[ Chapter12「Vの悲劇」 - A ]

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 カレンダーが十二月に到達し、世間の空気も装いも年末らしい色に変わった、そんなある日の日没後。
 西原家の食卓には魚の切り身をたっぷり入れた土鍋が置かれ、ここ三ヶ月で言うところの「家族全員」がそれを囲んでいた。サイガとその母と祖父母、そして桂。ただし秋頃に比べると日本語の会話がだいぶ増え、桂は箸を使えるようになっていた。
「ところで美由樹さん、お見舞いはいかがでした?」
「相変わらずです。今日の手術もうまくいったみたいですし。陽介さん、お二人にも会いたがってましたよ」
 サイガは今夜の主な話題が陽介の入院生活の様子になることを覚悟していた。その上で全部を聞き流し、他の家族が耳を傾ける中、一人黙々と海鮮鍋を食べ続けていた。
 ところがその話は思ったより早く切り上げられた。
「それより、ちょっと気になることを聞いちゃったんです」
 美由樹は箸を持つ手を止めたまま、笑顔を曇らせた。
 夫のいる個室を訪ね、しばらく付き添ってから帰ろうとしたところ、通りかかった処置室から漏れてくる声を聞いたという。半開きの扉の向こうで何やら作業中の看護師たちが、廊下に見舞客がいることに気づかずおしゃべりをしていたらしい。
「篠原先生って覚えてます? 陽介さんが帰国するとき、K大病院を紹介してくださった先生。あの人が昨日から無断欠勤しているんですって」
「まあ、大変ねえ」
「本当にその先生なのか? 聞き間違いということもあるだろう」
「私もまさかと思って、帰りに病院の入口の、ほら、先生方の名前を一覧にしたボードがあるじゃないですか。あれを確かめましたけど、似た名前の先生はいなかったんです。ですから多分、あの篠原先生……」
 陽介の両親は信じられない様子で顔を見合わせた。
 サイガは箸休めの漬け物を口に運びながら、新たな話題の人物を思い出そうとしてみた。一度だけ対面した記憶がある。地味な人という印象があるだけで、顔までは浮かんでこなかった。
 だが話を聞いているうちに、社会をまだまだ知らない孫ではあるが、看護師たちの困惑をなんとなく想像できた。その人は大病院の外科医だから何人もの患者の命を預かっているはず。無断で仕事を休まれたら困る人が大勢いるだろう。
「でもどうしてそんなこと。まじめな先生だって美由樹さん言ってたじゃない」
「それが……」
 本当かどうかは分からないですが、と前置きしてから、美由樹は立ち聞きした話から拾い上げたキーワードを語った。
 黙って会話を耳に入れていたサイガがふと正面を見ると、桂の姿が目にとまった。弟は左手に持っていた箸を手元に置き、幼い顔に似合わない真剣な表情で考え込んでいた。

 立ち聞き話の断片は、翌朝の情報番組がつなぎ合わせてくれた。
 その朝から数えて三日前の未明、女性が自宅前で暴漢に襲われ死亡する事件があった。現場はK大病院に近い住宅地。犯人はすぐに逃走し、警察が行方を追っている。そして被害者と同居していた婚約者の男性が、遺体の身元確認に立ち会ったのを最後に連絡が取れなくなっているという。
(昨日聞いた話が本当なら、その婚約者が篠原先生だってことだよな?)
 サイガは登校中も、教室に着いてからも、答え合わせのできない謎をぼんやり考えていた。それは心配でも好奇心でもなく、得体の知れない不穏な感じが頭を離れないからだった。
 教室のあちこちから聞こえてくるのは全く違う話題だ。級友たちの関心は第一に期末試験、次に僅差で昨夜のテレビドラマ。そして局地的に、別の不穏な話題が盛り上がっていた。誰かの家の近所に泥棒が入ったらしい。
「まさかうちの近くで起きるなんて思ってなかった。もうマジヤバいよ!」
「あんなの盗んで罰当たんないのかな」
 興奮した声がざわめきの中に埋もれ、波が引くように消えていった。
 次の話題の波が打ち寄せる頃には、サイガは考えることをやめていた。それでも心の奥底に何かが引っかかる感覚は残り続けた。
(気になるっていうか)
 試験直前の授業はどれも駆け足で進んでいった。教える側は授業以外の仕事にも忙しいのか誰も彼も疲れているし、受ける方は試験対策や他の用事に余念がない。いつも通りなのは体育の授業くらいだった。
(気のせいにしたいっていうか……)
 水泳部の活動は練習場所の都合がつかなくなったため休みになった。校外の温水プールの予約が吹き飛んだ理由は不明だが、中止を知らせに来た部長は不機嫌そうだった。それでは仕方ないとあきらめがつくような事情ではないらしい。
 突然暇になった放課後をどう過ごすか。サイガが帰り道を歩きながら考えていると、通学鞄の中からかすかな振動音が聞こえてきた。
「……メールか」
 振動のパターンから判定したサイガは、歩道の端に寄ってから立ち止まって携帯電話を取り出した。画面には確かに新着メールのアイコンが出ていた。同時に表示された差出人名の文字列を読み、目を疑った。
「は? ……なんで急に?」
 開封したメールの本文は読み切るまでに五秒とかからない長さだった。読んだサイガが回れ右をして走り出すまでの時間はもっと短かった。
 学校までは戻らない。通学路を途中で外れ、駅方面へ向かう車道に沿って走る。商店が集まるエリアの隅にひっそりと立つ雑居ビルまでたどり着くと、一度足を止めて呼吸を整えてから、地下への階段を駆け下りた。
 バー「UNDERWORLD」の入口には「CLOSE」の札がかかっていたが、扉の鍵は開いていた。サイガは静かに扉を開け、店内の様子をうかがった。
「サイガくん? もう来たのか、早かったなあ」
「あ、どうも。今日は部活なくなったんで」
 カウンターの中で目を丸くした柏木がメールの差出人だった。《学校が終わったら来てほしい》という文面は部活後に見ることを想定していたらしい。
「そうだったのかあ。とりあえずここに座って、今ドリンク用意するから」
「はーい。でも柏木さん、『相談がある』っていったい……」
 サイガは柏木が置いたコースターに誘われるようにカウンター席のひとつへ座った。そして真横で発生した物音を聞き、何気なくそちらを見た。
 隣にゾンビが座っていた。
 よく見るとそれはうつむいた姿勢の人間で、照明の影に埋もれそうだが一応生きてはいるようだった。サイガは早鐘を打つ心臓をなだめながら、話しかけられないうちに距離を置こうと、反対側の隣の椅子に手を掛けた。
 ゾンビが顔を上げた。
 視線が重なってしまった。
「……あっ」
 その不気味な顔を電球の光が照らした瞬間、相手が目と口を大きく開けた。同時にサイガも声を上げていた。
「西原さんの家の……!」
「どっかで会いました?」
 両者はしばし口を開け放したまま止まった。
 はっとした表情に変わったのは先客だった。彼がロックグラスのそばに置いていた四角い黒縁のメガネを掴み、装着した顔を見せると、ようやくサイガも相手の正体に気づいた。
「しっ、篠原先生!?」
 椅子から転げ落ちそうになったサイガはとっさにテーブルの縁を掴んだ。その手の近くには目印付きの常連専用タンブラーが既に置かれていたが、いつものカクテルを受け取る余裕は戻ってこなかった。
「マジ? いや、昨日、行方不明って……なんでこんなところに」
『我輩が呼び寄せた』
 低い声を耳にした途端、サイガの頭は一気に冷えた。背筋も冷えた。
 疲れ切った顔をした外科医の隣に先客がもう一人いた。声に見合う大人の姿をしたサリエルは今日も黒ずくめの武装に身を包み、しかしマスクは外していた。
「てめえ……今度は何企んでやがる」
 朝からまとわりついていた気がかりにここで説明がついた気がした。サイガは全力の警戒と威嚇を目つきに込め、腰を浮かして医師の頭越しに歩兵を見下ろした。
 対してサリエルは涼しい顔で左手をかざし、サイガの手元を指した。
『まずはそれを飲め。怒りを抱く者に教えてやることは何も無い』
 言葉に詰まって腰を下ろすサイガの隣で、篠原は口を閉ざし、表情で柏木に助けを求めた。