弐  十二月二十六日
 

 クリスマスの翌日は普通の日である。おととい、昨日とお祭り騒ぎに浮かれていた町も夜明け前には静まりかえり、昇る朝日は役目を終えた装飾(デコレーション)の数々を白く照らす。大半は今日中に撤去され、1年後の出番までしばし眠りにつくことだろう。
 そんな時間に竜彦は眠りから覚めた。
「――――…………!?」
 表現のしようがない騒音が自分自身の叫び声だったと認識するまでに数分を要した。続いて大きなため息をつき、記憶の整理に入る。
 大きな手が顔を掴むところまでは、前に見た夢と同じ。いったんはその原因が明らかになり一件落着と思われたが、その夜からは顔の皮が剥がれるようになった。そして今日。目の前に、確かに芙美子が立っていた。
(まさか……な)
 気のせいだ。この前みたいなことが2度も3度もあってたまるか。
 竜彦は今日の部活をにらみ、いつも通りのジョギングに出かけた。


 朝もそうだが、真冬の夕方は特に冷え込む。
 部活を終えた後、体育館を出た竜彦は白い息を吐きながら、ポケットから手袋を取り出してはめた。昨日のデートの時に芙美子からもらったものだ。青い毛糸の、明らかに手編み。材料が足りなかったのか、左手の小指だけ色が微妙に違っていた。
 校門を出ると、その芙美子が待っていた。
「竜彦さん、部活お疲れ様でした」
「ああ……そっちの冬期講習はどうだった?」
 小学校の先生になりたいという芙美子と、特に明確な目標はない竜彦。2人は並んで歩き始めた。まだ遠いように思える受験の話をしながら、日没後の暗い空を見上げる。曇っているが、雪は降りそうにない。
 数分歩く間に多く喋ったのは芙美子だった。塾で知り合った友達のことを楽しそうに話してくれた彼女だったが、竜彦の耳には半分ほどしか届かなかった。
 上の空に気づいた芙美子が足を止めた。
「……竜彦さん?」
「えっ……な、何!?……俺の顔に何かついてる?」
「そういうわけではないんですが……さっきからずっと考え事してたみたいなので」
「そ、そうか。ゴメン、話聞いてなくて」
 どうしても夢の記憶が重なり、顔を正視できない。正直な気持ちを竜彦は言い出せなかった。芙美子はどこまで察しているのか、とまどいとも心配ともとれる表情からは読み取れない。
 あやふやなまま強引に話を本筋に戻し、しばらく歩いたその先で、2人は明日を約束して別れた。
 帰っていく芙美子を見送った竜彦が、ほっと一息ついたその時。
「彼女に本当のこと言わなくていいの?」
「………………!!」
 いつの間にか背後を取られていた。竜彦が反射的に振り返ると、見覚えのある顔が視界を占めた。数歩後ろに下がり、直感を確かめる。
「か、カミサマ……どうしてここに」
「今日あたり来るかなーっておもったから、ずっとここで待ってたんだ」
「来るって、俺が?」
 またもお得意の予知らしい。深くうなずいたカミサマをよく見ると、その身体は宙に浮いている。さすがに寒いのか、それとも気分なのか、今日は足袋(たび)を履いていた。
 カミサマは竜彦に近づいて手を伸ばした。汚れひとつない指が頬に触れる。
「顔の接着の方は大丈夫みたいだね。変な夢見ても気にしないでいいよ、当分は保つはずだから」
 微笑みを前に、竜彦は不思議な気分になった。顔は同じでも笑い方が違うせいだろうか。
「ところで……さっきの彼女、可愛いよね」
「え? ……ああ、芙美子が? そりゃあ、可愛いけど……」
「つきあってるって事は、将来は結婚するつもり?」
「いや、そこまでは考えて……」
「そっか。じゃあ、僕がお嫁さんにもらっちゃおうかな」
 竜彦が言葉に詰まった直後、その耳が近づいてくる車の音をとらえた。すぐに道を空け、車が通りすぎていくまでの間に、カミサマはどこかへ消えていた。


 家に帰り、夕食に手をつけ、風呂に入る。竜彦は普段の生活サイクルを1段1段辿る途中で、不意に芙美子の声が聞きたくなった。最初は浴槽の湯に首まで浸かり、さっきの帰り道の記憶を頭に投影しているだけだったが、次第に「今はどうしているだろう」という思いが強くなっていった。
 バスタオルで身体をぬぐいながら心を決め、服を着てすぐに携帯電話を取りに行った。今日は充電器から外してすぐ、芙美子の番号にかけた。
 普段はメールを打っている時間を、呼び出し音の中で待つ。1回。2回。3回。4回……つながらない。
 一度電話を切り、かけ直そうとした時、家の方の電話が鳴った。応答した母親が竜彦を呼んだ。芙美子の母親からだという。
「……もしもし、お電話代わりました」
 受話器を受け取りそう言う間もなく、泣きそうな声が聞こえてきた。途切れ途切れの言葉がうまくつながらない。2、3度聞き返してようやく大まかな話が見えてきた。
 芙美子が消えた。
 確かに家には帰ってきたのに、2階に上がったきり姿が見えないという。家出されるような覚えはない、何か知らないかと聞かれた竜彦は最初、何も言えなかった。彼から見ても特に悩んでいる様子はなく、むしろ今の生活こそ一番といった感じさえ見受けられたからだ。
 突然、彼の脳裏で冗談めいた声が再生された。
『じゃあ、僕がお嫁さんにもらっちゃおうかな』
 口元から自然に言葉がこぼれた。
「……俺、探してきます」
 返答を待たずに電話を切り、壁のハンガーに掛けたダウンジャケットをひったくって外に飛び出した。その足はいつものジョギングコースを、いつもより早く駆け抜けた。
 神社の鳥居の前に着くと、彼女の名を何度も呼んだ。しかし望んだ返答はなかった。神様が現れることもなかった。
 どうしてこんな時に限って。
 見切りを付けて他の場所を当たろうとした竜彦の目に、社務所の明かりが映った。半開きの引き戸から出てきた誰かがこちらへ歩いてくる。竜彦に用があるらしいその人は30歳前後の男で、暖かい屋内にいたせいか軽く身体を震わせていた。
「お困りのようですね。……私に、何かお手伝いできることはありませんか」


 芙美子は白いぬくもりに包まれていた。天の川のような町明かりを眼下に見渡し、何度となく感嘆の声を上げていた。
 少し前、勉強の手を休めて窓の外を見ると、1羽の白鷺が「中に入れて」というまなざしを向けていた。今日に始まったことではなかったのでさほど驚きはしなかった。確か6日前、同じようにやってきて彼女の部屋で羽を休めた白鷺は、そこが気に入ったのか毎晩現れるようになったのだ。
 家族にも、竜彦にさえも秘密にしている夜のひととき。その白鷺はやけに人なつこく、平気な顔で芙美子にすり寄ったり、ふわふわした背中の蓑毛を好きなだけ触らせてくれたりした。誰かが部屋に来るか芙美子が眠ってしまうまで居座り続けた白鷺は7日目の今夜、芙美子が抱きついてくれるのを待って突然翼を広げ、彼女を表へ連れ出した。
 鳥は夜目が利かないとか、この種類の鳥は人を乗せられるほど大きくないはずとか、そもそもこんな鳥がこんな町中にやってくるはずがないとか。疑問に思う余地は多いはずなのに、芙美子は全く気にかけなかった。夢か幻としか思っていなかったからだ。
「……どこへ行くんですか?」
 白鷺は応えず、芙美子を乗せたまま降下を始めた。冷たい風と背中の暖かさは夢にしてはリアルだった。
 真っ黒な空間が迫ってきた。


 「……そうですか。そんなことが」
 竜彦は自分の行動が分からなくなってきた。この非常事態に、両足はこたつの中に収まり、両手はミカンの皮をむいている。彼にそうするよう仕向けたのは他でもない、目の前で相づちを打っている男――神主を名乗る社務所の住人だった。
「やっぱり……信じられないですよね」
「いえ、私は信じますよ。あなたの顔のことも、彼女のことも」
 神主はゆるく笑い、かごから2個目のミカンを取った。
「ここにまつられている氏神様は、よく実体化して私や氏子さんにちょっかい出すんですよ。たまに境内の掃除を手伝ってくれたりもしますが、たいていは他愛のないイタズラで」
「本当に神様だったのか……あいつ」
「あなたの場合はきっと、将来を案じての行動だったんでしょう。顔に大きな傷があると、それだけで世間の視線は変わってしまいますから」
「………………」
「でも今回は少し気になりますね。……実はここのところ、毎晩どこかに出かけているらしくて、呼んでも出てこないんですよ」
 それとなく神主から目をそらし、じわじわと心に攻め上る疑いを振り払おうとする。竜彦の正面に見えるのは壁に貼り付けられた凧、破魔矢、熊手。柱には「火の用心」の札が貼ってある。
「昨日もクリスマスパーティが終わったと思ったらいそいそと出て行きましたし」
「クリスマスって……宗教が違うんじゃ」
「他は知りませんが、うちでは毎年やってますよ。ここ日本でのクリスマスなんて、ただのお祭り騒ぎに過ぎませんから」
(そういう問題か……?)
 何にしても、くだらない話を気にかけている場合ではない。竜彦はより直接的な質問をした。
「それで、もしカミサマが芙美子を誘拐したんだったら……俺はどうすれば」
「ご安心下さい。こういう時のために、秘密兵器を用意しておりますので」
 神主は天使のような微笑みを浮かべた。


 白鷺が降り立ったのは、どこかの森の中だった。芙美子はおそるおそる白鷺の背中から降り、スリッパを履いた足で土の上に立った。月も出ていない夜、頼る明かりが1つもない中で、何故か白い鳥の姿だけははっきり見える。夢ならそんなことも起こる。
 こっちだよ。白鷺はそう言いたそうに一度だけ視線を向けてから、歩き始めた。当然、芙美子はそれを追いかけた。次第に目が暗さに慣れてきた。
 小さな建物が見えてきた。白鷺がひょいと跳ねて奥へ回り込む。
「待って……行かないでください!」
 芙美子は古びた木造の小屋を横目に、白鷺の後を辿った。
 角を曲がって、足が止まった。
 そこに白い鳥の姿はなく、建物の壁にもたれかかる袴姿の少年がじっとこちらを見ていた。向こうには石畳と灯籠、鳥居のシルエット。一目で現在の場所が分かった。
「どうしたの?急に怯えた顔して」
 芙美子が息を止めてしまったのを察したのか、少年は優しく声をかけながら近づいてきた。胸が締め付けられるような感じがするのは、彼の顔が竜彦によく似ているからだろうか。
「あ、そっか、いきなり僕が現れたから……怖がらせちゃったね。でも、大丈夫だよ」
 少年が微笑む。袖からわずかにはみ出しているのは人間の手ではなく、白い羽の先だった。鳥が人間に化身したのか、あるいは逆か――この際どっちでもいい。芙美子は思いきって、口を開いた。
「あなたは……一体、誰なんですか」
「僕?……えーと、僕はね……」
「見つけましたよ!」
 突然まばゆい光が2人を照らした。懐中電灯か何かを手にした誰かが、こちらへ近づいてくる。
「げっ、神主……逃げよう!」
「え?」
「いいから来て!」
 少年は素早く芙美子の背中に片手を回し、もう片方の手で両足をすくい上げて彼女を抱きかかえるとすぐに走り出した。鎮守の森の出口はすぐに見えてきた。


 その頃、竜彦は鳥居の前に1人たたずんでいた。神主にそこから離れるなと言われたからだったが、理由までは教えてもらえなかった。
 両手にはめた手袋を眺めていると、本殿の方が騒がしくなってきた。
「待ちなさい!」
 森の影に神主の声と丸い光が踊る。何かを手探りするような音が重なり合い、近づいてくる。竜彦はポケットに片手を突っ込み神主から預かった護符を引っ張り出すと、向かい合う狛犬の額に1枚ずつ貼り、鳥居との間に立った。
 御神木の影から飛び出してきたカミサマが、竜彦を見た途端に急ブレーキをかけた。腕に芙美子を抱え、後ろに追いついた神主も意識して吐き捨てる。
「ひどいよ……こんなの卑怯だ。結界張って、あいつの前通らなきゃ出られないようにするなんて……何がしたいんだよ!」
「他人様の娘さんを勝手に連れ去るなんてことしなければ、私もこんな手荒な真似は」
「お前なんかに何が分かる……バカ神主!」
 カミサマが地面を蹴り飛ばし、途中で一度片足を着いただけで参道を渡りきり竜彦の正面に向かってきた。
「竜彦くん、今です!」
 神主が叫びながら石畳を走ってくる。竜彦はさっきより少し大きい護符を取り出し、数歩下がって鳥居の真下に立った。

  ……臨……兵……
 
 狛犬の前を横切った瞬間、カミサマの身体が宙に浮いたまま静止する。

  ……闘……者……

 竜彦は助走をつけた。いつもの練習でそうしているように。

  ……皆……陣……

 2本立てた指先をきびきびと動かしながら、神主が唱える。

  ……烈……在……

 狛犬の手前で踏み切り、跳んだ。大事な試合でダンクシュートを決めに行く時のように。

  ……前。

 着地。
 竜彦の手にあった札は、カミサマの額の中央に貼り付けられていた。
 カミサマはそのまま、柔らかい羽根が舞い落ちるように、仰向けに倒れて動かなくなった。


 竜彦がダウンジャケットを肩にかけた時、芙美子はようやく全てが夢でなかったことを悟った。彼女の下敷きになってしまった少年――“カミサマ”は何か言いたそうにしているが、身体が動かないらしい。襟首を掴まれ引きずられていく彼が気になった芙美子は神主を呼び止め、額の札を剥がしてしまった。
『あっ……』
「……すみません。でも、ひとつだけ聞きたいことがあるんです。どうして、私をここへ連れてきたんですか?」
「確かに、それは聞いておく必要がありますね」
 神主は札を返してもらうと、それをすぐカミサマの背中に貼り付けようとした。しかし当のカミサマはそれをかわし、芙美子に言った。
「いきなりこんな事してゴメンね。だけどさ……君にどうしても、見せたいものがあったから」
 振り返って走り出し、本殿の裏に回ったカミサマを芙美子が追いかけると、竜彦と神主もついてきた。やがてそれぞれの目が、頭上に舞う雪のひとひらをとらえた。
 竜彦はそれを捕まえた。手のひらに包んでも溶けないそれは、雪ではなかった。
「……これだよ」
 3人の方へ向き直ったカミサマの背後に、1本の木が立っていた。
 純白の花が枝葉を覆い隠すほどに咲き乱れ、何千もの花びらがそれこそ雪のように降り注いでいる。
 芙美子は目を輝かせ、竜彦も思わず見とれていた。神主はカミサマが得意気に笑うのを見逃さず、近づいて耳元でささやいた。
「私はてっきり、あの子をお嫁さんとして連れて行ったものと思っていたんですが」
「それは無理だよ。ほら、見て」
 カミサマは寄り添う2人を小さく指差した。
「この1週間、ずっと通い詰めてたけど……芙美子がしてくれた話の半分は、竜彦のことだった。いくら僕が神様でも、それほどの想いを簡単に引き裂けるわけないよ」
「そうですか……それにしても、この花は一体どこから持ってきたんです」
「ヒミツ」
 神主に尋ねられてそう答えると、カミサマはどこかへ消えた。竜彦と芙美子は無事を確かめられたからか、美しい景色に出会えたからか、顔を見合わせて微笑んでいる。
(1日遅れのクリスマスプレゼントですか……掃除するのは私なんですけどねぇ)
 そんなことを思いながら、神主は目を細めた。