[ Extra2「死神と猫」 - A「旅立つ前に」 ]

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 誰にとっても何事においても最初は等しく「未経験」だ。
 それは現世とも物質界とも呼ばれる領域に限らず、ここ冥府でも同じ。しばしば忘れがちという点も同じ。だから冥府の職員教育マニュアルでは教える側への指導として、新人に何かを初めて任せる際の注意点にいくらかページを割いていた。
 教えていないことを間違えても叱るな。
 教えていないことに出会ったときの対応は誤らせるな。
 項目を一通り読んだ私はついため息を漏らしていた。普段なら受け流せる言葉が今はとても重い。
「アッシュ。勉強中のところ申し訳ないけど、お呼び出しがかかったわ」
 同僚の声が悩みを中断させた。
 続けて告げられた名前が思考も止めた。


 生と死の狭間。命の環の始点で終点。天国への登山口にして地獄への誘導路。
 冥府の例え方は数あるけれど、その実態は死者を仕分けて
来世へ送り出す機関だ。今日も三途の川のほとりに築かれた要塞の中で、様々な部署が無数の魂を手分けしてさばき続けている。
 中でも私が属する渡航管理局が主に扱うのは、既に回収され処遇もほぼ決まった魂たち。年の節目の里帰り、一度は死を受け入れたが未練を捨てきれないなど、事情がある者を制限付きの現世旅行へ連れ出すという奇妙な部署だった。
 その日も渡航手続きの窓口には大勢の元人間が詰めかけていた。行列は絶えず動き、待合スペースはざわめき、入口では一匹の黒猫が来訪者の笑顔を誘っている。死者が多い日は他の部署にも人があふれるけれど、常に混雑しているのはここと冥府の正門ぐらいだ。
 職員たちが応対に追われる中、窓口の奥で緊張している者が一人だけいた。彼の名はデックス。渡航管理局で一番キャリアの浅い新人職員。私が初めて指導した後輩がこの日、ついに付き添いなしで渡航者を案内することになっていた。
「えーと、矢糧(やがて)さんのご要望は現世に残してきた奥様に会うこと。行き先は死亡時の住居ではなく本来のご自宅。呼出番号は……」
 私が目撃した限り、彼は規定通りの手順で支度を進め、待合スペースの片隅にいた男を準備室へ案内していた。声をかけられた相手は恐縮した様子で何度も頭を下げていた。
 出国ゲートを模した準備室では、事前審査の内容を元に出発前チェックが行われる。ここでも問題はなかったと私は後に聞かされた。
「最後にもう一度確認します。生前のお名前をフルネームで」
「矢糧高成(たかなり)です」
「ありがとうございます。こちらが冥府発行の一時渡航者証明、パスポートです。現世滞在中は常にお持ちください。決してなくしたり、捨てたり、私達死神以外の誰かに見せたりなさいませんようにお願いします」
 現世に出て魂の護送に携わる冥府職員は伝統的に死神と呼ばれる。渡航管理局の送迎担当者も定義には当てはまるので、一応そう呼ばれている。
 その死神が渡したパスポートは現世の形式にならった冊子型で、表紙には鬼火と天秤をあしらった紋章が描かれていた。
「そしてもう一つだけ。私どもはあなたの望みが叶うよう最善を尽くしますが、万一あなたの身に危険が及んだ場合、強制的に冥府へ連れ戻すことがございます。ご了承ください」
「は、はい」
 注意事項の確認が済めば晴れて出発だ。ゲートの先には冥府と外の世界をつなぐ『駅』のプラットホームがあり、先程死者たちを運んできた列車が停まっている。デックスは矢糧氏を連れて客車に乗り込み、折り返し冥府発の定期便で現世へ旅立った。
 列車は三途の川に架かる橋を渡り、広大な花畑を駆け抜けた。往路はいつも死者たちで満員になる車両だけれど、復路の乗客はまばらで、そのほとんどが誰かのお迎えに行く死神だ。
 しばらくすると窓の外は暗闇の世界へと変わった。トンネルの中のある地点で、二人は途中下車をして、目印も明かりもない道を徒歩で進んだ。
「あぁ、もうすぐ会える。元気にしてるかな。こんなことになって大変だったろうな」
 矢糧氏は会社員で、単身赴任中に過労で倒れて生涯を終えた。子供はなく、故郷に妻一人を残したことが心配で仕方ないという。そんな彼の未練を解決し、来世に関心を向けさせるというのが、今回のデックスの仕事だった。
 やがて高鳴る心に応え、中空に一筋の光の縦線が現れた。
 デックスは目的地への到着を告げた。すると矢糧氏は話の続きを待たず、飛びつくように光を押し広げた。
「お待ちください、まだ開けては……!」
 死神が呼び止めたときには既に、渡航者はこじ開けた扉をまたいでいた。
 そこは確かに現世だった。
 矢糧氏の亡霊が降り立ったのは、彼が赴任前に住んでいたアパートの一区画。窓に面した和室だった。外は暗く、強い雨が降っていた。
 デックスも扉を抜け、通ってきた道へ振り向いた。
 そこには黒塗りの立派な仏壇があった。観音開きの戸が少しだけ開き、その手前に簡素な飾り台があって、そこに矢糧氏の遺影と位牌が並んでいた。供え物は見当たらない。
「懐かしい。ここも、ここも変わってない。新婚の頃のまんまだ」
「あの、矢糧さん」
「はい?」
「先程の手続きの際にもご説明しましたが、今のあなたにとって現世は危険な場所でもあります。移動の際には都度安全確認を行う規則がありますので、お気持ちはわかりますが、どうかお一人で先へ行かれることはお控えください」
「あぁ、そうでした、失礼。嬉しくなっちゃって、つい」
 矢糧氏は両手を合わせて詫びたけれど、その表情は緩みきっていた。しかし自分の遺影に気づいた途端、寂しそうに飾り台の正面へ座り込んでしまった。
 亡霊が物思いにふける間に、デックスは渡航管理局から支給されている情報端末を取り出して、探知機モードを起動した。怨霊や悪鬼の気配はない。閉じられた引き戸の裏側や壁の向こうも軽く探ったけれど、さまよう魂に害をなす者は見つからなかった。
 そして探知機は同時に生きた人間の所在も示していた。
「見てくださいよ、この顔」
 遺影の前に座った矢糧氏がデックスを見上げていた。視線を返された渡航者は勝手に昔語りを始めた。
「僕も昔はこんないきいきしてたんですよ。でも仕事が忙しくなってからはきっと一度だってこんな顔してなかったでしょう。とにかく働いて、働いて、働いて。取引先を駆けずり回って、電話かけまくって、資料まとめて。上司のご機嫌取って、部下の尻拭いもして、会議で恥かかされて。怒られて、怒鳴られて、土下座して」
 空気が震えた。
 遺影を収めた額縁がかすかに震えた。
「理不尽な扱いもたくさん受けた。でも、仕事がなければ妻を養えない、生きていけない。だからどんな無茶振りも我慢した。毎日毎日残業した。怒られても耐えた。必死に。わかります?」
 俗名だけ書かれた位牌が小刻みに震えた。
 死者の嘆きに対してデックスは曖昧な返答しかできなかった。立場上の問題もあるけれど、理由はそれだけではなかった。
「矢糧さん」
「はい」
「このお部屋の隣は?」
「えー、ああ、リビングですよ」
 飾り台を打ち鳴らしていた振動が止まった。
 浮かれた声に戻った矢糧氏は立ち上がって鴨居を見上げた。アナログ時計の短針が「9」の文字を通り過ぎていた。
 屋外では激しい雨が降り続き、厚い雲を地上の光が照らしている。時折雷鳴が窓ガラスを強く揺さぶった。
「午後九時、いや午前かな。そうだ、どっちにしても妻は起きている時間です。もしかしたらいるかもしれない」
 矢糧氏は嬉しそうに、デックスが気にしていた引き戸の前に立った。そしてごく自然にその丸い引手へと手を伸ばしていた。
「あっ……」
 多分彼は扉を開けたかったのだ。でも肉体を失った彼はイメージした通りに引手を掴めなかった。しかし代わりに、腕が扉をすり抜けられることに気づいた。
 その瞬間、矢糧氏は電光並の速さで決意を固めて、引き戸の中へ飛び込んでしまった。
「お待ちください!」
 完全に出遅れたデックスは急いで渡航者を追った。探知機は生者の個人情報までは拾えない。リビングに居るのが霊の見える人間なら突然の鉢合わせは混乱の元、そうなれば事態の収拾も死神の仕事なのだ。
 ところが、そこにあったものはデックスの懸念とだいぶ違っていた。
 矢糧氏は引き戸から出た一歩先で立ち止まり、呆然としていた。視線の先に、窓を向いて設置された二人がけのソファがあった。
 そのソファの上に人が、確かに生きた人間が、横たわっている。
 男と女がじゃれあうように絡み合っている。
 甘い声で笑い合っている。
「……そんな」
 か細い声がつぶやき、次に名前を口にした。
 彼に呼ばれたはずの女は少しも反応しなかった。
 一緒にいる男も死者の気配に気づかないようだった。
――ドウシテ?
 煙のように立ち上る嘆きが、デックスの心を刺した。
 思えば不穏の兆候は既にあったのではないか。
 飾り台を揺さぶるほどに高まっていた想いも。
 立派な割に扱いが中途半端な仏壇も。
 何故気づかなかった。
 何故見抜けなかった。
――イツカラ?
 しまっておく肉体を持たない感情が空気に溶け出していく。
 変質しながら次第に広がっていく。
 願いは呪詛へ。
 愛は怨みへ。
――ソイツガ?
「待って! 落ち着いて!」
 デックスはたまらず生者と死者の間に割り込んだ。
 死神の情報端末がシグナルを発した。それは既に呼びかけの効果が見込めないとの宣告、じきに怨霊の制圧を担う保安部の死神が駆けつける予告だ。さらに運が悪ければもっと厄介な何かも呼び寄せるかもしれないとの警告でもあった。
 目の前で苦悶する魂を一刻も早く救わなければ。どれほど焦っても、彼がその場でできることは限られていた。しかも望ましくない選択肢しか残されていない。
「矢糧さん。あなたの目的は達成されました。これ以上ここに留まってはいけない」
 デックスは決まり文句を早口で唱えながら端末を持ち替えて、背面に刻まれた冥府の紋章をかざした。
 すると歪んだ魂の内側に同じ印が現れた。渡航管理局のパスポートはその表紙に描かれた紋章の鬼火に焼かれるように解け、無数の糸と化して魂を縛り上げた。
「行きましょう、次の世界へ。あなたの未来へ」
 糸の端を握ったデックスは素早く引き戸をすり抜けて和室へ戻った。そして拘束された魂を大きく振りかぶり、仏壇の中に全力で投げ込んだのだった。


 報告書に目を通した渡航管理局長は小さく唸った。
「ふむ、なるほど。アッシュ、この報告書は最終的に君がまとめたということになるのかな」
「はい」
 背筋を伸ばして座る私の前で黒い尻尾が揺れた。
 片眼鏡をかけた金目青目(オッドアイ)の黒猫が前足で器用にページをめくった。その姿はいつ見ても緊張感をそがれる。時折窓口の前で愛敬を振りまく猫がここの責任者と見抜く渡航者は多分いないだろう。
「デックスの様子はどうかな。自分の行動を悔やみ、何をすべきだったかを悩み続けていると聞いたが」
「今も答えを模索しているようですが、調査班の報告を聞いてからは、多少落ち着いたようです」
 現世を脱出したデックスはなんとか渡航者を冥府へ連れ帰り、荒れ狂う魂を鎮める浄霊局に引き渡していた。その後の調査によると、矢糧氏の妻やその客人、家屋などに目立った被害はなかったという。
「先程浄霊局から連絡が来たよ。感情の高ぶりが収まれば、当初の予定通りの内容で次の生への準備に進むそうだ。このことも彼に伝えてやるといい」
「ありがとうございます」
「ところで君は彼を今後どのように指導するつもりかな」
 局長が顔を上げて私を見据えた。
 瞳孔を開ききった丸い瞳の奥に、三途の川よりずっと深い水底を見た気がした。
「一連の条項、そして付随する報告を聞く限り、やがてこうなることは避けられなかっただろう。ならば今は、事が起きる前に打てた手を考えるより、起きたことにどう対処すべきだったかを徹底的に考えなさい」
「はい」
「アッシュ、君にも言えることだよ」
「……はい」
 私は恭しく頭を下げることしかできなかった。
 じっとしたまま反省を噛み締めていると、ふいに頭をつつかれた。
「ところで」
 顔を上げると目の前に局長がいた。
 書類を脇に避けて、テーブルの上に四足で座っていた。
「彼の新人研修についてだが、『もう一つの仕事』については、どうなっているのかな」
 苦悩が吹き飛んだ。
 私は大事なことを忘れていた。後進の指導は上司の監督のもとで行われる。しかし――冥府内では下に見られがちな部署だとしても――新人の失敗ひとつでトップから直々に呼び出されるほど小さな組織ではないのだ。
「いいえ。そちらは説明だけ。……研修は、まだ」
 正直に答えればいいはずなのに、うまく説明できなかった。
 私たちはただのツアーガイドではない。死者を迎えに行く輸送局は毎日数多の魂の案内に忙殺され、死神から逃げ出した魂を追える人員にも時間にも限度がある。魂を強制連行できる保安部の出番は魂が暴れたとき。害はない、でも未練はあって一歩間違えば怨霊になる、そんな「手荒く扱えない」魂の捜索と説得は渡航管理局に回ってくるのだ。
 その仕事の担い手が足りない。だからこその新人研修だったのに。
「今回の件は残念だったかもしれないが、実を言うと私はあまり悲観していない。少なくとも彼には渡航者の話に耳を傾ける姿勢がある。ここの仕事には欠かせないものだ」
 局長は前足で顔を洗うような仕草で片眼鏡を動かした。
「それに、始めから完璧にこなせるようなら、今頃よそに引き抜かれているだろう。私はうちでじっくり育てるために、彼をここへ呼んだ。だから君も焦ることはないよ」
「局長……」
 意図を疑う私の視線を受けて、所長はとぼけたような声で鳴いた。
「そうだ。デックスはしばらく仕事から外れることだし、ここで君にひとつ大きな仕事を頼んでもいいかな」
 嫌な予感がする。
「まず内容を聞かせてください」
 私は慎重に説明を求めた。
 そして、予想以上に厄介な案件に、頭を抱えたのだった。
 

(本作は『Text-Revolutions第4回公式アンソロジー「和」』投稿作品に加筆修正を加え、『化屋の詰め合わせ2016』に“超加筆版”として収録されたものです。)