壱  十二月二十日
 

 竜彦が跳ね起きた時、まだ外は薄暗かった。
 真冬だというのにたっぷり汗をかいた理由は他でもない。
「また、あの夢か……」
 暗闇の中から伸びてきた大きな手が、自分の顔に覆い被さる。そしてありったけの力を込めて顔を引きはがそうとする――そんな感じの夢が鮮烈な記憶として、目覚めた後も意識の片隅に居座っている。
 寒さより暑苦しさの方に不快を覚えながら、ジャージに着替えて家の外に出た。真っ白い息の向こうに朝日が見える。
 時計を確かめてから走り出した。
 早朝は車も少ない。静まりかえった下り坂を駆け下り、役に立たない信号を無視して道路を渡った後になって、ようやく遠くでブレーキを聞いた。
 カーブの先に石造りの古びた鳥居が見えてくる。
「……あ。」
 鳥居の下に人がいる。顔がはっきりしないうちから、誰だか分かった。
「芙美子……」
「おはようございます。毎朝このあたりを走っていると聞いたので、見に来ちゃいました」
 人がジョギングしてるとこなんて見たって面白くないだろ。
 喉まで出かかった言葉を心の中に押し戻した。言っちゃいけない。友達ならともかく、つきあい始めたばかりの彼女だ。立場が逆なら自分も同じ行動に出るに決まってる。
 そんなわけで竜彦が言葉に詰まっている間に、芙美子はスポーツタオルを取り出して竜彦に差し出した。
「……まだ、ご両親はもめてるんですか?」
「相変わらず。俺が何言ったって無駄なんだよどうせ」
「原因が原因ですからね……」
 はっきり言って、竜彦の顔はどちらの親にもほとんど似ていない。それが連日のように繰り返される口論の原因だった。遺伝子の影響がもっとも分かりやすく現れる場所に問題があるとなれば、いくら他の部分――体格や声や体質――が似ていようと、そこにはひとつの疑いが生じる。
「……でも、竜彦さんは本当に、あのご両親の子供なんですよね」
「実は拾った子でした、なんて話ならこんな事にはならないだろ」
「病院で取り違えられたという可能性は」
「ない。自宅出産だったし、俺が母さんの腹から生まれたのは間違いない」
「……では……」
「……やめよう。朝っぱらからこんな話」
「そうですね。それで、まだ走るんですか?」
「ああ。こっから神社の境内突っ切って向こうへ抜けて、いったん家に帰る」
「私もご一緒させてください」
 竜彦が走り出すと、芙美子もくっついてきた。足の遅い芙美子に合わせて竜彦は少し減速した。


 走るついでに芙美子を家まで送り、それから自分の家に帰った竜彦を待っていたのは、いつも通りのうんざりするような喧噪だった。割って入る気はとっくに失せている。
 確か、こんな事になったのは高校に入学して間もない頃からだ。それから1年半以上が経っているが、口論の内容には進歩がない。うっとうしい空気に慣れただけだった。
 一応「ただいま」とだけ言って運動靴を脱いでいると、玄関脇の鏡が目に入った。
 耳の下あたりに、ひっかき傷のような赤い線が1本入っている。
「……何だこれ」
 竜彦は首をかしげた。
 顔の輪郭をなぞるような傷、あるいは痣に心当たりはない。触れてみると痛みはなく、熱を持っているわけでもなかった。大したことはなさそうだと考えた竜彦は何事もなかったかのように靴をしまい、騒々しいリビングの前を無言で素通りした。
 冬休みとはいえ、彼が入っているバスケ部は毎日練習がある。口論から一転して静まりかえったダイニングで黙々と朝食を取り、父親が会社へ行くより先に家を出た。


 他校との練習試合が数日後に迫っているからだろうか。いつもは大半が音を上げるほどハードな練習に、誰もが真剣に取り組んでいる。竜彦も負けてはいられない。
 誰よりも速く、正確に、確実に。
 たくさんの汗ばんだ手を伝い、ボールが体育館を跳ね回る。
 30分もしないうちに、熱気で体育館の中はかなり暖かくなった。休憩時間になり、マネージャーが用意した飲み物に部員が集まる中、竜彦は友達に声をかけられた。
「どうしたんだよ、その顔の傷」
 謎の傷跡が目にとまったらしい。何でもないと答えはしたものの、その友達があまりにも不思議そうな顔をするので、次第に竜彦自身も気になり始めた。
 部室の壁に鏡が貼られていることを思いだし、体育館の隅にあるドアから中に入った。
 確かに鏡はあった。のぞき込み、言葉を失った。
 赤い線が広がっている。縦に長く伸びただけではない。今度は顔の両側にはっきりと現れている。
「気のせい……だよな」
 それで済めば気持ちも楽になれるのに、現実は薄情だった。何度鏡を見直しても映るものは同じ。うなだれていると、集合の笛が鳴った。
 竜彦は気合いを入れ直して部活に戻った。何度か顔のことを訊かれたが「大丈夫」で押し通し、練習に打ち込んだ。
 しかし昼休みを目前に、顧問に呼び出された。当然いろいろと聞かれたが、身に覚えがない以上答えようがない。顧問はしばらく考えてから言った。
「何かのアレルギー症状かもしれないし、念のため病院で診てもらいなさい」
 どうしてそこまで言われるのか分からないまま、竜彦はその場で早退を命じられた。学校を出た足は家ではなく、近くの大学病院へと向けられた。


 途中までは誰にも会わず、従って顔を見られることもなく走り切れた。ところが病院の入り口を目前にして信号に引っかかり、竜彦は坂を下りてくる大型トラックの群れを眺める羽目になった。
 そう言えば何科に行けばいいんだろう。皮膚科、外科、それとも整形外科か。
 考えているうちに青信号になった。「通りゃんせ」のメロディが辺りに響き渡る。

 通りゃんせ 通りゃんせ
 ここはどこの 細道じゃ
 天神さまの 細道じゃ

 横断歩道を渡っていると、後ろからメロディに合わせて歌う声が聞こえてきた。
 振り返るとそこには先ほど通った神社があったが、人影はない。

 ちっと通して 下しゃんせ
 御用のないもの 通しゃせぬ
 この子の七つの お祝いに
 お札を納めに まいります

 道路の真ん中で立ち止まっていても仕方ないので、とにかく渡りきろうとした。しかし気がつくと、声に吸い寄せられるように引き返していた。

 行きはよいよい 帰りはこわい
 こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ……

 伴奏が止まってもなお途切れない声は、上からだった。
 片手で太陽の光を遮りながら見上げると、鳥居の上に誰かが座っていた。横断歩道の始点まで戻った竜彦に手を振っているのは、同じくらいの年頃の、多分男。白い上衣に緋色の袴という組み合わせが目を引く。
 視線がぶつかった。男の子は得意気に笑うと、身を乗り出して鳥居から飛び降り、石畳の上に軽々と着地した。
「君が来るの分かってたから、ここで待ってたんだ。ほら、顔見せて」
「ちょっと待っ……だ、誰だよお前」
「いいから見せてよ、竜彦くん」
 いきなり下あごを押さえられた竜彦は後ずさりして逃げようとしたが、名前を呼ばれた途端に身体が動かなくなった。そして顔の奇妙な痕をしばらく観察されたあげく、
「あー、こりゃひどいや。すぐ直さないと」
「ひどいって、お前、医者か何か?」
「ううん。でも大丈夫、今僕が直してあげるから」
「え?」
 男の子は竜彦の顔の前に手をかざし、何かを唱え始めた。古典の授業で聞いたことがあるような言葉を所々に聞き取れる。傷跡が急に熱を帯びたり痛くなったりすることはなかったが、竜彦は次第に頭がずきずきと痛み始めるのを感じた。
 呪文を唱え終わると同時に頭痛も治まった。男の子は鳥居の向こうを指して言った。
「そこの手水舎の水に顔を映してみて」
 背中を押された竜彦は言われたとおりにした。
 風のない静かな水面(みなも)をのぞき込むと、傷が跡形もなく消えていた。
「………………」
「どう?きれいに消えたでしょ?」
「……ああ……。でも、どうやって……」
「これくらいわけないよ。だって僕、ここの“神様”だもん」
「かっ……神様ぁ!?」
 竜彦は耳を疑った。突拍子過ぎる。信じられそうで、信じられない。
 自称“カミサマ”は笑った。
「せっかく部活休んでまで来たんだから、上がっていきなよ」


 竜彦は神社の本殿に案内された。普段は見ない、初詣や秋祭りの時に何となく見ているだけだった、賽銭箱の向こうの世界。そこには不思議な空気が流れていた。
 カミサマは最初から裸足だったが、汚れたであろう足を気にすることなく床を歩き、奥に安置された御神体に背を向けて座った。靴を脱いだ竜彦は荷物を下ろすように言われてその辺に置くと、腰を下ろす前に部屋の中を見渡した。
 手招きするカミサマの後ろに、同じ顔がもう一つあった。一瞬、驚いた。よく見ると三方の上に乗った鏡が竜彦自身を映していた。
「今、自分の顔見てどう思った?」
 突然、カミサマが口を開いた。心の内を見抜いたような言葉に竜彦はうろたえた。
「……い、いや……」
「僕の顔に見えたでしょ」
「………………」
「君のことは全部お見通しだよ。神様だから」
 カミサマは楽しそうな表情のまま、真剣な口調で竜彦に問いかけた。
「ところで君、さっき行こうとしてた病院に入院してたことあるよね?」
「……ああ。母さんが言ってた。3歳の時のことだから、俺は全然覚えてないけど」
 事故か何かで顔にやけどを負い、病院に担ぎ込まれたのだという。当時はまだ優しかった母親は病院に泊まり込み、竜彦に付きっきりで世話をした。そんな騒ぎになったのは後にも先にもその1回だけだ。
「でも、それが今のと何の関係が」
「それを今から話すよ。君にはいつか話しておかなきゃって思ってたし」
 カミサマは上衣の内側から小さなお守りを取り出し、竜彦の前に置いた。
 そして厳かな面持ちで語り始めた。
「これは君のお母さんがここで買ったものだよ。君に付き添ってる間中ずっとこれを肌身離さず持ってて、どうか良くなりますようにって祈り続けてたんだ」
「………………」
「1週間くらい続いたかな。それがあんまりうるさいから、どんな子のために祈ってるんだろうってすごく気になってさ。様子を見に行ったんだ」
「……それで?」
「窓すり抜けて中に入って、そしたら君がいたから、包帯越しに怪我の具合を見たよ。……そしたら、僕の勘はこう言った。どんなに医者が手を尽くしても、絶対に一生跡が残るってね」
 廊下を抜ける風の音だけが響き渡る。
「だけど、僕は君のお母さんに、治してって頼まれた。神様としては裏切るわけにはいかない……だから」
 さっき呪文をかけた時のようにかざした手を、冷たい風がなでていく。
「跡が見えなくなるように、隠したんだ。上から別の顔を貼り付けてね。……それで、さっき顔に出てた線なんだけど、あれは君に被せた顔が剥がれそうになってたんだ。危ないところだったよ」
「……そ、そうなんだ」
 もしそれが本当で、何も気づかずあのまま部活に出ていたら。
 竜彦の頭によぎった考えが、背筋を寒くさせた。気持ちを察したのかカミサマが近寄って頭をなでる。肩越しに見える鏡が映す顔は、自分のようにも違う人のようにも見えた。
「じゃあ……あの鏡は?」
「錯覚じゃないよ。君にあげたのは僕自身の顔なんだから」
 優しくなでる手を竜彦がうっとうしそうに払いのけると、カミサマはおかしそうに笑い、
「今考えたら、ちょっと失敗だったね。親に似てない、じゃあ誰の子供だ、って騒ぎになってるんでしょ?」
 そして竜彦をぎゅっと抱きしめた。
「でも大丈夫。君はあの2人の子供だから……僕が保証するよ」


 いつの間にか眠ってしまったらしい。
 竜彦が気づいた時には既に日が西へ傾き、本殿と拝殿を仕切るガラス戸は閉まっていた。カミサマの姿はどこにもなかった。
 しかし、手には古いお守りが握られていた。どうやら今までの出来事は夢ではなさそうだ。
(夢と言えば……)
 顔を掴まれる夢。
 あの悪夢は今日のことを暗示していたのだろうか。どう判断していいものか迷ったが、
(……まあいいや)
 とりあえず立ち上がった。
 渡り廊下を通り、社務所を抜けて外に出る。そして鳥居をくぐろうとした時、不意に自分が一度もお礼を言っていないことを思い出した。
 すぐに駆け戻って財布を開け、いつもより「0」が1つ多い硬貨を賽銭箱に放り込んで柏手を打った。
 応えるように、傍らの御神木が枝を揺らした。
 気持ちはきっと通じただろう。顔を上げた竜彦は素早くきびすを返し、走り出した。坂を駆け上がった勢いのまま家に飛び込むと、母親が庭の花に水をやっていた。
「おかえりなさい」
「………………」
 最後に見たのはいつだったか思い出せないくらいの笑顔が、そこにはあった。
 竜彦はすぐに、ひとつのことを思い立った。簡単に会話した後、部屋に駆け戻り、勢いよく閉じたドアに寄りかかって携帯電話を取り出した。2つボタンを押して耳に当てると、芙美子の声が聞こえてきた。
「もしもし?……そう、俺。……何か知らないけど、父さんと母さん、仲直りしてた。だからもう心配しなくていいよ。……ああ……そうか…………」