[ Chapter10「怪人ハンターと賑やかしの記事」 - D ]

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 世間の流行から一週遅れで熱風邪に倒れたサイガは、死神の予言通り無事に回復し、翌週の初めには学校へ復帰した。
 朝の教室で級友と挨拶を交わす姿はおよそ元通りの彼だったが、全快を手放しに喜ぶ様子はなかった。そればかりか、沼田が持ち込んだ新聞を借りて真剣に読み始めたので、親しい生徒たちはひそかに脳へのダメージを心配した。
「サイガ、それ何読んで……あ、例の通り魔の話?」
 紙面を覗き込んだ実隆は一度で関心の的を当ててみせた。三面記事の最上段に印刷された日付は病欠の初日だった。
「そういえば、先週起きたやつはサイガの家の近くだったね。やっぱり被害者は何も覚えてないみたいだけど」
「らしいな。確かにそう書いてある」
 サイガは眉間にしわを寄せ、事件現場の町名が書かれたあたりを小突いた。
「実隆。これの後って通り魔あった?」
「うーん……今のところそういう話は聞いてない」
 それがどうしたの、と首を傾げる親友の前で、サイガはため息をついた。


 同じ朝の同じ教室。新聞が持ち主に返却された頃、まりあは最後列にある自分の席でまどろんでいた。
 昨日は外出したが、とりわけ疲れることをしたわけではない。しかしベッドに入ってから思い返すことが多すぎて、なかなか寝つけなかった、その反動が来ていたのだ。
 時間の流れさえ忘れそうになった頃、女子生徒から声をかけられた。
「まりあちゃん、昨日駅前にいたってホント?」
 依子とよく一緒にいる友達の一人だった。まりあがうなずくと、少々大げさに顔をひきつらせるというリアクションが返された。
「もしかして沼田と一緒だった?」
「あ、はい」
「やっぱり! あの沼田がデートしてるの見たって子がいて、絶対ありえないって思ったんだよね。ていうかアレでしょ、こないだの取材とかっていう」
 本当に行ってしまったことはやはり快く思われていないらしい。冷たい視線を浴びせられたまりあは、友達をなだめることしか考えつかなかった。
「はい……でも、良い人でしたよ、葛原さん。週刊誌の記者さん。私、結局ほとんど葛原さんと沼田くんの話を聞くだけで終わりました」
「そういう問題じゃないから……」
 話している間に始業を告げるチャイムが鳴った。ホームルームの時間が来ていた。
 前から二列目に他と違う色の頭髪が見える。転入してきた直後くらいの期間は何度見ても違和感があったが、二ヶ月以上が経った今は逆に、ひとつ浮いた色のある光景が戻ったことにほっとしている。まりあは慣れを実感してくすりと笑った。
 教壇の中央に立った根本先生が話し始めた。今日のカリキュラムが始まった。
「結局、沼田についてったんだってね」
 隣の席から依子がささやいてきた。まりあは笑顔を返そうとしたが、うまく笑えなかった。
「これからどんどん調子乗るよ、絶対。次会う約束とかなかった?」
「いいえ。そういう話は特にありませんでした」
「ふーん」
 依子の顔が離れていった。最後の反応からはあまり信用していない様子がうかがえた。
 視線を正面に戻したまりあは、沼田の別れ際の言葉を振り返ってみた。思い出せたのは目一杯楽しんだと分かる顔と「また明日な」の一言だけだった。
(きっと、私は役目を果たしたのでしょう。話せることは全て話しましたから)
 日曜日の喫茶店での会話が頭に次々と浮かんできた。
 まりあは沼田から頼まれていた通り、九月に怪人らしき人物と出会った話を葛原に披露した。仮面の男が空を舞ったくだりを語ると記者は目を見張り、一度聞いているはずの沼田は身を乗り出してきた。
 そして一通りの証言を聞いた二人は意外なことを口にした。
『その、怪人に襲われていた北欧系の人だけど、そのとき怪我をしたんだよね。でも僕が取材した限り、怪人が関わった可能性のある傷害事件の被害者にそういう人はいなかった』
『雨宮さんがそいつに会ったの文化祭の前だから、最近の連続通り魔じゃなくてもっと前……うわ、マジだ。この辺で起きた事件とか事故とか全部ここに書いてきたけど、外国人の被害者とか目撃者とか全然いない。デマだった方の話も……』
 沼田のメモ帳にはどのページにも大量の書き込みがあったが、ぐちゃぐちゃな文字はまりあが見ても全く読めなかった。しかし読み上げる内容を聞いた葛原が本気で感心していたので、どうやら記者顔負けの取材が行われていたらしい。
 しかし彼らは重ねて、その事件の話は伝わってきていないと口を揃えていた。
(記憶を消してしまう怪人。ですが少なくともあの人は、何かを覚えているはずです。文化祭のときには私のことを覚えていたわけですから)
 昨日はピンとこなかったので流していた疑問に、今やっと答えが見つかった。
(つまり、あの人は被害届を出していない、ということですよね。もしかしたら他にも、不思議な出来事を見たのに声を上げていない人がいるのかもしれません)
 だからこそ取材する彼らの熱意は尽きないのかもしれない。
 まりあは黄銅色の頭のすぐ後ろへ視線をやった。ちょうどホームルームが終わり、立ち上がった直後の横顔が見えた、と思ったらその顔が教室の後方へ向かってきた。
「やー、昨日はホントにサンキュー!」
 沼田はまりあの座席へ直進してきた。すぐさま依子が押し出した机に行く手を阻まれても、上機嫌な様子は変わらなかった。
「いえ、そんな、大したことはしていませんし」
「大したことあるって! 雑誌の取材だろ、ガッチガチになってたかもしんなくてさ。でも雨宮さん一緒にいてくれたから超リラックスモード! 癒しの天使!」
 両手を胸の前に組んだ沼田を、机がさらに押し戻す。さらに辛辣な言葉が相次いだ。
「何が天使よ、キモすぎ」
「一人じゃ寂しかったんだろ。でも俺達が断ったからって、まさか雨宮を巻き込むなんてな」
 依子に睨まれた沼田は、さらに背後から池幡に肩を掴まれ、仕方なく引き下がった。まりあには彼がまだ何かを言いたそうに見えたが、発言の促し方を思いつかなかった。
 邪魔者が自分の席に戻ったので、障害物になっていた机も元の位置に戻された。依子は何事もなかったような顔をして、まりあに次の週末の予定を尋ねた。


 一時限目の授業が始まった。
 サイガの手元には教科書とノートが広げられていたが、関心は真後ろの席に返した新聞に向けられたままだった。連続通り魔事件の概要をまとめた地図が頭にしっかりと焼きついている。
 心の中でよそ見しながら板書の内容を書き写していたら、シャープペンシルの先端で勢いよく芯が折れた。
(何かがおかしい。まず話が違う)
 あの日――寝込んだ日の前夜――サイガは路上にうずくまる人に出くわし、殴りかかられた。面識のない相手だったことは覚えている。とっさに逃げ出した後の記憶はあやふやになっていたが、混乱の中で必死に反撃し通り魔を退けたのだろうと、一応の結論は出していた。
 では、同じ夜にほぼ同じ場所で倒れていたと言われているのは、いったい誰なのか。
(俺が逃げた後に、別の誰かが襲われた?)
 ノートの白紙のページに、意味のない点や線が刻まれる。
(仮にあの時会った奴が犯人だとして、あークソッ、顔思い出せねえ。でも人間だった。仮面なんかしてなかった)
 すぐ後ろから寝息が聞こえてくる。怪人の存在、そして事件への関与を声高に主張する沼田は、早くも授業を放り出しているらしい。
(それか、俺と揉み合いになった時にあいつが転ぶかなんかして、頭打ったんだとしたら……やっぱ犯人は俺? でも襲ってきたのはあっちだったし)
 サイガは落書きの手を止め、もう一度新聞の内容を頭の中でなぞった。
 その日の“被害者”は町内をジョギング中の男性だったと書かれていた。それ以上の情報はなく、暗い道で出会った人物と結びつけることはできなかった。
 そもそも新聞には大まかな位置しか書かれていなかった。自分が襲われたまさにその場所が現場だとは断定できない。別の場所で別に被害が出ていた可能性もあるのだ。
(でもあの辺で怪しい奴見たのは本当だし、警察に行って確かめさせてもらうか? ……ダメだ、俺が疑われる気しかしない!)
「……西原」
 横から刺さった声が葛藤を止めた。
 両隣、さらにその前の席に座る級友たちが、揃って振り向いていた。彼らはサイガと目を合わせると、一斉に黒板を指し示した。
「次、お前の番」
「あっ……ああ」
 サイガは慌てて教科書をめくり、ここまで聞き流していた内容をかき集め始めた。