整えた。そして曲がり角を折れた先へと躍り出た。
 歩道の中央に人が立っていた。
 夜の入口を背景に、街灯が白いコートを照らしていた。初め背中を向けていたその人物はウィルの足音を察したのかゆっくりと振り向いた。
 色彩を失った白銀の髪の下に、無表情の白い仮面が張り付いていた。
「……また、あんたなのか」
 相手に届かない声で吐き捨て、ウィルは銃口を街灯の下に向けた。
 仮面の男は少しも動じない。
 だがそのすぐ隣に、ゆらりと動き出す影があった。真上から光を浴びているのに照らされない、淀んだ水の塊のような何かが、今にも飛びかかろうと身構える野犬に見えた。
 ウィルが追ってきた悪魔なのか、あるいはそれを呼んだ方の個体か。一見しただけでは判断できない。
『見ろ。あれが貴様の同胞を討った兵士だ』
 仮面の下から声が発せられた。
 誰を指し示す一言かは明らかだった。誰に告げたかなど考えるまでもなかった。夜闇の色に包まれた敵が街灯の光の下を飛び出し、ウィルに襲いかかったのだ。
 ウィルは反射的に引き金を引き、それから後退して突撃をかわした。銃を構え直す暇もなく次の一歩。直感に任せてさらに一歩。それでもすぐに敵意が迫り、少しも気を抜けない。
 ほぼ真っ暗に近い視界の中、適度な間合いを取ろうとする訓練生を、凍えるような慟哭の音が追い詰めた。先程取り逃がした個体とは怒りの度合いが明らかに違っていた。
『許さない……』
 何かが触れた。氷の指に二の腕を掴まれたようだった。
 するとたちまち強烈な寒気がウィルの全身を覆い、しかし彼の肉体の芯は反対に熱を発して、その広がりがめまいを引き起こした。大きく前に傾いた身体を片膝で支えても、足腰の小刻みな揺れが止まらない。
 それは病の芽吹きだった。しかも先日より強い毒が全身に回り始めていた。
 喉をせり上がる不快感をこらえながら、ウィルは改めて正面を見た。仮面の人物は既に街灯の下から姿を消していた。
(逃げられたな)
 舌打ちさえできなかった。気道が、頭の奥が、ひどく痛む。小銃を握る腕の力が緩みそうになる。
 背中に密着する重苦しい情念が膨れ上がる感触をはっきりと知覚する中で。
『妹達の仇……!』
 圧迫される心臓に反響した一言が、それまでになかった視点をウィルにもたらした。
「……そういえば」
 ウィルはひとつ咳をして呼気を開放すると、自分の手元に向けてささやいた。
「さっきあんたの、妹とかいう、同族と会った。……姉が危ないとか言って、ここに駆けつけようとしていた」
 広がっていた魂の陰りがわずかに揺らいだ。
「そいつはどこへ行った?」
『……っ!?』
 悪魔の意識がどちらへ向いたか、魂に接しているウィルには自分のことのように解した。だが彼はその関心までも自分のものにはしなかった。
 身につけた通りの手順で撃鉄に、引き金に、指を引っ掛けた。
 夏の太陽のような熱が肉体を刺し貫く瞬間が、ウィルの魂の奥底に確かな手応えを刻んだ。
『おのれぇ……っ!!』
 肉体にまとわりついていた苦痛が静かに消えていった。
 ウィルは顔を上げた。両目に映る街灯の光がかすんでいく。その中に誰かが立っているように見えたが、真偽を確かめる前に姿勢を保つ力がなくなった。


 やけに風が冷たい夜だった。
 サイガは走っていた。気づいた時には既に全速力のスピードに乗っていた。いつ、どこから走り出したのか、断片的にしか思い出せない。
(何なんだ今日は。何なんだよくそったれ!)
 見知らぬ男に襲われたことは覚えている。逃げようとして一度失敗したことも覚えている。問題はその後を曖昧にしか覚えていないことだ。
(おかしいだろこれ。絶対何かがおかしい)
 街灯の下にちらつく刃物を見た気がする。相手が逆上して持ち出したのだろうか。しかし凶器からどうやって逃れたのかは分からない。
 他の誰かに見られたような気がする。走り出したのはその後だった気がする。どんな人だったかは少しも分からない。
(何があった?)
 その男を投げ飛ばしたような記憶がある。左手に刻まれた感触がまだ残っている。
 組み合ったような感覚もある。右手の皮膚にわずかなしびれがとどまっている。
 倒れた男を見下ろしたような。
(待ってくれよ。本当に何があった? なんで俺は逃げた?)
 弾む息が白い塊となって暗い夜道に散った。
 サイガは立ち止まった。自宅の門に向けられた足が震えていた。
(これじゃあ……俺が通り魔みたいじゃねーか……)