[ Chapter14「樅の木は見ていた」 - D ]

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「そういえば、さっきの停電の後、『助けて』と言いませんでしたか?」
 ラウンジから引き返して大浴場の前を通った折に、まりあが突然そんなことを言い出した。ただ思い出したことを口にしただけとも取れる軽い語調だった。
 しかしサイガは何故か打ちのめされたような印象を抱いた。動かざる証拠を突きつけられた被告人のような気分で、どう答えたら無難に切り抜けられるか、といったことばかり考え続けた。
(助けて、ねえ。なんでこのタイミングでそんなこと?)
 道行く人は誰もサイガと目を合わさない。
 すれ違うごとに肩が重なり、羽織が被さり、時には股の間を突っ切られる。
 隣を歩く級友だけが、ごく真面目な顔で返答を待っている。
『……さあ、わかんねーな』
 サイガは弱々しく一言だけを返し、それ以上聞かれないことを願った。
(雨宮には悪いけど、本当は、あるんだ。心当たり)

 彼らの冬山旅行の計画は二学期の半ばに始まった。しかし昼間に池幡がまりあへ語ったとおり、サイガは当初参加を危ぶまれていた。
 サイガ自身は最初から行く気しかなかった。別の高校へ進学した友達との約束だったし、部活の日がほとんどない冬休みはどうせなら遊びたい。それに年末年始は口うるさい親戚たちが代わる代わる上京するので、家にいない日が欲しかったのだ。
 が、浮かれた目論見は早々に冷や水を浴びせられた。
『旅行。この状況で。熊の口へ飛び込みにでも行くつもりか?』
 そう言って旅行代理店のチラシを奪い取った桂、もといサリエルは、「それ死ぬから」と反論しかけたサイガの首輪をきつく締め上げた。そして降参を聞き入れた後、今度は言葉を使って下僕の心を突き刺した。
『先日の文化祭での一件を早くも忘れているようだが』
「忘れてません、いや本当思い出したくないだけで忘れてはいませんマジで」
『今の貴様が不測の事態、特に同行する友人の危機に直面した際、冷静な判断を下せるとはとても思えない』
 サイガは言い返したかったが何も浮かばず、口を開けたところで固まった。
『しかもこの内容では貴様が加害者となる余地さえ存在する。雪上の事故など珍しくもない。その引き金を貴様が引いたとして、己の力のみで全責任を負えるのか。友人が過ちを犯したとして、適切な対処が出来るとその口で言えるのか?』
 開いた口をどうすればいいかも見失った。
 責任問題について子供ができることには限界がある。だから問題を起こせばたいていは親が引っ張り出されるし、それを先延ばしにする工作は余計な面倒ごとを連れてくる。サイガは経験からそれらを心得ていた。
 しかし、痛いところを突かれたからといって簡単にあきらめがつくはずもない。そこでサイガは旅行計画の仲間に声をかけ、“家族の懸念”を覆す一手を半月かけて見つけ出した。
『柏木亮が同行を承諾したそうだな』
 サイガの反撃を知ったサリエルは、黒のマスクとヘルメットを着けていても分かる苦い顔で、こんな宣告をしてきた。
『そこまで言うならどこへでも行くがいい。ただし旅の間は決して単独行動をしてはならない。無様な死に方をしたくなければ、何があっても仲間の側を離れるな』
 それからふた月あまり。サイガと桂の同居が続いたまま、いくつかの事件を経て年が明け、スノボ旅行当日がやってきた。
 年末に篠原先生の件でさんざん肝を冷やしたサイガは、出発前に改めて言われた「条件」を忠実に守った。事情を知る柏木からはいろいろと協力を得られた。ゲレンデでは常に友人たちと何かを競ったので一人になる暇がなく、また幸い誰も事故を起こさなかった。
 そして日没前に戻ったホテルでも、サイガは常に仲間の近くにいた。雪がちらつき始めた露天風呂を楽しんだ後、客室に戻ろうとした際は、旅のメンバー全員で同じエレベーターに乗ったはずだった。
 確かに友人も保護者も一緒にいたのだ。少なくともエレベーターを降りたときは。
 廊下の照明が一斉に消える、その直前までは。
「ぎゃあ、なんかいきなり真っ暗!?」
「停電かな」
 立ち止まる気配を感じた。騒がしい声がすぐ近くから聞こえた。
 誰かの手が口を塞いできた。
 たちの悪いイタズラを振り払おうとした瞬間、サイガを取り巻くあらゆる音が、ねじれた。
 不快なゆがみと耳障りな反響に身じろいだのも束の間。身体を後ろへ引き倒され、その勢いで両足が宙に浮いたかと思えば、柔らかい障害物の上に放り出されていた。
(なっ、何だこれ、ここ廊下……じゃねーな絶対!?)
 布の層の下に感じたスプリングのきしみがサイガの混乱に拍車を掛けた。
 廊下で投げ飛ばされてこうなるはずはない。不協和音に惑わされる間に近くの客室へと連れ込まれたのか。メンバーが泊まる部屋に洋風のベッドはなかったから、そこでないことだけは確かだったが、ではどこへ。いつの間に。どうやって。
 幸いその空間には窓があるらしい。分厚いカーテンの隙間から漏れて見える白色は雪明かりだったのか。わずかな光が暗闇の中に大柄な男の輪郭を与えていた。
「やっと邪魔者がいなくなった」
 鼻につく声は聞き覚えのないものだった。
 その手には光沢のあるものが握られていた。
「ただの人間、しかも平民のくせに、まるで貴族サマのように厳重な警備。馬鹿馬鹿しくて反吐も出ない。負け犬の悪あがきに付き合わされちゃって、ああ、かわいそうに」
 サイガは身体の自由がきくことに気づき、上半身を起こしながら後退した。しかしホテルのベッドの広さなどたかがしれている。すぐ後頭部を壁にぶつけてしまった。
「それも今日で終わりだけどな」
 男が身を乗り出してきた。
 光を鮮やかに反射する物体が振りかざされた瞬間、サイガは命に関わる危険を本能で察して横に転がった。わずかに遅れて強い衝撃がベッドに叩きつけられ、その揺れとスプリングの反発がサイガをベッドの外へ投げ飛ばした。
 カーペット敷きの床は体当たりには優しくなかった。肩を強く打ちつけても痛がる暇はない。素早く身を起こして逃げようとしたが、
「チッ、逃げんなこのガキ!」
 上から背中を蹴飛ばされ、まともに受け身もとれず前のめりに倒れた。今度は抵抗より追撃の方が早く、瞬く間にサイガは男に組み伏せられていた。
「怖いのか? すぐ楽にしてやるよ」
 首に何かを巻きつけられ、一気に締め上げられた。同種の苦痛はこの頃自宅で何度も味わっているが、両手が使えないパターンは初めてだった。
 苦しみのあまり何かを叫んだような。
 声すら出てこなかったような。
 苦悶が限界に達しかけたそのとき、全く突然に、床が抜けたような衝撃がサイガを包んだ。際限なく落ちていくように錯覚しながら彼の意識は遠のいた。

 エレベーターの自動扉が開くと、かごの奥の壁に貼られた鏡が宿泊客を映した。しかしそこにサイガの姿はない。まりあの鏡像の顔が引きつっていた。
 どう感じたとしても行くしかない。二人並んでエレベーターに乗った後、まりあが何か探すように振り返り、サイガに目配せをしてきた。視線は階床パネルを指していた。
『五階』
「あ、はい。すみません、押させてください」
 彼女が一緒に乗ってきた客の目を気にしていることにサイガが気づいたのは、目的のボタンを押しに行く挙動を見たときだった。パネルに手を伸ばすときも押せた後も、絶えず首や視線が左右に振れ、時折サイガをちらと見る。そういえば最初に声をかけたとき、肩が小さく跳ねていたような覚えがあった。
 しょうがない、とサイガは自分に言い聞かせた。
 見えないはずの、見えてはいけないはずのモノに出くわしたことは何度かある。もしそれが人前で起こっていたなら、ここまでおびえはしなくても、多少は周囲を気にしながら行動していただろう。
「す、すみません、降ります」
 上階へ行く客に開扉ボタンを押してもらいながら、まりあがかごを降りた。サイガも後に続いたが、途中で自動扉に挟まれかけたのにセンサーも人も反応しなかった。
 大浴場の入口手前で目を覚ましたときもそうだった。人は四方にいるのに誰も振り向かない。浴衣の袖が触れあっても反応がまるでない。誰にも姿が見えない、そもそも肉体を失ったらしいと悟ったとき、納得と同時に恐ろしさが倍増した。
 だからこそ、名前を呼ばれた瞬間にはいっそう驚いた。そしてすがりつくことを迷わず決めた。今のところ後悔する理由はまだない。
「あの、それで、エレベーターを降りた後はどちらに……?」
 同じ階で降りた客が先に行ってしまってから、まりあがおそるおそる尋ねてきた。
 しかしサイガが答えるより早く、示そうとした方向から人が現れた。
「えっ雨宮さん!? マジびびったわー」
 ホテルの浴衣を黒く汚した沼田がそこにいた。