[ Chapter10「怪人ハンターと賑やかしの記事」 - E ]

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 朝のホームルーム後に言葉を交わして以来、沼田はまりあに近づいてこなかった。それは頼みごとが果たされたからか、級友たちからきつく言われた影響か、まりあには判断できなかった。
 そうして平穏に、しかし心に引っかかるものは少しも解けないまま、数日が過ぎた。
「今日もお疲れ様でした」
「いいねえ、新人。その調子で明日も頼むよ」
 授業と掃除当番の仕事、そして放課後の部活動を終えたまりあは、演劇部の先輩部員と一緒に昇降口を出て校庭を歩いていた。しかし先輩は違う地域に住んでいるので、正門前で別れることとなった。
 家路の方向へ足先を向けた直後、路上をうろつく人がまりあの視界に入った。
「あ……葛原さん」
「こんにちは。先日は協力ありがとう」
 葛原記者は小さなメモ帳と筆記具を手に持ち、首からは大きなレンズが付いたカメラを下げていた。彼が軽く会釈しただけで重そうなカメラはグラグラ揺れた。
「いえ、こちらこそ。あの、葛原さんは、今日も取材ですか?」
「うん。昨日また通り魔が現れたって聞いたから、地元の声を集めに」
 新たな被害の話はまりあも噂として耳にしていた。先週までに起きた事件と手口が似通っているという。
「怪人の仕業かどうかは置くとして、このあたりの人たちにとっては不安な話だからね」
「そうでしたか。お仕事頑張ってください」
「ありがとう」
 葛原は続けて何かを言おうとして、表情の変化を途中で止めた。神妙にも見える表情のまま固まったかと思えば、不意に彼はまりあの脇を抜け、正門の方へ歩き出した。
(気のせいでしょうか。今、一瞬だけ、別人のように……)
 まりあは目の錯覚を疑い、振り向いた。
 学校の外壁に沿った歩道を急ぎ足で進む葛原の背中が見えた。
 そしてもう一人、不審な挙動を見せる学ラン姿の人物も。
(あの人、もしかして)
 物陰に隠れるしぐさ。周囲の様子をうかがうポーズ。すべてが若干わざとらしく、怪しい上によく目立っている。
 先日その取材力で記者を感心させた沼田が、その記者を尾行しようとしていた。
「……沼田くん?」
「ひっ!?」
 まりあに背後から名を呼ばれたときの反応もまた、あまりにわかりやすいものだった。
 沼田は大きく肩を震わせてから、首を勢いよく回してまりあを睨みつけ、片手の人差し指を口に当てた。その顔は少しだけほっとしたようにも見えた。
「なんだ、雨宮さんか。でも今イイとこなんでどうかお静かに」
「すみません。でも今からどうして……?」
「や、葛原さん来てるって聞いたから、コレ渡そうと思ってさぁ」
 隠れたポーズのまま、沼田が手に持ったクリアファイルをまりあに見せた。
「急いで取りに行って戻ってきたら、もう帰ろうとしてるから。仕事の邪魔しちゃ悪いし、コソッと様子見てチャンス待とうかと。じゃ、また明日」
 聞かれてもいないのに尾行ポーズの言い訳を並べてから、沼田は遠ざかる記者を追って行ってしまった。
 校門前に残されたまりあは、気を取り直して家に帰ることにした。だが二人の去った方向に背を向けてから、今度は舗装された歩道の上に落ちているものが目に留まった。
 最初に形を認識したときは財布のように見えた。近づいて拾ったときにカード入れだと判明し、中を開けてみるとすぐに所有者の手がかりが現れた。
(これ、葛原さんの名刺です!)
 ケースには他にも様々な人の名刺が収められていたが、最も多かったのが先日まりあも受け取った、出版社の名前入りのカードだった。同じ名刺を何枚も備えるならそれは人に渡すためだ。そこまで推測するともう、他に落とし主がいるとは考えにくい。
 今できること、すべきことも、一つしか浮かばない。
(届けなきゃ)
 まりあはカード入れを握りしめ、自分の通学路と真逆の方向へ駆け出した。
 程なくして尾行を続ける怪しい背中が見えてきた。勢いのままそれを追い抜いた直後、慌てた声がまりあを追ってきた。
「ちょっとちょっと雨宮さん、待って、待って! バレちゃう!」
 名前を呼ばれてつい足が止まる。振り向いたまりあの前に、電柱の後ろからすがるような視線を送ってくる沼田がいた。
 バレると誰がどう困るのか、まりあには全く分からなかったが、本人なりに真剣な理由が一応あるらしい。沼田は葛原の様子をしばらくうかがい、こちらに気づいた様子がないことを確かめてから、小走りでまりあの隣まで追いついた。
「で、何? 結局気になってついてきちゃった感じ?」
「いいえ、そういうつもりで来たわけではなくて。これ、葛原さんの、落とし物を届けに」
「なーんだ……」
 沼田につられる形で小声の会話をしながら、まりあも改めて葛原の姿を探した。
 雑踏の中に覚えのある上着の色が一瞬だけ見えた。立ち止まって話していた二人との距離は五十メートルあるかどうか。それほど離れたなら後方の不審な動きには気づかないだろう、しかし。
「やっべ、角曲がった! 急げ!」
 突然沼田が走り出した。一拍遅れてまりあも状況の変化を察し、級友の後を追った。
 普段なら決して通ることのない道を、全く馴染みのない地区を、ただ一点の目印だけに頼って突き進む。
(そういえば、確か前にもこんなふうに、急いだことが……)
 既視感の正体を掴むより先に、足が沼田の真後ろまで追いついていた。まりあは息を切らし、喉の奥の痛みをこらえながら、立ち止まってあたりの様子を見た。
 シャッターを閉ざした古い店舗の隣、電柱の先に、曲がり角があった。そこを折れた先には確かに葛原記者の姿があった。
 彼は進むことをやめていた。路上に片膝をつき、誰かに話しかけている。
「大丈夫ですか? 聞こえますか!?」
 聞き取れた言葉は明らかに穏やかな内容ではなかった。
 まりあはとっさにその場所へ駆け寄っていた。考えるより先に足が動いていた。状況も立場も忘れたのは沼田でさえ同じだったようで、後ろから騒々しい足音がついてきたが、それを知覚したのはまりあが葛原の横へ並んだ後だった。
「どうかなさいましたか!?」
 適切な声のかけ方も分からず口から流れ出るままに、それでも葛原記者が顔を上げたことは確かに認識して、それからまりあは彼の手元を見た。
 そこには仰向けに横たわる中年男性がいた。目を見開いたまま固まり、手足はぴくりとも動かない。そして右の頬は何かが衝突したのか真っ赤に腫れ上がっていた。
「ああ、ちょうどいいところに。この人が倒れているのを今見つけたところなんだ」
「え……倒れ、て……?」
「沼田くん、君の携帯で今すぐ救急車を呼んで。場所を聞かれたらそこの電柱に書いてある番号を順番に読み上げれば大丈夫だから。雨宮さんはここにいて」
 とっさの行動の後が何も思いつかない二人の高校生に、葛原が連続で指示を出した。そして自らは立ち上がり、さらに奥へと続く細い道を走り出した。
「葛原さん!?」
「さっきここから立ち去る人を見たんだ、何か事情を知ってるかもしれない!」
「えーと救急車、救きゅっあれ何番だっけ」
 葛原の姿はすぐに丁字路を折れた先へと消えた。見知らぬ男の傍らに、二の句を継げないまりあと慌てふためく沼田が残された。
 まりあは急に両足の感覚が失せたように感じ、気づくと怪我人の側に座り込んでいた。より低い視点からは頬の腫れがより痛々しく見えたし、まぶたと口を半分開いた表情は怖さも感じさせた。しかし一方で大きな出血が見られないことにも気づき、わずかながら安堵した。
「……あっもしもし!? 救急車、はい救急です、人が倒れてます!!」
 電話の向こうに助けを求める声を聞きながら、まりあの視線と手は怪我人の喉元へと向かった。何かの折に本で読んだ急病人への対応をぼんやり思い出すと、うろ覚えの手順で呼吸と脈を確かめてみた。おかしいという印象はなかった。
(でも、意識がありません)
 まりあは少し考えてから、先ほどの葛原のやり方にならって、声をかけてみることにした。それもまた本に書いてあった手順のひとつだった。
 彼女が肩や首に触れながら何度も呼びかける間に、後ろで沼田も何度か声を張り上げていた。
「お願いします! ……葛原さーん、電話しましたー! 救急車来まーす!」
 低くした姿勢から少しだけ顔を上げたまりあの前を、沼田の軽快なステップが通った。役目を果たしたことを報告するための駆け足だった。
 だが彼の足は丁字路の中央で立ちすくみ、その先へは進まなかった。
 夜はすぐそこまで迫っている。