[ Chapter13「逃げるは楽だが苦にもなる」 - G ]

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 篠原が警察の事情聴取を受けて西原家に戻ったとき、既に日付は変わり、家中が寝静まっていた。
 彼の帰りを待っていた家人たちは――共に出かけて一足先に帰っていたサイガでさえ――彼が密かに荷物をまとめて去ったことに翌朝まで気づかなかった。
《さらなるご迷惑をおかけすることになりそうなので、友人の家に移ることにしました。短い間でしたがお世話になりました》
 丁寧な置き手紙に綴られた「迷惑」の意味は数日後に判明した。
 彼が姿を消した日、各メディアは朝から連続遺体盗難事件の犯人逮捕を報じた。それから半日おきに続報が伝えられる中、その映像の中心に篠原医師が突然登場したのだ。彼は被害者たちの関係者の代表として、K大付属病院の前で報道陣に囲まれ、矢継ぎ早の質問に答えていた。
「先生はきっと、マスコミが自分のところに来るって分かったから、急いで戻ったのね」
 一連の事件は無名の新興宗教団体の犯行だった。警察が行方不明だった遺体を発見し、その場にいた信者たちを逮捕したという。彼らは「蘇生させる儀式を行っていた」と供述し、確かに成功していたとも主張したらしい。団体の拠点として紹介されていたのはあの古い集合住宅の一室だった。
 そしてさらに数日後、テレビ局や週刊誌が第一報と同じぐらいの時間や紙面を割いて、その解決までの経緯を報じた。被害者の恋人が独自に手がかりを掴み、現場に踏み込んでから通報するという流れは、二時間ドラマのあらすじのようだった。
「これ、ちょっとできすぎてねーか?」
 夕食を終えてニュース番組を眺めていたサイガは率直な感想を口にして、それからちゃぶ台の反対側に顔を向けた。そこには退屈そうにテレビを見つめる桂の姿があった。
「お前何か知ってる?」
『人間は美談を与えると簡単に飛びつく』
 幼児の代わりに重たく響く声が答えた。
『言っておくが、報じられている話の七割は事実だ。動機が狂信であること、実行犯は上の指示に従ったに過ぎないこと、中心人物を取り押さえたのが篠原皓一カ自身であったこと。流してやった話には多少の脚色も加えているが、わざわざその真偽を問う者は居るまい』
「ちょっと意味分かんない……ま、まあその辺はどうでもいいんだけど」
 サイガは話しながら、桂の背後を横切る祖父に気づき、慌てて声を小さくした。幸い孫と何者かの会話に反応する様子は見られなかった。
「それより俺があのとき見たアレは何だったんだ」
『歩く屍のことか。あるいは貴様を一度は捕らえた者達か』
 頭の中だけで語り続けるような声が一段とトーンを低くし、サイガを身震いさせた。皮膚に残るいくつもの青アザが鈍い痛みで追い打ちをかけてくる。
『あれらの正体は供述通りであり、貴様の想像通りの筋書きこそが現実だ。考えの浅い人間が秘術に手を出し、中途半端に成功した。恐らく何者かが裏から手を貸していたのだろう』
「マジかよ。じゃあ、俺が逃げたとき、追っかけてきたのは」
『あれは死んでいない人間だ。貴様の命に価値があるとだけ聞いて欲に駆られていた』
 一人の男の教えに心酔した信者たち。テレビから流れる誰かの言葉が、姿の見えない解説者の声に挟まってサイガに届いた。
 思えば、声を上げながら追ってきた男たちは普通の人間らしく走っていた。
 そして普通の人間らしく、何かうまい話に目がくらんだのか。
「だったら……もし俺があのとき、最初からお前の言うこと聞いてたら?」
『いずれ犯人は特定されただろう。あの集団は自分たちが“蘇らせた”と思い込んでいる屍を近い時期に街へ解き放つ心算だった。貴様が以前に観たという映画のように』
「うわ、想像したくねーな。っつーかその情報はどっから」
『今回は己の幸運に感謝することだ。一つでも誤算や失敗があったなら貴様は間違いなく殺され、その肉体は動く屍に成り果て』
「ストップ、もういい、余計なこと聞かないからもうやめてくれ」
 サイガが両手を合わせて弟に頭を下げると、重圧を感じさせる声はたちまち消えた。
 変わらずそこにいる桂が小さな口で大きなあくびをした。それを見たサイガもつられそうになり、慌てて口を片手でふさいだ。
(そういや、あのコートいつ返しに行こう……見舞いじゃない日に予定空けて行くか……)
 古いブラウン管の画面には、高峯薫を襲った男が逮捕されたことを知らせるテロップが映し出されていた。


 野ばら幼稚園のクリスマス会は予定通りに開催された。
 園で最も広い遊戯室に集められた子供たちが、職員の伴奏に合わせて歌っている。幼児特有の元気いっぱいだが調子外れの歌は、隣の小部屋で椅子に座って出番を待つウィルにも少しだけ聞こえていた。
「緊張してますか?」
 次の出し物の準備をしていたひなぎくがウィルに気づき、近づいて声を掛けてきた。今日も彼女は名札付きのエプロンを身につけ、「先生」の役割に従事していた。
「……いいえ」
 ウィルの控えめな返答は、口を包むように装着された作り物の白ヒゲに阻まれ、相手に届いてくれなかった。
 保護者や教職員が出入りを繰り返すこの部屋で、サンタクロースの衣装を着た彼だけがじっと座っている。その出番はもう少し後。教職員以外には正体を伏せるとの園長の方針から、最初からフル装備に等しい状態で待機させられていた。
 彼の前をせわしなく行き交う女性たちは一様に普段着で、大半は動物を模したキャラクターのぬいぐるみを脇に抱えていた。
「保護者の皆さん、そろそろお歌が終わりますので、こちらにお集まりください」
 ひなぎくに先導される形で保護者たちが通路へ出て行った。前後して隣の部屋のドアも開いたらしく、大勢の拍手が壁越しでない音として小部屋にも届いた。
 園児の保護者による人形劇が始まると、直前まで歌の伴奏をしていた職員たちが楽器を置きに小部屋へ入ってきた。彼らは他にも仕事があるのかすぐ退出し、道具だらけの狭い空間にウィルだけが残された。
 台詞を読み上げる誰かの声が壁越しに聞こえてくる。
 ウィルはその言い回しに覚えがあることに気づいた。雪遊びに興じる動物たちを描いた場面、それは彼が以前「予習」として読んだ絵本の内容そのままだった。
(この国においてサンタクロースとはどんな存在で、子供たちが俺に何を期待しているのか、結局よく分からなかった)
 柳院長にこの日の「お手伝い」を頼まれて以来、ウィルは様々な本を通して、また人々からヒントをもらって、配役に見合う立ち居振る舞いを覚えた。しかし初めて衣装を着た日から気になっている違和感については全く解決しなかった。
 ここに答えをくれる人はいない。
 白い日記帳には尋ねてみたが、教官は何も教えてくれなかった。
(俺は今やれることをやるしかない)
 漏れ聞こえる言葉から劇の進行状況を把握し、若いサンタクロースは立ち上がった。
 隣の大部屋から戻ってきたひなぎくがドアの外にいる。ガラス越しに目が合うと微笑んでくれた。
 以前その笑みを見たとき抱いた感情についても、彼は答えを見つけられていない。
「もうすぐですよって呼びに来たんですけど、やる気満々ですね」
「そういうわけではありません」
「ふふ、分かりました。では準備をお願いします」
 ウィルは着衣に乱れがないことを確かめ、傍らの箱の上に置いていた手袋をはめた。壁に立てかけられた鏡の中に診療所の雑用係の面影はなかった。
 次いでサンタクロースの持ち物、すなわち大きな白い袋を両手に持った。ぎっしり詰め込まれた中身がガサガサと音を立てた。今年のプレゼントはお菓子の詰め合わせ。異国の言葉が並ぶ包みばかりをビニール袋にまとめたものが、園児の数よりも多く入っているらしい。
「いいですか、何を言われても優しく応じてくださいね」
「分かっています」
「もし無茶振りをされて困ったら、近くの先生にアイコンタクトで知らせてください」
「……はい」
 プレゼントが障害物にぶつからないよう、二人がかりで慎重に袋を運び出した。ちょうど人形劇が幕を下ろしたところで、出番を終えた保護者たちが拍手を背に退室し、二人には目もくれず小部屋へなだれ込んでいった。
「さて、今日はこれだけじゃないんですよ。どうぶつたちにプレゼントをくれた、あのサンタさんが、みんなのところにも来てくれるんだって!」
 進行役の教員の呼びかけと、小部屋に充満した雑談が、諸々の疑問を束の間忘れさせる。
 ウィルは顔を覆う白ヒゲの位置を少しだけ直し、袋を一人で持ってから、ゆっくりと肩に担いだ。
「じゃあみんな、『せーの』で呼んでみましょうか。……せーの、」