[ Chapter11「彼と彼女と彼女の裏話」 - A ]

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《目撃者を探しています》
 電柱にくくりつけられた縦長の看板が雨に打たれていた。設置から一週間も経っていないので色あせはしていないものの、汚れよけに被せられたビニールの覆いに水滴が引っかかり、幾分か読みにくくなっている。
 その場所に来た人のほとんどは素通りするか、ちらりと見るだけで通り過ぎていった。
 一人だけ、意識的に看板から目をそらしている通行人がいた。
(別にやましいことしてるわけじゃねーのにな……)
 サイガは学校から自宅への帰り道、歩き慣れた通学路を一人進んでいた。
 十一月も後半にさしかかり、雨をまとった空気は重くはないがとても冷たい。部活の室内トレーニングで体に蓄えられていた熱が吐息から、雨風を浴びた足から、少しずつ失われていく。
 彼は外していた視線を正面に戻しながら、昼間に学校で聞いた話を思い出した。看板の位置で先日起きたという傷害事件について、その第一発見者となった沼田が躍起になって調べ回った結果を、頼みもしないのにいろいろ聞かされたのだ。
 現場周辺では目撃証言どころか、物音や争う声を聞いたという話もないこと。
 犯人は人目につかない道を逃走しており、土地勘があるとみられていること。
 最近この街で起きている連続通り魔事件について、犯人が左利きの人物だと確定していること。
 犯人像の話が出たとき、サイガは思わず聞き返してしまい、沼田の自慢話を加速させてしまった。そのことは今でも少し後悔する一方、「自分は当てはまらない」の一点に安堵している自分にも気づいていた。
(……なんか胸糞悪い)
 正面の道を歩いて近づいてくる傘が見えた。サイガはすれ違うことを意識して道の左側へ寄ったが、通行人はその顔を見せる前に道を外れ、小さなマンションのエントランスへ入っていった。
 そのまま直進したサイガもマンションの前を通った。薄暗いエントランスの空気をせき止めるガラス扉が、立ち止まった高校生の姿を鏡のように映した。
 鏡像は暗色の傘を左手で差している。黄銅色の髪が地味な制服との対比で明るく見えているが、その頭頂部や生え際は影と同じ色に浸食され始めていた。
(そろそろ直すか?)
 表面だけ薬剤で脱色している髪は、伸びるに従ってその根元から地毛の色が広がっていく。多少であれば気にならないが、遠目に見ても目立つようなら放置するわけにもいかなかった。このまま本来の色に戻す気などないからだ。
 対策はいくつかある。しかし金のない高校生が選べる手段は多くない。髪型も整える必要を考えると、ますます選択肢は狭まった。
(土日になんとかしよう。晴れてるといいけど)
 サイガは週末の予定を頭の中で整理しながら歩き出した。
 一区画も進まないうちに、後方から自動車の走行音が聞こえてきた。道の左側を歩いていたサイガは壁際ぎりぎりまで寄ってから、安全な距離を見るために振り返った。
 丁寧に磨き上げられたワインレッドの車が徐行運転で目前まで迫っていた。左側の壁との距離には多少余裕があり、サイドミラーがかすりそうになった他は危なげなく通行人を追い越していった。
 直後、車のタイヤに潰された水たまりの水がサイガの足下に押し寄せた。
「冷てっ……」
 小さな不運に気づかれるはずもなく、その車は速度を上げて走り去るかに見えた。
ところが実際には加速どころか、家一軒分ほど離れた辺りでブレーキランプが点灯して、まもなく完全に停車した。そしてサイガが車の真横まで追いついた瞬間、車の左側前方の窓が音を立てて開いた。
「さっちゃん、久しぶり!」
 言葉も足も素通りするところだった。
 一拍遅れて耳と頭と脚に震えが走った。
 サイガは振り向きながら、全身から血の気が引いていく感触をスローモーションのようなテンポで味わっていた。引ききった後に打ち寄せるさざ波は苦い記憶だ。声がした方を見てはいけない気もしつつ、それでも確かめずにいられなかった。
 空白の助手席を挟んだ向こう側でハンドルを握る美女の姿を。
 文化祭の日、あの公園に現れ、自分を拉致監禁した女の顔を。
 反射的に見てしまい、間違いないと確信した。そして無視できなかったことを心の底から悔やんだ。
「もー、やだぁ、そんな怖い顔しないで。ね?」
 謎の女は助手席側に身を乗り出し、上目遣いでサイガを見ながら、拝むように両手を合わせた。冷え込む日なのに九月と同じく胸元を大きく開けた服装で、しかも脇腹に食い込むシートベルトが余計に胸を強調して見せている。短いスカートは太ももの半分も隠せていない。どこまでが意図的なのか。
「あんなことはもうしないから。大丈夫だから」
 どんなことだ、と問う前に、答えがサイガの脳裏をかすめていった。
 突然の口移しで何かを無理矢理飲まされた場面。
 手足を縛られた上に銃まで向けられた場面。
 わけのわからない言い訳を並べながらにじり寄られた場面。
 その後に起きた出来事。
 心臓にも教育にも悪そうな内容ばかりが一巡してから現実の番が来た。あのとき不意打ちを食らって倒されたはずの女が、何事もなかったようにこちらへ微笑みかけている。
「っつーか……なんで、こんなとこに」
「なんでって。さっちゃんに会いたくなったから、来ちゃった」
 謎の女は甘えるような声を出して、助手席のシートに目配せした。
「ずーっとそこに立ってたら風邪引いちゃう。乗って。おうちまで送ってあげる」
「は?」
 期待を帯びて輝く目を直視したサイガはとっさに後ずさりした。しかしすぐに傘の骨組みが壁にぶつかってしまい、ほとんど距離を稼げなかった。
 大チャンスだ、聞きたいことがあるんだろ、とささやく声がした。
 だまされるな、どうせ新しい罠に決まってる、と指摘する声がした。
 真っ二つに分かれた心を抱えて息を呑む。
「……そっか。いきなり誘われてもびっくりよね」
 サイガの表情から答えを読み取って、女は傾けていた上半身を一度引っ込めた。それから運転席の脇に置いていた携帯電話を手に取り、何かの画面を呼び出して少しスクロールした後、再び窓の外のサイガを仰いだ。
「寂しいけど今日はガマンする。ね、今度の週末って、何か予定ある?」
「へ? いや別に……はぁ?」
「そう。じゃあ、デートしない?」
 次々と飛び出す予想外の単語に、サイガの頭の回転が追いつかなかった。気の抜けた返事をした後になってその言葉の意味に気づき、さらに遅れて顔が熱を帯びてきた。理由は彼自身にも分からなかった。
 一連の変化を見ていた女が口元に指を添え、小さく笑った。
「会ってもいいって思ってくれたら、土曜日の朝、十時頃がいいかな。あのときの公園の前で待ってて。迎えに行くから」
「あの公園」
「そう。それでもし、さっちゃん一人で決められないって思ったら、そうね……サリエル様に聞いてみて。葉月祐子(ハヅキ・ユウコ)という女を信用していいのかって」
 またもサイガは遅れて発言を噛み砕き、それから耳を疑った。
 今までその名を何人の口から聞いたか。片手の指だって余るはずだ。
「ちょっ……おい、お前……あいつの知り合い?!」
「うふふ、知り合い、まあそんなところね。あ、私のことは祐子って呼んで。年上だからとかそういう遠慮、全然いらないから」
 聞かれもしない呼び方まで指定すると、女は今まで止めていた車のエンジンをかけ直した。そしてハンドルを握り、最後に言った。
「私は、来てくれるって信じてるから」
 ワインレッドの車が弾むような音を立てて発進し、次第に速度を上げながら遠ざかっていった。
 雨の中に一人残されたサイガの手から、暗色の傘がゆっくりと滑り落ちた。