子供心はいつでも異世界への入り口を求めるものだ。
 美南(みなみ)にとってのそれは、家からほど近いところにある小さな林。そこは昔から「朱雀(すざく)の森」と呼ばれていた。
 学校の行き帰りに林の入り口を通るたび、美南は道の続く先に思いをはせた。ただ両親があまり近づくなと言ったこと、いつ見ても薄暗く気味が悪かったことなどから、実際に奥まで足を踏み入れたことはなかった。

 美南が自分に課した禁忌(タブー)を破ったのは、中学2年の夏休みのことだった。
 8月のひどく暑い午後、友達とプールでひとしきり遊んだ後の帰り道、気が付くと問題の道の手前に立ち止まっていた。
 誰かの声を聞いたわけじゃない。
 奥から吹いてくる涼しい風を感じたのは、立ち止まった後だ。
 わけが分からないまま、美南は歩き出していた。
 朱雀の森は猛暑という言葉を知らないようだった。道の脇を照らす木漏れ日、苔に覆われた古い切り株、木々の間を駆け抜け名前も知らない草をなでていく風。時が過ぎ去る感覚が溶けていく。
 昨日の雨水をまだ手放そうとしないのか、柔らかい地面にサンダル履きの足跡がくっきりと残る。
 奥へ奥へと吸い寄せられるように進んでいった美南は、いよいよ暗さを増していった森の中に、一点のスポットライトを受けてきらきらと光る何かを見つけた。
 小さな肩からビニールバッグが滑り落ちて、泥のしずくを浴びる。
 お構いなしに走り寄った。
 道をふさぐ古木の幹にできた裂け目に、それは挟まっていた。
 美南が光の正体を引き抜いて汚れを払うと、金属製の丸い板が姿を現した。ちょうど半ズボンのポケットに収まる大きさで、片方の面には何かの模様が刻まれている。ひっくり返すと平らに磨かれた面が美南の顔を歪めて映した。きっと鏡として作られたのだろう。
 小さな感心のため息をつきかけたその時。突然強い風が吹いて、巻き上げられた何かが目の中に入った。
 美南は片目をつぶり、もう片方を腕でかばって、風をやり過ごした。


「………………」


 顔を上げると、朱雀の森はその様相を一変させていた。
 もはや林とは呼べない。ずっとずっと深く、わずかな陽の光のもとにやっと輪郭を作り出す森。振り返ってもそこに道はなく、さっき落としたバッグも見当たらなかった。
 美南は立ち上がり、空を仰いだ。
 誰か。呼ぼうとしてやめた。もともと人気(ひとけ)のない場所だったし、すぐに誰かが気づいてくれるとは到底思えない。
 だが口をつぐんでも何となく落ち着かず、叫びたい衝動に駆られた。
 案の定、声は何重にも重なった枝の間に吸い込まれていっただけで、何かが返ってくる気配はなかった。
 美南は鏡を握りしめ、地面を覆い尽くす雑草や折れた枝をかき分けて歩いた。あてはなくとも、せめてもう少し明るい場所、できれば座って休めそうな場所に出たい。そう思っていたが、得られたのはどうも同じ場所をぐるぐる回っているような変な感触だけだった。
 何周かその辺を回って、見つけた足跡が確かに自分のものだと確かめてから顔を上げると、森の木とは明らかに違う何かを視界がとらえた。
 深い緑じゃない。赤い。
 根のアーチに足を取られながらそこへ辿り着くと、紅い着物を着た男が細い木に背を預け、腕組みをしてこちらをじっと見ていた。
 美南は呼びかけようとして、一瞬戸惑った。男は腰に二振りの刀を差している。どう見ても現代(いま)の人じゃない。
「……あの」
 それでも一応声はかけた。
「ここで、何をしてるんですか?」
「さあな。お前を迎えに来たわけじゃないことだけは確かだ」
 男が腕をほどき、美南に近づいてきた。背丈は少なくとも頭一つ分は上回っている。右腕に通されていない袖が揺り動くと、その下に隠れていた帯がちらりと見えた。銃のようなものを提げているように見えたのは気のせいだろうか。
「今なら遅くない。すぐに帰れ」
「そう言われても……どうやって帰ればいいか」
 やや伏せ気味の視線から見上げようとした時には、男は美南の脇を抜けて立ち去ろうとしていた。助けるつもりはないらしい。美南は慌てて追いかけ、着物の袖をつかんだ。
「待って!置いてかないで!」
 訴えかけると男はすぐに振り返り、美南を自分の体の前に引っ張り込むと同時に彼女の口をふさいだ。
「うっ……!」
「静かにしろ……奴らに気づかれる」
「……??」
 美南は半ば抱えられるような体勢でしばらく引きずられ、大木の下にできた空洞に放り込まれた。男は注意深く辺りを見回してから穴の中に入ってきた。
 程なく雨が降り始めた。美南が起き上がって土を払う間に勢いが強まり、熱帯のスコールのような激しい雨になった。
「危なかったぁ……もう少しでびしょ濡れになるところだった。ありがとうございます」
「礼を言うな。俺が言いたかったのは雨の事じゃない」
 男はまだ外をうかがっている。美南は膝をついたまますぐそばまで近づいた。
 口に当てられた手は確かな暖かさを持っていたから、とりあえず幽霊ではないらしい。とはいえ正体不明であることに変わりはない。単純な不安と好奇心が男に尋ねた。
「名前、何て言うんですか?」
「……そういう時は訊いた方から先に名乗るのが礼儀だと思うが」
「あ、そっか。私は美南……金森美南って言います」
「俺は東無雷左(あずま むらいさ)だ。……いいか、雨がやんだらすぐにここを発(た)て」
「どうして、帰らなきゃいけないんですか?」
「ここはお前のような子供が来る所じゃない」
 無雷左は美南と顔を合わせないままそう言うと、後ろに手を回して紐をくくりつけた小型の瓶を取った。中身が入っているらしく、栓を抜いていくらか飲んでから、美南に差し出した。酒の匂いがする。
「飲むか?」
「いえ……遠慮します」
「そうだろうな」
 外は依然土砂降りのまま。とても外を歩けそうにない。無雷左は瓶をしまい、美南は持っていた鏡をじっと眺めた。
 雨の音だけが静寂の空間を包んだ。


 しばらくして雨がやむと、まず無雷左が刀の柄に手をかけながら外をうかがい、それから視線で美南を呼び寄せた。
 外の空気はまだ湿っぽさを持っていて、風が吹くと少し肌寒く感じた。日差しも弱く、真夏という感じがしてこない。
「あの」
 美南は無雷左の手を握ったまま尋ねた。
「私、どっちへ行けば帰れるんでしょうか」
「それはお前が一番よく知っていることだ」
 助けを求める手はいとも簡単に振り切られた。
「え……」
「思い出せ。どうやってここに来た?」
「で、でも」
 冷たい風が吹いて、2人のはるか上に茂る枝がかさかさと鳴る。
「見ての通りここには道など無い。……俺が見てきた限り、他と同じ道を通った者は誰もいなかった。お前の行くべき道もまたお前にしか分からないのだ」
「見てきた限り……って、ずっと前からここにいるんですか?」
「正確なことは分からないが、そうだろうな」
 今度は足下から。音が忍び寄っては通り過ぎていく。
「だが俺ももともとは森の外にいた。……?」
 何かに気づいたのか、無雷左が顔を上げた。急に表情を曇らせ刀をわずかに抜きかけたので、美南は深い理由もなく身構えた。
 一体どうしたの、と尋ねる寸前、美南の左足が冷たい感触をとらえた。
「きゃあっ!」
 体が強い力に引きずられ、傾斜を滑り降りていた。すぐに足元を見ると、真っ黒な手が足首を掴んで放さないのが見えた。
 さらに視野を広げると、いつの間にかそこら中に人がいた。誰を見ても全身真っ黒で顔も何も分からない。人と言うよりはその影のように見える。岩の上にはいつくばり、あるいはでこぼこの地面から突き出た木々の根本に足をかけて立ち、こちらにじっと顔を向けている。
「な、な、何……やだっ、来ないで……!」
 手近にあった枝にすがろうとしたらあっさり折れた。それでも手を伸ばし、地面に爪を立てて踏ん張ろうとしている間に、右足をも押さえられて下へ下へ引きずり下ろされていく。
 美南は斜面の上を見やった。だがそこに手を差し伸べようとする無雷左の姿はなかった。
 その代わり、鳥のように頭上を舞う影を一瞬だけ目にした。
 振り返ろうと揺れ動いた視界の端を、紅い閃きが落ちていく。
 ピントが定まった時にはもう、冷たい感触が消えていた。
「………………」
 無雷左が刀を地面に突き立てていた。その足下で、両手首を失った黒い本体がのたうち回っている。切り口も黒いだけで何もないその姿は、どうも人間とは呼べそうにない。
「もう動けるはずだ。逃げろ!」
 怒鳴る声に圧倒され、美南は慌てて斜面をよじ登って元の場所に立った。改めて見渡すと、うじゃうじゃと出てくる影を無雷左が片っ端から斬り始めた所だった。まさに時代劇のクライマックスを思わせる光景に見とれかけたが、自分の方にも影が迫ってきたのですぐに逃げ出した。
 どっちへ行けばいいかなんて知らない。でもとにかく今は、よく分かんないけど逃げなきゃ。
 無我夢中で走った。


 疲労と息切れと足の痛みがいっぺんに襲ってきて、美南を立ち止まらせた。
 影は見当たらなかった。どうやら無事に振り切れたらしい。しかし森のさらに深いところへ入ってしまったようで、陽の光がほとんど届かなくなっていた。
 手頃な段差を見つけて腰を下ろすと、ふと鏡のことを思い出した。確かにこの手に握っていたはずなのに、いつの間にか無くしていた。
 きれいな模様で飾ってあって、ちょっと気に入ってたんだけど。
 引き返して探そうにも、どこをどう通ったなんて既に覚えていない。しかも戻ったらまたあの影に出くわすかもしれない。少し考えてから諦めようと心に決めたが、すっきりしない思いが残った。
『お前の行くべき道もまたお前にしか分からないのだ』
 無雷左の言葉を思い出して、とりあえず今の風が吹いてきた方を目指して歩くことにした。風向きが変わっても、足取りは変わらなかった。重い。痛い。でも休んだら動けなくなりそうな気がしてくる。
 ただでさえ歩きにくい地面がやや上り坂になり、さらに丈の高い雑草が足下を覆い隠すようになった。足に触れるたびにかゆくて仕方がない。だが不思議なことに、蚊に刺されたような感触は全くなかった。こういう場所には大量の虫がいそうなのに、そう言えばさっきから全然それらしきものを見ていない。
 どうして?
 ふと気づいて立ち止まり、膝に手を当てて休んでからまた進もうとして、何かにぶつかった。
 顔を上げると無雷左がいた。
「あ……あれ?」
「俺がここにいることがそんなに不服か?」
「いえ……そんなことは」
 密着していても仕方ないので美南が2歩ほど下がると、無雷左は右手を差し出した。
「忘れ物だ」
 無くしたはずの鏡が何故か彼の手元にあった。もしかしたら別れる間際、あるいはもう少し前に落としていたのかもしれない。それよりどれだけ広いかも分からない森の中で、再びこうやって会えたことの方が奇跡だろう。美南は鏡を受け取ってお礼を言うと、今度は逆に尋ねた。
「……大丈夫でした?」
「何が」
「さっきの……怪我とか、してません?」
「それはない。奴らはお前が考えているような化け物ではないからな」
 またいきなり足を引っ張られるのも嫌なので、美南は歩きながら話すことにした。手をつながなくても無雷左はちゃんと後をついてきた。
「何か知ってるんですか?」
「先にも言ったが、俺はもう長いことここにいるらしい。本来なら決してあり得ないほど長い間……この森で俺は様々な人間と出会った」
 美南の知る現実の時間がここにも流れているなら、彼は一体何百年生きていることになるんだろう。確かにあり得ない。
「そのほとんどはお前のように戸惑い、助けを求め……あるいは最初から諦め……当てもなくさまよい歩いた。だがそうしているうちに自分のあるべき姿、何を求めていたかも忘れていき、ついに正気さえも失った。そういった者達の末路が、お前も見たあの影だ」
「じゃあ、あれはみんな、普通の人間だったんですね?」
「そうだ。しかし奴らは自分が人間であったことも忘れている」
 わずかに明るい場所に来ると無雷左が立ち止まり、二振りの刀を鞘ごと腰から外して美南に差し出した。一方は柄も鞘も黒く染まっていて、もう一方は真っ白だった。
「この二つの違いが分かるか?」
「いえ、全然……色が違うことくらいしか」
「そうか。……誰かが言っていたな、これを握る時代はとうに終わったと……。とにかく持ってみろ」
 美南は片手に一振りずつ受け取り、しっかり握りしめた。無雷左が手を放した瞬間、黒い刀だけが急に重くなり、危うく地面に落としそうになった。
「うわ、重っ……!」
「貸せ。これが真剣というものだ。その顔はどうやら触ったこともなさそうだな」
 無雷左はその辺の細い枝を拾うように重い刀を持ち直した。
「名刀『剛覇(ごうは)』……切れ味はいいが、どうも実体のないものには通用しないらしい。だが、今お前が持っているその『鬼羅々(きらら)』」
 美南は白い刀に目を落とした。剛覇と違って恐ろしいほど軽い。具体的に言うとボールペンくらいの重さしかない。
「手に入れた時には既にいわく付きの妖刀とされていた物だ。それは人はおろかその影まで断ち切る。……俺はここに来てから、もっぱらそれで戦ってきた」
 早くも遠のきつつある記憶を探る。さっき逃げる時には刀の色までは見ていなかったが、その前に一度白い方を抜こうとしていたような気がする。
「つまり、こっちじゃないと役に立たないって事ですか?」
「そうだ。だが奴らは何度斬っても、放っておけば勝手に再生してまた動き出す。ただ自分とは異質の何かにすがり、求め続ける執念だけの存在……鬼羅々を持ってしてもその執念を斬ることはできない」
 美南が鬼羅々を返すと、無雷左は2種の刀を元通り腰に差した。
 そして、美南を真正面から見据えた。
「いいか。今この森で正気を保っているのは俺とお前だけだ。だからこそ、お前には道を見つけ出して欲しい」
「無雷左さん……あの」
「……どうした?」
「後ろ。」
 振り返る前に美南の表情で事態を悟った無雷左は、軽く跳ねて脇にそれると軸足を置いて体を回転させ、姿勢を低くすると背後から襲いかかってきた影を居合いで仕留めた。やはり抜いたのは鬼羅々だった。
 美南は隙をついて逃げ出そうとして、その不可能を悟った。
 四方八方から聞こえてくる、ひたひたという足音が、全てを物語っていた。
「……あの、どうしましょう。囲まれたみたいなんですけど」
「仕方ない。……伏せろ」
 足を曲げる前に、頭を上から強く押さえつけられた。無雷左が手を放した直後、銀色の光が頭上から周囲に広がり、重苦しい音となって返ってきた。それが大木を切り裂いた音と知るやいなや、影達は散り散りに暗闇の中へ姿を消した。
 無雷左は姿勢を立て直し、剛覇に持ち替えていた片手を再び自由にすると、美南の背中を軽く叩いて促した。
 走れ。
 だが美南が合図を読んで一歩を踏み出す前に、別の2人(?)が無雷左の両側から一度に飛びかかり、彼の両腕にしがみついてきた。
 背中合わせに立っていた美南も、前後左右から影に詰め寄られた。とっさに振り返り、無雷左の右袖の陰に手を伸ばした。
「これ、借りますね」
 了解を得る前に抜き取った銃は、思ったより重くて大きい物だった。銃身は少し錆びているが、弾が入っているかどうかは分からない。
 震える手で無雷左の右肩に食らいついてくる影の頭部に銃口を向け、祈る思いで引き金を引いた。
 破裂音に一瞬遅れて、影が後ろに吹っ飛ばされた。
 次の瞬間には自由になった右手が白い柄の刀を抜き、残った方の邪魔者を縦横に切り裂いていた。


 風のざわめきが誰かのすすり泣きに聞こえるようになったのは、いつ頃からだったか。
 この森に時の流れはない。
 許された者と許されざる者が、ただそこにいるだけだ――


 どうにか影を振り切り、光も闇も分からないような薄暗い森を抜けると、そこは色とりどりの小さな花が咲き乱れる場所だった。
 真ん中には大きな石碑が建っていて、その周りだけ赤い土がむき出しになっている。美南がそこで立ち止まっている間に、後れを取っていた無雷左がようやく追いついた。
「お返しします。すいません、勝手に借りちゃって」
 美南はそう言って無雷左に銃を返した。
「……お前、これが武器だと知っていたのか」
「え、知らなかったんですか?」
「ああ……この森で拾ったはいいが、ずっと使い方が分からないままだった」
「そっか……知ってる方がおかしいよね……」
 美南は石碑を眺めた。中央に丸いくぼみがあり、その縁から細い曲線が上下左右に伸びている。びっしり生えた苔を剥がしていくと、曲線は上下左右に広がっていった。
「無雷左さんも手伝ってもらえませんか?」
「……?」
 2人で石碑を掃除するうちに、全体像が見えてきた。
 翼を広げ、天を仰ぐ鳥。
 汚れた手を払いながら、無雷左がふとつぶやいた。
「……そうか」
「?」
「これが、奴の言っていた朱雀か」
「……朱雀!?」
 美南は思い出した。
 自分が入り込んだ森が何と呼ばれていたか。
 そして、その言葉が意味するものは。
「あ、そうだ」
 ポケットに入れておいた鏡を取り出し、その不思議な模様と石碑を見比べた。鳥の絵のちょうど中央、首の部分に模様が無く、代わりにくぼみがある。周囲の流線型は、鏡の模様とよく似ていた。
 迷う理由など無い。美南は模様の面を表にして鏡を石碑にはめ込み、少し回転させた。見事に線がつながった。
「出来た!」
 満足げに頷いたその時。
 薄曇りの空の頂点が割れ、今までよりずっと強い太陽の光が一直線に降りてきた。




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