[ Chapter12「Vの悲劇」 - D ]

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 まとまった休息は弱っていた男を確かに回復させた。西原家の庭のプレハブ小屋に丸一日閉じこもり、翌日の深夜に庭へ出てきた篠原医師は、一見すると問題なさそうな顔色に戻っていた。
 彼はもう一眠りしてから早朝に職場へ向かい、夕方に美由樹へ電話をかけてきた。無断欠勤については軽めの処分で済んだらしい。そして彼は未解決事件の待つ家に帰らず、翌日以降もしばらく西原家の世話になることを望んだ。
「あの家はもともと薫(カオル)さんのものです。先日ご家族が上京されて、彼女のことはすべてお任せすることになりました。僕の居場所はもうありません」
 名指ししたのは事件の被害者となった彼の恋人のことだ。既に司法解剖が終わり、今夜にも家族とともに故郷へ帰るという。
「お医者様って本当に大変なお仕事なのねえ」
 その日の夕食の席で、美由樹は何度も同じことを口にした。出勤する時まで篠原は悲しい顔も疲労の余韻も見せなかったらしい。玄関で彼を見送ったときのこと、その気丈な様子を家族に語り聞かせたのだ。
 しかし、学校から帰った後に一度話を聞かされていたサイガは、繰り返される報告と感想を最初から聞き流していた。
(っつーか、本当に大丈夫なのか、あの人)
 器に盛られた肉じゃがに箸を伸ばしかけて、ふと手を止め、若干浮かせたままの右手首に視線を落とす。制服のシャツの長袖からわずかに絆創膏の先端がはみ出していた。
 篠原を連れ帰った夜、あのプレハブ小屋で、サイガは右腕を噛まれた。そして傷口からにじんだ血を吸い上げられた。突き立てられた犬歯の形も、皮膚に刺さる瞬間の感触も、ついさっきのことのように頭の中にまとわりついている。
 あのとき起きたことを、常識の範囲内で説明できる言葉が、見つからない。
(まあ、最近出会った奴らもだいたいアレだ……けど)
 信じがたい出来事の前例を探そうとしたら気が滅入りそうになった。サイガは考えること自体を中断し、箸を握り直した。
 その直後、遠くで門扉の開く音がした。
「あら、帰ってきたみたい。よかった」
 美由樹がいそいそと出迎えに行き、少しして居間に戻ってきた。一緒に現れたのはやはり篠原だった。言われるままちゃぶ台の前に座った客人は多少疲れた顔をしていたが、最初の夜ほど酷くはなかった。
 ところが、彼の青白い手は用意された茶碗に触れる前に、携帯電話の着信音に反応して背広の中へ潜り込んだ。
「すみません、どうぞ皆さんは召し上がっていてください。……もしもし?」
 篠原は席を立って居間の片隅に退き、西原家の人々に背を向けて通話を始めた。しかしそれも長くは続かなかった。急速に言葉を失ったかと思えばやがて動きも止め、ついには携帯電話を手から落としたのだ。
 その様子を見た一家が戸惑う中、サイガは家族の誰とも違う声をかすかに聞き取った。篠原の足下をよく見ると、畳の上に転がった携帯電話の画面が光り続けていた。
 まだ通話が切れていない。
 サイガは箸を置き、膝立ちで移動して携帯電話を拾った。その眼前で持ち主の影が大きく揺れた。
「……薫さん……」
 蚊の鳴くような声を一言残し、篠原医師はその場に倒れた。
『あれ? もしもし? 篠原さん話聞いてます?』
「もしもし。先生ならたった今気絶しましたけど」
『ええっ!?』

 翌日の夜。
 西原家の前に一台のタクシーが止まっている。その脇にはふらつく足で後部座席に乗り込む篠原と、その背後から肩を支えるサイガ、二人を不安そうに見守る美由樹がいた。
「先生、やっぱり無茶はなさらない方が……」
「奥様のご心配には及びません。……運転手さん、西東京警察署までお願いします」
 篠原をノックアウトした電話は、彼の恋人の家で起きた事件を担当する刑事からの呼び出しだった。問題はその理由。発信者は途中から代わりに応対したサイガに一通り状況を聞いた後、逆に用件を尋ねられ、一呼吸置いてからこう答えていた。
『実はですね。高峯(タカミネ)薫さんのご遺体が、何者かに盗まれたようです』
 サイガは最近テレビや教室で耳にした話を思い出した。
 先週以降、都内の寺や葬儀場などから遺体が持ち去られる怪事件が相次いでいるという。目的も手口も不明。捜査状況はあまり報道されていないが、級友の家の近くでも被害が出ているらしい。
 警察としては関係者の事情聴取をしたかったようだが、気を失った人を無理に引っ張り出すほどではないらしく、折り返しの連絡を求めて通話は終わった。当の篠原は意識を取り戻した後、自ら署に出向くと言い出したが、せめて明日にと西原家総出で止められた。
 そして翌日、彼は美由樹が手配したタクシーで出かけようとしていた。ところが。
「え、サイガも乗るの?」
「先生こんな状態だろ。着いた後どうすんだよ」
 自分の足で乗車できない人には介助役が要る、というのはその場でひらめいた言い訳だ。サイガは篠原を座席の右側へ追いやるようにして一緒に乗り込み、「それもそうね」とうなずく母親に見送られながら、自動式のドアが閉まるときを待った。
 そして二人を乗せたタクシーが走り出してから、サイガは左手を篠原の前に掲げた。
「いつまで俺の手握ってるつもりですか先生」
「……ああ、すみません」
 ようやく篠原が顔を上げ、はっとした様子で手を引っ込めた。彼は家を出る際に肩を借りてからずっと、おそらくは無意識に、サイガの左手首を強く握っていたのだった。解放された手首には、綺麗に手入れされた爪の食い込んだ跡が複数残っていた。
 それからしばらく、冬の夜道を進む車の中では一切の会話がなかった。
 サイガは窓枠に寄りかかって頬杖をつき、住宅街の暗く味気ない夜景を眺めていた。日本でも近年はクリスマス前に住宅を電飾で彩るというが、この辺りにそんなしゃれた家はまだないようだった。
 やがてタクシーが市道に入り、車窓からの景色は幾分か明るくなった。交差点で折れて進行方向が変わると、低層のビル群の向こうに鉄道の高架が現れた。
「そういえば」
 高架下をくぐる直前、サイガは頬杖をやめて、右隣の同乗者に問いかけた。
「篠原先生、ひとつ聞きたいんですけど」
「どうぞ。私に答えられることでしたらお答えします」
「この前なんでこんなことしたんですか」
 右腕をまくって絆創膏付きの手首を突き出したサイガに、篠原は数秒口ごもってから、遠慮気味に質問を返した。
「え、あのとき、お話ししませんでしたか?」
「全然。ここにできた傷舐めてすぐ、満足そうな顔して寝てました」
 必要以上の街明かりに照らされた篠原の顔がいっそう白くなる。
「言われてみれば、そうかもしれない。……これは申し訳ないことをしました。あなたを傷つけるつもりはなかったのですが」
「謝るのは別にいいんで、教えてください。これが何なのか」
 縮こまる篠原に、サイガは畳み掛けるように問い直した。
 今度は無言が続いた。答えを待ちわびる視線を認識しつつも篠原は顔を伏せ、唇を震わせ、誰かの顔色をうかがうように正面を向いた。何度もサイガに送られる横目の視線は、ここでは言い出しにくい事情があると訴えているようだった。
 ところが篠原のためらいは思わぬ形で破り捨てられた。
『正直に話してやれ。この運転手は協力者だ、遠慮は無用』
 誰もいなかったはずの助手席に黒ずくめの歩兵が座っていた。
「ひっ、お前いつから」
 唐突な乱入に怯むサイガの隣で、篠原が深く息を吐いた。
「協力者でしたか。それなら確かに心配はいりませんね」
 サイガはとっさに構えた謎の迎撃ポーズのまま、時間をかけて状況を飲み込んだ。そして少し前の家庭内でのやりとりを振り返った。
 送迎車を呼ぶことになったとき、母親に個人タクシーの運転手の名刺を差し出したのは、桂ではなかったか。
(最初から知り合いに指名入るように仕込んでたのかアレは!)
 睨まれたことに気づいているのかいないのか、いつものように武装したサリエルは後部座席を見ようともしない。ただ今回もマスクだけは外しているようだった。
 サイガの威嚇が空振りする間に篠原が姿勢を正し、上半身を隣席へ向けた。衣擦れの音に気づいたサイガが顔を合わせると、渦中の人物は静かに語り出した。
「先日のことは、あのとき、あの場面だけの話ではありません。それこそあのひとと知り合う以前からずっとやってきたことです」
「えっ……」
「私には、生きている人の血が必要なのです。人らしい理性を保つために」