[ Chapter20「気になる少年たちの事件簿」 - G ]

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 濃霧に包まれる夢を見た。
 夢ではないのかもしれなかった。

 サイガは当てもなく歩き続けていた。ここがどこなのか、そもそも道があるのかも確かめようがない。視線を落として自分の手足がそこにあることを、一歩踏みしめて地面がそこにあることを、ようやく認識できるだけだ。
 学校帰りだったことは覚えていて、実際に今は高校の制服を着ている。
 関わり合いになりたくない相手と出くわして逃げたような覚えがある。
 誰かに会いに行こうとしていたことをぼんやり覚えている。
 話し声を聞いた気がする。
 銃声を聞いた気がする。
 身動きがとれなくなっていたような記憶もあるが、とりあえず今は足を動かせている。だからというわけではないがとにかく前へと進んでいた。
 体が重い。
 耳鳴りがする。
 時々足がふらつく。
 本当に前へ進めているのかも怪しいが、他にできることを考えつかない。流されるままひたすら一歩を積み重ねていた。
 そのうち何も考えなくなっていた。
 何も見えなくなっていた。
 光も闇もなかった。
 ただ先へ。
 遠くへ。
 奥へ。


あのときどうして素直に毒を食わなかったんだ。
首絞めたらどんな顔するか見てみたかったなー。
まだ雪山で凍えて力尽きていた方がマシだったと思うがね。
たわけた真似を、いつかの奴さんが勝手に殴る手を止めたときのようだ。
地下深くに閉じ込めて出られない様子を鑑賞する計画はどうなったの。
がっかりさせるなよ、気絶と陥落の区別くらいつけろっての。
流行りのXX漬けにして遊んであげたかったのに。
やっぱり親と同じような丸焼けルートはナシかー。
苦しめるなら水中だろ、泳げると思ってた奴が溺れたときの絶望顔は最高だぜ。
仕方あるまい、こうなれば半端者もろとも突き落とすしかなかろう。
寝返ったフリして近づいてきっちり刺すって誰か言ってたけど。
予定では感電させるはずだったのに、なんで罠に気づかなかったんだろ。
ところでさっきの銃撃かばったの誰?


「お待ちなさい」
 覚えのある声がサイガの足を止めた。
 ひそひそ話を無数に集めたような雑音が瞬時に途切れた。
「あなたはまだその先へ行ってはいけない」
 四方に霧が立ちこめた状態に変わりはない。昼か夜かも分からない。
 しかし振り返った先に大きな変化があった。黒のブレザー姿の少女がサイガの真後ろに立ち、片手を伸ばして触れようとしていたところだった。
「アッシュ……」
「残念だけどあなたはやっぱり何も分かっていなかった。知らされなかった、意図的に隠されていたことももちろんあるけれど、それ以上にあなた自身が知ろうとしなかった」
 死神の顔は憂いに陰り、その目は怒りに燃えていた。
 何か良くないことが起きたとはサイガにも一目で理解できた。自分と関わりのある話だともすぐに察した。
 一方で彼はアッシュの表情を一瞬しか見なかった。彼女の灰色の髪がひどく汚れていることに気づくと、長い髪の流れる方向に視線を動かし、肩まで行き着いて息を呑んだ。
 ブレザーが肩口から胸にかけて盛大に裂けていた。
 中に着た白いブラウスも同じくらい破れ、色白の肌がところどころ黒く塗り潰されていた。
「お前、これ、めちゃくちゃ大ケガしてんじゃねえか!」
「見ないで」
 アッシュは破れた箇所を片腕で隠し、一歩前に出た。
 通常こういうブラウスの下には何があるか。サイガがそれに思い至ったのはきつい視線を浴びせられてからで、見てはいけないものを見た衝撃と興奮をそれ以上の恐ろしさが押し流した結果、黙って顔を横に向けた。
「それよりどういうこと」
 胸ぐらを捕まれた。
「話が違うじゃない!」
「違うって、何の話で」
「あなた言っていたでしょう、西原陽介の未練は草薙一真と再会して約束を果たすことだって。それだけだって」
 心を揺さぶられる名前が霧の中から記憶を引き出した。
 サイガは慎重に首の向きを戻した。アッシュは依然として、下手なことを言えば急所に一撃入れてきそうな目をしていた。
「その草薙一真が今日現れたの。陽介の前に。条件が揃ったと聞いて私がすることは一つ、すぐ魂の回収に向かった、そうしたら。そうしたらよ。陽介は私の顔を見て何て言ったと思う?」
 もちろんサイガに答えられるはずがない。
 アッシュも承知の上だろう。返答を待たずに続けた。
「こう言ったのよ。『ゴメン、やっぱりまだ逝けない』。しかも笑顔で! 自分の命だけじゃなく子供の人生までかかっている重要な取り決めを笑顔で反故にするなんてどこまで自分勝手な男なの!」
「マジかよ。そこまでどうしようもない奴だったのか」
「他人事みたいに言わないで」
 学ランの衿を引っ張る力が一段強まった。
「病院に行ったとき陽介の前にはカンバスがあった。絵筆があった。描きかけの絵があった。それからスケッチブックが、あなたの顔を描いたデッサンがあった。想像でも思い出でもない今のあなたを見て描いたとしか思えない絵が。これでもまだ何も知らないと言い張る?」
 サイガの口は一言も発せなかった。
 あの男が何を考えているかなど一秒たりとも考えたくない。しかし死神が具体的に述べたもの、とりわけスケッチブックについては心当たりを認めざるを得なかった。
 まさに契約終了の案件を聞き出した直後、呼び止める声を無視していれば。直接の対話などしていなければ。
「親の代わりに責任を果たせとは言わない。でも役割は果たしてもらうから」
 制服を掴む手が急に離れた。
 軽い動作で突き飛ばされたサイガは後ろに倒れかかった。とっさに受け身を取ろうとしたが、背中と尻への衝撃は予想より早くやってきた。
 しかも思ったより痛くない。
「……はい?」
 一歩先も見えない濃霧がきれいに晴れていた。
 サイガは布張りのソファに座り、ローテーブルを挟んだ向かいにアッシュが立っていた。見渡した部屋は広い。木材をふんだんに使った内装は観光地のログハウスのようだったが、窓は一つしかない上に厚いカーテンで覆われ、外の様子は見えなかった。
 気づくとそれまでサイガの足を鈍らせていた重い感覚が消えていた。
 その代わり、黒いチョーカーで押さえつけられている首へ、さらに金色の太い鎖を巻かれていた。
「どうせ声くらいは聞こえているんでしょう」
 鎖の先端をアッシュが握っている。
「よく聞きなさい、サリエル。あなたがあくまで陽介の要望を優先するようなので私も私の使命を優先しました。西原彩芽の魂は冥府渡航管理局が預かります。まだ所有権を主張するつもりなら陽介を出頭させなさい。以上」
 ローテーブルに叩きつけられた鎖が悲鳴に似た音を立てた。
 それを見たサイガは、どうしてか自分自身がそう扱われたように錯覚し、痛みと恐ろしさに震えた。しかし死神の発言の意味は、フルネームで名指しされたにもかかわらず、少しも理解できなかった。