タクシーが陸橋の下をくぐった。
一瞬だけ暗くなった車内が再び街灯の光に照らされたとき、篠原の眠たげな目に、常人には考えられない色味が宿っていた。
「今あなたが見ている私は、血液を介して他者の生命力を分けてもらうことで、かろうじてこの世界に存在している身。俗に言う、吸血鬼です」
今回はサイガでも知っている単語が出てきた。
知っているから、すぐイメージが頭に浮かんだからこそ、聞き手の理解は追いつかない。
「え、じゃ、先生……俺は」
ひょっとして、の先をサイガは言いよどんだ。
安直な連想だからこそ、信じられないし、肯定してほしくない。
しかし問いかけの一部が声になったために、篠原は重苦しく口を閉ざして続きを待った。そしてしばらく言い出されないでいると、悲しげに口角を下げた。
「心配になりますよね。その傷のこと」
「そりゃ……」
「全然」
反応を打ち消した声の主はサイガでも歩兵でもなかった。
次なる乱入は後部座席の真後ろから流れ込んできた。しかし話していた二人がそちらを向いても、手荷物を置ける狭いスペースがあるだけだった。
首をかしげつつ振り向くのをやめたサイガは直後に目を疑った。
彼と篠原との間、横長の座席のど真ん中に、灰色の髪の少女が座っていた。
「ちょっと噛まれた程度で吸血体質がうつることはないでしょう? ドクター」
「あ、アッシュ!?」
黒のブレザー姿の死神はさらりと指摘してから、サイガが差し出していた右手首を雑に払いのけた。氷の塊で殴られたような感触に驚いたサイガはすぐに手を引っ込めた。
「傷跡も残らないでしょうし、安心して放っておきなさい。それよりも」
段差を乗り越えた車が大きく揺れた。
サイガと篠原は軽くよろけたが、アッシュの姿は全く揺れなかった。シートベルトを着用していないのにどうして彼女は揺れないのか、サイガには少しも分からなかった。
そのアッシュの目当ては助手席にあるらしい。懐に何かを構えながら身を乗り出した。
「新たな悪事に何も知らない人間を巻き込むなんて。あなた何を考えているの?」
『今の発言は重大な誤解に基づくものだ』
どこかうんざりした声で返答があった。
「状況も証言も揃っているの。あなたには動機と手段がある、そして今こうして現場へ向かっている。それでもまだとぼけるつもり? あなたはこの地域の死者たちを」
『発言を撤回しろ』
「どうして」
『我輩を遺体盗難の首謀者とする仮定は事実に反する。状況と証言? 成程、証拠は無いようだな。もしこれを使って何らかの行動を目論んだと考えたならば、それもまた筋違いだ』
サリエルが反論の途中で後部座席を見るように首を回した。
これ、という指示語を聞いたサイガは自分のことだと直感した。本当にそうなら聞き捨てならない。反論に割り込もうとして、アッシュの勢いに先を越された。
「でも事件には関与しているじゃない」
『それにも誤解がある』
投げ返される言葉の一つ一つが邪魔者を威圧している。サイガの座る位置から見えるミラーに声の主は映らないが、恐ろしい形相がそこにあるように思えてならなかった。
「あなたはそう言うのね。分かった」
アッシュは威圧に全く怯まなかった。そればかりか、手にした道具をブレザーの袖の中へしまいながら、サイガの方を見てこう尋ねた。
「で、あなたはここで何をさせられていたの」
「えっ俺は、その、何だ。付き添い?」
問われたサイガは篠原へ目配せをしたが、相手は既に目をそらし、力なくシートにもたれていた。助け船を逃して落胆する顔を死神が覗き込んできた。
「死者たちの肉体が隠された件については……一応知ってはいるみたいね」
「は?」
「連続遺体盗難事件。サリエルも今言っていたでしょ?」
「あーそれか、ああ、篠原先生の恋人が巻き込まれたって話は昨日聞いた」
「ありがとう」
アッシュは短い一言で証言を打ち切らせた。そして改めて助手席の方を見据えた。
「時間もないし、隠し場所を探した方が早そうね。いい? もしさっきの発言が嘘で、あなたがこの件に関わっているのなら、必ず証拠が出るから覚悟していなさい」
強い敵意を前面に押し出した宣言の直後、死神の姿はろうそくの火のように揺らぎ、消えてしまった。サイガの目には追えない一瞬の変化だった。
発言者のいなくなった車内に重苦しい空気が満ちた。
篠原は口をわずかに開けてぼんやりしている。
運転手は職務に専念している。
サリエルは背筋を伸ばして座ったまま、ゆっくりと振り返った。
『事情を何一つ飲み込めていない顔をしている。少しは取り繕ったらどうだ』
「うるせえ」
言い返す過程で肩の力が抜けたサイガは軽く腰を浮かせ、座り直した。
「今、嘘だったらどうのこうのって言われてた、その話だよな? まさかお前、昨日の電話かかってきたあたりから仕込みを」
『言っておくが、貴様が勝手に応対した電話の相手は本物だ』
歩兵の声は狭い空間の中で、他の音とは違った響き方をしていた。
サイガにはそんな風に聞こえた。
『少なくとも高峯薫の一件に於いて、官憲は篠原皓一カを容疑者の一人と目している。「葬儀への出席を断られた婚約者」。穏やかでない事情が一つ在れば、亡骸を盗み出すという行動への道筋は描き出せるものだ』
後部座席の隅で息を呑む音がした。
「でも、篠原先生にそんなことできるわけねえよ。こんな弱ってんのに」
『真の実行者なら既に見当がついている。奪うだけの相手ならば、成すべきは唯一つ』
タクシーが徐々に速度を落とし、左折して車道を外れた。
顔を上げたサイガの目に入ったのは、広いスペースに整然と駐車された何台もの車だった。様々な車種が並ぶ前を背広姿の男が横切っていく。その行き先を視線で追いかけると、建物の入口で警戒に当たる警察官を見つけ出した。
そこは西東京警察署の正面玄関だった。
「着いた。……先生」
「分かっています。運転手さん、しばらくここでお待ちいただけますか」
後部座席左側のドアが運転手の手元の操作で開いた。まずサイガが降り、支える態勢を作ってから、篠原の降車に手を貸した。
二人が肩を組んで立ち、タクシーが自動ドアを閉めたとき、重装備の歩兵も既に車外へ移動していた。助手席のドアが開く音など一度もしなかったが。
「サイガくん、ここまでお手伝いありがとうございます。そこの中へ入るまでで結構です。後のことはこちらでなんとかしますので、あなたは先にお帰りください」
「え、じゃあ、先生は」
篠原の青白い顔からわずかに残っていた表情が消えた。
その意味するところが言葉になる前に、弾む声が二人の間に割って入った。
「やぁん、さっちゃん! それにセンセもひさしぶり〜!」
別の車の陰から祐子が姿を現し、二人に駆け寄ってきた。
サイガは可能な限り速やかに帰る決意を固めた。
「ふふ。なんでお前がここにいるんだ、って思ってるでしょ」
祐子は何故か二人の前に立ちはだかり、得意げに笑った。
「薫さんはね、うちの店の常連で、私とも結構仲良かったのよ? ホントは店長のお客さんだけど」
一つの単語がサイガの脳裏に先月の出来事の記憶を描いた。
しゃれた街の路地裏でヘアサロンを営む店長は、一度見たらしばらく忘れないほど派手な外見で、二度と忘れないほど気前のいい人だった。
一方、この数日でたびたび名前を聞いた薫という女性については、新聞で見た写真しか浮かばない。知らないことばかりなのが当たり前だが、こんなところでつながりが見つかったのは意外という他になかった。
「祐子さん……わざわざ、すみません」
「やだもうセンセったら、そんな暗い顔しないの」
伏せた目を前髪の影に沈める篠原に、祐子は口をとがらせながら顔を近づけた。上半身の動作が巻き髪と胸を揺らし、香水の匂いがサイガの鼻先に打ち寄せた。
「これから薫さんを助けに行くんでしょ? センセが落ち込んでちゃダメじゃない」
「それは……」 篠原が目を覚ましたように顔を上げた。
「はあ!?」 サイガは目を剥いて隣を見た。
「私はそう聞いたから、車飛ばしてここまで来たんだけど。違うの?」
祐子は対照的な表情の男たちを見比べ、可愛らしく首をかしげた。