[ Chapter12「Vの悲劇」 - F ]

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 タクシーの中で堕天使と死神が見えない火花を散らしていた頃。
 静かな住宅街の一角、野ばら幼稚園に近い路上を、ウィルとひなぎくは並んで歩いていた。
 二人の間に会話はない。ひなぎくが両手で押している自転車だけが車輪の回転のたびにやかましく騒ぎ立てている。幼稚園を出てからしばらくは同僚たちの騒がしい声が背後についてきていたが、今はもう聞こえなくなっていた。
「こんな時間まで付き合わせてしまってすみません」
「それは俺に謝る内容ではないと思います」
 横断歩道の手前で二人はようやく言葉を交わした。
 接近する車はない。それでもボタンを押された歩行者用信号は決められた時を数え始め、二人は律儀に青信号を待った。
「そうですか。ところで、今日ご覧いただいたものはいかがでしたか?」
 ひなぎくは話の途中で表情を引き締めた。
 ウィルは振り向いた。狭い道に沿って点在する明かりは見えるが、彼らが先ほどまでいた場所はもう判別できなかった。
「まだ、あの説明の意味を理解できていません」

 彼にとってはこの道のりも、直前までの出来事も、補習の一環に過ぎなかった。
 セラフィエル教官から具体的な指示は届いていない。クリスマス会を手伝うことが決まった日、報告に対して《先輩の仕事をよく見てくるように》と返答されただけだ。訓練生はそれを新たなヒントと解釈した。
 具体的な指示は日を改め、電子メールという形で院長の元に届いた。次回の呼び出しに真昼を指定されたウィルは、ひなぎく先生が園庭で子供たちと遊ぶ様子を、そして保護者が子供を迎えに来る姿を塀の陰に隠れて観察した。
 市井の人々を支える守護天使の職場見学として。
 サンタ役を演じるに当たっての事前調査として。
「お待たせしてしまってすみません。クリスマス会の前に子供たちが“サンタさん”に会ってしまうと、後でいろいろ大変なので」
 園児が一人残らず帰ってから、ウィルはようやく園内へ招かれた。職員室ではなく保育室の一つに通された彼を待ち受けていたのは、クリスマス会の装飾制作という作業と、それを既に始めている重孝だった。
 野ばら幼稚園の卒業生だという重孝に教わる形で、ウィルも輪飾りの量産に従事した。しばらくは口数が極端に少ない同居人と二人きり、静かな部屋で顔をつきあわせ、折り紙を短冊形に切ってはつなぎ続けた。
 そこへ事務作業に一区切りつけた教職員たちが加わると、室内は一転して賑やかになった。重孝が自ら手伝いを志願したことが話題の中心になる傍らで、ひなぎくはウィルにこうささやきかけた。
「私の仕事は、子供たちが心の中に柱を立てる、そのお手伝いをすることです」
「柱?」
「はい。生きていく中で困難に出会ったとき、心を支える力、よりどころになるものです。それは他者との関わりを通じて作られるものですから、少しでも良いものを材料にしてもらえるよう、いろいろと工夫しています」
 その言葉は口と耳を介して届いた。今の話は彼女にとって教師としての信念なのか、天使としての使命なのか、ウィルには判別できなかった。しかし重孝が前髪の奥に隠した目でじっとこちらを見ているような気がして、質問を口に出せなかった。

「重孝くんたちのこと、心配ですか?」
 至近距離で声を掛けられたウィルは振り向くのをやめた。
 正面の歩行者用信号は既に青へ変わっていた。手押しで進む自転車に会わせて横断歩道を渡りながら、彼は視線だけをもう一度後方へ流した。
 他の教職員たちの家路に付き添って行った重孝が、夜空の下のどこかにいる。
「……いえ」
 最近この地域のメディアを騒がせた事件が二つある。その一つが帰宅直後の女性を襲った悲劇であり、犯人は未だ捕まっていない。
 冬の夜道に物騒な気配。そしてひなぎく先生の家は他の同僚たちの住む地区から離れているという。一人きりの帰り道は心配だからとしきりに言われ、ウィルが家まで付き添うことになったが、その勧めが建前だということは二人とも察していた。
 二人は互いの関係がどう邪推されようと構わなかった。人間の目がないのは好都合だ。
「さっきの話ですけど、あの説明って、私の仕事のことですよね」
 ひなぎくが薄く笑った。自転車のハンドルに取り付けられたサイドミラーを介して、ウィルと目が合った。
「以前ここへ実習に来た訓練生にはこう言われました。この世界には人間だけでもこれだけの数が生息しているのに、どうしてたかだか十数人の子供を世話することが仕事になるのか、と」
 大きく見開かれた青い目がサイドミラーに映った。
 提示された疑問はウィルが考えつきもしなかった発想で、しかし言われてみると気になる話だった。その十数人の相手をする現場を目の当たりにした今も、訓練を通して認識してきた守護天使の役割と、彼女の「仕事」が結びつかない。
 しかし当人は意見も反応も求めず、あっさりと解答を語り始めた。
「守護天使(ガーディアン)という肩書きの印象とは確かに合わないかもしれません、けど、これでいいんです。どんなに厳重に守ろうとしても、まず皆さんが自分の力でしっかり立っていなければ意味がありません。特に人間は簡単に惑わされてしまうから」
 自転車のヘッドライトがすれ違う人を照らした。輪郭と影が足早に通り過ぎた後、夜の空気がしんと静まった。
「人間は人間の影響を一番強く受けます。だから私達は周りに良い影響を与えられる人、誰かをしっかりと支えられる人を、育てる必要があるのです。この世界のために」
「では、育てるというのは」
 ウィルはもう一言、踏み込むつもりだった。
 しかし一筋の光がそれを遮った。青白い線にも見えたものはすぐに消え去ったが、程なく二人の行く手に再び現れた。
 曲がり角の手前に立てられた電柱の上で、小さな炎が燃えていた。
「……火?」
「あれは“死神の足跡”ですね」
 ひなぎくが立ち止まると同時に自転車のブレーキをかけた。
 風のない道ばたで、二人は巨大なろうそくと化した電柱を見上げた。
「死神たちが行方知れずの魂を捜すとき、連絡を取り合うのに使うことがあるそうです。もちろん普通の人間たちの目には見えません」
「それはつまり、この近くにそういった魂がいる、と?」
「そこまでは分かりません」
 先輩が振り向き、後輩の視界に差し出した右手で下を指さした。そして視線がついてきたことを確認すると、自転車の後輪についた細い荷台を撫で、小声で「ここを支えていただけますか」と付け加えた。
 言われるままウィルが荷台のフレームを握った直後、また自転車が進み出した。同時に彼は車体と腕を通して流れる「言葉」を受け取った。
『ただ、捜索の対象には心当たりがあります』
 発声器官を使わず魂の震えを直接通わせる。二人が初めて出会ったときに直接触れて行われたことが、道具を介した形でもう一度展開されていた。
『多分あなたにまでは伝えられていないと思いますが、私達には何日か前に通達がありました。最近発生した連続遺体盗難事件について、冥府が調査に乗り出しているので、有力情報があれば警察ではなく冥府へ知らせてくださいと』
 確かに教官からの連絡にはない話題だった。しかしウィルが知っていることもあった。
 この地域を騒がせているもう一つの事件。荼毘に付される前の遺体を棺から持ち出した窃盗犯も依然として逃亡中。手口も目的も掴めない奇怪な犯行に人々はひどく怯えているらしい。
『でも、盗まれたのは遺体、つまり肉体だと聞きましたが』
『奪われたのは肉体だけではない、ということです』
 悲しみに曇る茶色の目がサイドミラーに映った。
 ウィルは自転車に手を引かれて歩きながら、周辺の電柱を一つずつ確かめた。同じような火は見つからなかった。
 ふと、以前に一度だけ出会った現役の死神を思い出した。黒の礼服を着たあの少女も、今頃この近辺のどこかを飛び回っているのだろうか。
『死神の方々は死者の魂を守るのが仕事。私達は生きている命を守るのが仕事。この世界に遣わされた者同士、時には協力することもあります。私の仲間も今夜は応援にかり出されているかもしれません』
 角を曲がった自転車が段差を乗り越えた。
 揺れの衝撃に混じって、声にならない思いが車体から手のひらに流れ込んできた。笑顔を失わせる感情に触れたウィルはとっさに手を離してしまった。