[ Chapter12「Vの悲劇」 - C ]

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 暦の上では年の暮れだと言われても、目の前にあるのは常に同じ長さに区切られた一日だけだ。だからウィルは、先週より寒いほかはいつもと変わらない一日を、いつも通りに過ごすつもりでいた。
 ところが、柳医院にかかってきた一本の電話が、彼の午後の予定を全部まとめて塗り替えてしまった。
「よかった、思ったよりはちゃんと着られる!」
「そのまま回って、後ろを向いてください。そうそうそんな感じ、あ、大丈夫そうです」
 ウィルはその足下にしゃがんだ女性に言われるまま、両腕を軽く広げた姿勢で、少しずつ足の向きを変えた。体の芯を軸にして半回転する途中、壁に掛かった姿見に映る自分の姿を目にした。
 赤い三角帽子。赤い上着。赤いズボン。いずれも白くふわふわした素材で縁取られている。上着とズボンの丈はさほど問題なかったが、帽子は頭の直径に対してやたら大きく、縁取りが目の上に覆い被さろうとしていた。
「帽子はちょっと物足りないですね。どうしますか?」
 足下からの声が途中で垂直に駆け上がり、ウィルの胸の高さに並んだ。
 牧野ひなぎくは細身の体にまっすぐ背筋を伸ばした姿が似合う、野の花のような女性だ。先日ウィルを救った彼女は守護天使の任務の一環として、柳医院と同じ町内にある野ばら幼稚園で教員をしている。その働きぶりは評判らしく、柳院長もやたらと褒めていた。
 そんな“ひなぎく先生”に呼び出され、ウィルは幼稚園の職員室を訪れていた。理由は一つ「人手が足りない」。しかし何に困っているのかは知らされないまま呼ばれ、到着するなり他の教職員を紹介され、そして流れるように謎の赤い衣装を着せられたのだった。
「あーよかったー。これで今年もクリスマス会やれる!」
「ひなぎく先生よくこんな人見つけてきましたね。ホントに彼氏じゃないんですか?」
「違いますって。あと見つけたのは柳先生です」
 安堵と賞賛とやっかみの中に、ウィルは気になる単語を聞き取った。
 先月の終わり頃から何度も耳にしている言葉だ。発する人間たちは『冬の祭り』程度の意味合いで使っているようだが、情報の断片を拾うほど、彼には複雑でよく分からない催しに見えていた。
(クリスマス。この衣装も、その一部なのか)
 この国の暦に定着した、年の最後から二番目の行事。遠い昔にどこかで活躍した聖者の誕生日、という不正確な定義さえ、参加の際に意識する人間は少ないらしい。彼らは意味さえ知らないものをただ良き日と言い、装飾や料理に趣向を凝らし、浮かれ騒ぐという。
 これまでにウィルが得てきた情報には、赤い服を着た老人という記号(アイコン)も含まれていた。しかしどうして自分がその衣装を着せられているのかが分からない。
「ありがとうございます。もう脱いでいいですよ」
「わかった」
 ひそかに待っていた言葉を機にウィルは帽子を脱いだ。あまり丁寧な作りではない上着を脱ぎ、ズボンを外すと、園を訪れたときの服装に戻った。
 試着した衣装一式を畳んでひなぎくに返したら、引き替えに白い紙を渡された。
「こちらがクリスマス会当日の予定です」
 職員用打ち合わせ資料、という見出しの下に目を通すと、本文には見慣れない単語が散見された。タイムテーブルの中に『サンタさん登場』という項目を見つけ、先ほどの職員たちの会話と符合することを確かめてから、彼は本文の先頭に記された日付に気づいた。
 顔を上げた先に誰かのデスクがあり、卓上カレンダーが飾られていた。資料で指定されている日付に赤い丸印が記されていた。
「どうしました?」
「……クリスマスとは、もう少し遅い時期にやるものだと聞いていたので」
「あぁ。幼稚園の行事としては毎年前倒しで実施しています。一般的なクリスマスの当日は、もう冬休みに入ってしまうので」
 ひなぎくは笑い、タイムテーブルの時間軸を指先でなぞった。
 その指がさりげなくウィルの手に触れた瞬間、周囲の人間たちには聞き取れない「音」が光の速さで交錯した。
『その辺りの事情は後ほど説明します。今は先にこちらの話をさせてください』
『了解』
 彼女が衣装を紙袋にしまう様子を、ウィルは黙って見下ろした。
 今ここで従うべきは目の前にいる先輩の他にない。もしこれから言われることも授業の一環として扱われるなら、手を抜かずに取り組むだけだ。たとえ教官からの指示がまだ来ていなくても。
「……それで、その服はこの、プレゼントを渡すという部分に関わるものでしょうか」
「え、聞いていませんか?」
 ウィルが全く何もないと首振りで示すと、ひなぎくは目を丸くした。
「柳先生にはお伝えしたはずなんですけど……」
 名前を聞いた彼が思い出せたのは、院長のやけに嬉しそうな顔だった。お手伝いが欲しいんですって、行ってあげてなどと言いながら肩を叩かれたが、そのとき場所以外に具体的なことを話していただろうか。
 どれほど丁寧に思い返しても、言われたことを聞き返す隙さえ、
「……全くなかった」
「そうですか。……しょうがないですね、あの先生も」
 吹き出しそうになったひなぎくには何か思い当たる節があったようだ。
 それからウィルは改めて手伝いの子細を、資料の記述に沿って説明された。当日は園児全員を遊戯室に集め、まず職員や保護者らがいくつか出し物をする。続いてサンタクロースに扮したウィルが入り、園児たちと交流してからプレゼントを配るのだという。
「毎年一番盛り上がるのがサンタさんなんです。ほとんどの子はサンタさんが本当にいると思っていますし、プレゼントを楽しみに待っているんですよ」
 だからサンタの正体はみんなには秘密、ここで手伝うことも秘密、と念を押された。ウィルにはうなずくことしかできなかった。
 事前準備や当日の動き方以外にもいくつか話を聞いた後、ひなぎくは会場を案内すると言ってウィルを職員室から連れ出した。
「子供たちだけじゃなくて先生方もきっと、クリスマスが何のためにあるかなんてよく分かっていないし、考えもしていないと思います」
 二人が園庭に面した廊下を歩く間、子供の姿を見かけることは一度もなかった。既に降園時間は過ぎたという。保育室の中に貼り出されたたくさんの絵が、普段の園の賑わいをアピールしていた。
「でも、意味や由来はそれほど重要ではない、と私は考えています。大切なのはその日をどう迎え、どう過ごすか。一年を振り返るにはいいタイミングですし、どんな年だったか、子供たちには自分の頭で考えられるようになってほしいです」
「自分の頭で?」
「はい。そこで『いい子にしていたか』なんです。『いい子にしていたらサンタさんがプレゼントをくれる』が子供たちの共通認識なので、この時期はみんなそれを意識します」
 建物の最奥に遊戯室があった。もちろん今日の段階ではクリスマスの準備など何一つされていない。保育室の何倍も広い空間に声がよく響いた。
「いい子って何なのか。自分はいい子でいたと思うのはどんなときか。子供たちに毎年さりげなく聞いているんですけど、いつも本当にいろいろな答えが出てくるんですよ」
 弾む声に誘われ、ウィルは隣に立つ先輩天使の横顔に目を向けた。
 見たことのない花が咲いていた。
「……どうしました?」
 鼻先で小さく手を振られて、現実を思い出してからも、ウィルの心には未知の感情の破片が残った。自分が知らない視点、持たない発想にもう少しで手が届きそうだった。そんな感触がまだ続いている。
 彼はさらなる手がかりが欲しくなった。
 考えなくても言葉が思い浮かび、それを口から発していた。
「もっと詳しく教えてください。そのサンタという人物のことを」
「えっ? ……はい、分かりました」
 ひなぎくは両の手のひらを半分だけ合わせながらしばし考え、それから一度だけ手を打ち鳴らした。
「子供たちが読んでいる絵本でよければ、置いてある場所へ案内します。たくさん予習していってください」
 園児と同じ目線に立って学ぶことにウィルは抵抗を感じなかった。絵本があるという保育室に誘導される間、直前の彼女に関して掴み損ねた何かの感覚を推測することで、既に頭がいっぱいになっていた。