参  元日
 

 紅白歌合戦の勝敗を見届けた後、竜彦は「蛍の光」を待たずにテレビの電源を切った。そろそろ家を出ないと、約束の時間に間に合わない。
「お待たせ。さ、行きましょ」
 母親が玄関に顔を出した。父親は既に外へ出ている。親子3人で過ごした大晦日の締めくくりは、初詣までの道のりだった。
 どこかの家でパーティでもやっているのか、カウントダウン・コールが聞こえてくる。

 ……20……19……18……

 通い慣れた道を抜け、坂を下りていくにつれ、深夜の街でひときわ明るい一角に近づいていた。光に包まれる鎮守の杜。道路に沿って屋台が並ぶ。

 ……7……6……5……4……

 竜彦の両親がさっきの声を引き継ぎ数えている。

 ……3……2……1……

「あけましておめでとうございます。」
 鳥居の前で待っていた芙美子が、タイミングよく言った。
 竜彦は腕時計を確かめた。0時0分。待ち合わせには間に合った。
「おめでとう。……行こうか」
 くっついてきた互いの両親が挨拶から立ち話に移行する間に、2人は境内へ入った。竜彦はいつものダウンジャケットだが、芙美子は振り袖姿だった。歩き慣れない格好のせいか足元が危なっかしい。
 長い行列に並ぶ間は「今年」の展望を思いつくままに語り、「楽しい年になるといいね」と笑い合った。賽銭箱の手前で転びかけた芙美子を竜彦がどうにか支え、開かれた神棚を前に2人揃って手を合わせた。
「竜彦さんは何をお願いしました?」
「言ったら叶わなくなるって言わねぇ?」
「あ……そうでしたね」
 人の流れに沿って石段を下りると、社務所に掲げられた「おみくじ」の看板が目に入った。それぞれが100円を払って、1回ずつ引いた。
「見てください竜彦さん、大吉でした!」
「よかったな。俺は……末吉か。悪くはないけど……」
 恋愛は吉。だが「思いがけぬ災難」に見舞われるという。その辺だけ外れて欲しい、と軽く願いながら竜彦はおみくじを折りたたみ、社務所の脇に張られた綱に結びつけた。その間に芙美子は自分のおみくじをポシェットにしまい、代わりにビニールコーティングされたしおりを取り出した。
「……押し花?」
「はい。この前カミサマから頂いたお花で作ってみたんです。どうぞ」
「もらっていいの?」
「もちろんです」
 咲き乱れる花には雪のような冷たい印象があった。しかし手に取ったしおりの中で、乾いた花びらはむしろ暖かさを感じさせた。


 その頃、拝殿の中では新年の儀式が行われていた。
 だがそれは見せかけだった。テープに録音した祝詞(のりと)が流れる中、本殿を前にした神主は全く違う言葉で神棚に呼びかけていた。
「どうかもう少し、もう少しでいいんで、大人しくしててもらえませんか」
『自分の家の氏神を封印しといてその言い方はないだろ、このエセ神主!』
 護符を張り巡らされた神棚から聞こえる声もまた、参拝客には届かない。
「誰がエセですって?」
『君ほど鈍い上に邪道しか行かない神主なんていないってことだよ』
「邪道はともかく、鈍いってどういう事です」
『……じゃあ訊くけど、何で今こんな風に僕を封じ込めてるわけ?』
「そんなの決まってるじゃないですか。今ここであなたを野放しにすれば、ほぼ間違いなく竜彦くん達にちょっかい出しに行くでしょうから」
『そこまで分かってるのに気づいてないの!?』
「何がですか」
『竜彦だよ! ……本当にどうしてこんなのが神主継げたんだろう……』
「分かりました、もうすぐテープ終わりますから、それまではここでお役目を果たしてて下さいよ」
 テープの音、小銭の音、鈴の音にかき消され、2人の声は誰にも聞こえない。


 竜彦と芙美子は「去年」になってしまった先週を回想しながら、花のついていた木を探して境内の奥へ足を踏み入れた。着いてみると既に散り尽くした後だったが、そこかしこに白い花びらが落ちていた。
「……そう言えば、この辺って明かりとか全然無いよな」
「ええ。空も曇ってますし」
「じゃあ何で俺たち、ここがあのときの場所だって分かったんだろう」
「それは、ここに花が……」
 足元を見ると、真っ暗な地面の上に花びらだけが白く浮き上がっている。
「……竜彦さん。もしかして……この花、光ってます?」
「やっぱりそう思った?」
 竜彦はさっきもらったしおりの表を芙美子に見せた。それもまた、花の形に白く切り取られていた。
 そこへ足音が近づいてきた。
「なんにも教えてないのに、2人ともよくそこまで分かったね」
「カミサマ……」
「それに神主さん……どうかなさいました?」
 現れたカミサマはこれまでとは違い、いつになく深刻な表情だった。しかも後ろには神主の他に、薄桃色の衣を着た2人の女性が控えていた。
「いきなりで悪いんだけど、ちょっと席を外しててもらえるかな」
 まず芙美子が指差された。すると女性達が進み出て芙美子の手を取り、彼女をどこかへ連れて行った。竜彦が心配そうに見送る傍らで、神主が補足した。
「大丈夫ですよ。あれは氏神様に仕えている精霊ですから」
「……で、俺に何の用?」
「とっても大事な話があるんだ」
 カミサマは懐から、木で出来た短い棒状の物を取り出した。その両端に手を掛け横に引き延ばすと、白銀の短刀が鞘から引き抜かれた。
「まず1つ訊くよ。君は最近変な夢とか怖い夢を見なかった?」
「……見たけど」
「どんな夢?」
「顔を……掴まれる夢」
「その事なんだけど、僕は君に謝らなきゃいけない。実は君の顔のことで、僕は一番大事なことをまだ話してなかったんだ」
 刀を持ったまま歩み寄ったカミサマは鞘を竜彦に持たせ、空いた手で彼の顔に触れた。
「君は大やけどを負って、深い傷跡が残った。それを見た僕は君の将来を心配して、僕の顔を君にあげた。そこまではこの前にも話したと思うけど、覚えてるよね?」
 竜彦は小さくうなずいた。
「よかった。……そしてここからが本題なんだけど……その、やけどのこと。君のお母さんは多分、軽い事故だったって言うようなことを君に話してくれたと思う。でも本当は違う。本当は、君に怪我を負わせたのは……鬼なんだ」
「……鬼!?」
 言ったのは竜彦ではなく神主だった。カミサマは呆れた視線をわずかな間だけ神主に向けてから、声も出ない様子の竜彦に対して話を続けた。
「昔、そう、君が小さい頃、この辺に住んでた鬼が、君を捕まえて食べようとしたことがあってね。大きな手で君の顔を掴んで、身体ごと持ち上げて、もう少しで口の中ってところで僕が止めに入ったんだ」
 刃先の光が2人の間で揺れ動く。
「これで鬼の手首を切り落として、君を助け出したまではよかったんだけど……鬼って、ほら、執念の塊みたいなところがあるからね。手の跡が後で君の顔に浮かび上がってきて、それがやけどに見えたんだ。だからすごく心配になったんだ」
「それを目印に鬼が戻ってくるかもしれないって事ですか?」
「エセ神主は黙っててよ。……でも正解。だから君の顔を僕の顔の下に隠したんだ。けどさ……もう、その方法も限界が近いみたいで……その、鬼が、すぐ近くまで来てるらしいんだよ」
 カミサマはためらうような顔から無理矢理笑顔を作り、短刀を竜彦の頬に添えた。
「君の顔が剥がれかかったのも、鬼の手形が本体の“気”と共鳴したせいだ。今ここで封印を解けば、呼び合う力はもっと強くなる。……竜彦、目を閉じて」
「……まさか、竜彦くんをおとりにして……!?」
「その通りだよ、邪道神主」
 またも冷たい目でにらまれ、神主は仕方なく後退した。カミサマはすぐに向き直った。
「ゴメンね、竜彦。いつかはそうするつもりだった。君が大人になって、鬼の恐怖に耐えられる心の強さが備わるのを待ってたんだ」
 紙のように薄く鋭い感触が、痛みもなく頬をなぞる。
「……それにやっぱり、自分の陣地で戦った方が有利だからね」
 感触が離れた。
 竜彦は切り裂かれた頬にそっと手を当てた。熱もなければ痛みもない。はっきり脈打つものもない。仮面が内側から壊れかけたあの時と、全く同じように。
 森が騒ぎ出した。
 新しい年が始まったばかりの夜に、この冬で一番冷たいかもしれない風が押し寄せてくる。重なり合う枝の隙間がヒュウヒュウと鳴る。
 いや、それだけじゃない。何かを感じる――
 閉じていた目を開いた竜彦は、短い髪がなびく方向、すなわち風下へ目を向けるとすぐに走り出した。


 神主は「ついて来るな」などと言われながらもカミサマを追いかける間、竜彦が鬼の居場所を察知したものとばかり思っていた。2人の足が神社の表側に向かっていることに気づいた時には、境内にいる人々の無事を心配した。
 しかし実際は、そのどちらも案じる必要はなかった。カミサマは森から出ないうちに足を止め、一歩分だけ横に飛んだのだ。
「……?」
 立ち止まり、首をかしげた神主に向かい風が襲いかかった。次の瞬間、背中から地面に倒れたこと、何かが自分の上にのしかかっていることに気づいた。
「いたた……あ、あなたは……」
 神主を下敷きにしていたのは、芙美子を連れて逃げたはずの精霊の1人だった。顔色が悪くぐったりとしているところから何かあったことはうかがえたが、このままでは自分が動けない。上半身を起こし、精霊をその辺の木の陰に寝かせると、再びカミサマを追いかけようとした。しかし一歩踏み出した直後、今度はもう1人の精霊の体当たりを浴びていた。
「………………」
 神主はそれ以上進むのをやめ、精霊達の看護に当たることにした。


 開けた場所に出たカミサマが目にしたのは、しりもちをついた芙美子と彼女をかばう竜彦、2人に覆い被さろうとする影だった。頭部の角を見るまでもなく正体は分かっている。
「来たか……」
 短刀を握りしめる。人間にとっては長い十数年も、神ともなればあっという間。鬼が右手をなくす前、確かな色と形を持っていたその姿をはっきりと覚えている。力が衰えたのか、黒い影と化した怪物を前に、動転する様子は一切見せなかった。
 一方で竜彦は完全に焦り顔だった。おそらく芙美子の叫び声を聞いて駆けつけ、予想外の展開に対処方法を見失っているのだろう。
「2人とも、怪我はない?」
 カミサマが呼びかけると、竜彦だけが声に反応してこちらを向いた。しかしうなずきはしなかった。しきりに動く目は芙美子の方に向けられている。
(何かあったの!? まさか……)
 駆け寄ると芙美子が足を押さえていた。一瞬、どきりとした。慌てて手をどかすと、すりむいた傷が現れた。
「大したことはなさそうだね。歩ける?」
「身体が……動きません……」
「大丈夫。動けるよ」
 カミサマは一度短刀を降ろし、芙美子の額に手を当てた。そして竜彦に目配せして、彼女を連れて下がるように頼んだ。幸い、竜彦は呪縛にかかっていないようだった。
「いい? 僕はこれから、あいつを倒す。そのためには君が、強くなくちゃいけないんだ」
「………………」
「何を見ても、何が起こっても、ひるんじゃいけない。いいね?」
「……分かった」
 同じ顔を持つ2人が、同じ場所にいる2人の手を取って立ち上がる。
 竜彦が芙美子の背中を支えながら、足早にそこから離れた。
 鬼が身体の向きを変えたことはすぐに分かった。爪のない腕を振り下ろしてくる前に、カミサマは助走なしに踏み切って跳んでいた。
「悪いけど……生きて帰すわけにはいかない」
 右手の切り口の上に片足をつき、もう一度宙に舞う。
「ゴメンね。」
 手首のスナップをきかせ、短刀を投げた。


 竜彦が振り返った時、矢のようにまっすぐ飛んだ刃がちょうど鬼の額に突き刺さるところだった。
 鬼の目が開いたように見えた。
 紅い光が、夢を染めた赤に重なる。

 暗闇の中から伸びてきた大きな手が、自分の顔に覆い被さる。
 そしてありったけの力を込めて顔を引きはがそうとする。
 そんな夢。
 そんな記憶。
 苦しみが、痛みが、現実のように蘇ってくる。

 何かが見えた。
 目を覆いたくなるような……

「……竜彦さん!」

 芙美子の声がした。
 竜彦は自分の顔を覆う手に気づき、引き離した。見えるのは赤ではなく、青。芙美子がくれた手袋だった。
(何を見ても、何が起こっても、ひるんじゃいけない)
 カミサマにさっき言われたばかりなのに、今、自分は、ひるんでいた。恐れていた。
 それでも、今は……救いの手が全くないわけじゃない。
「芙美子……」
 差し出された手を手で包み、強く握った。いつもより暖かいような気がした。


 ――――――――――――


 まず聞こえてきたのは、小鳥のさえずりだった。
 眩しい光が目に入ってきた。
「……あ、やっと起きた」
 光の中に誰かの影が映り、色を得た。
「覚えてる? 君、あのまま気絶したんだけど」
 カミサマがすぐ隣にしゃがみ込み、竜彦の顔をのぞき込んでいた。起き上がると、芙美子と神主の姿もあった。天井の模様には見覚えがある。多分、ここは社務所だ。
「……終わったんだ?」
「もちろん。君が何とか耐えてくれたから」
「………………」
 竜彦は顔に手を当てた。カミサマはいたずらっぽく笑い、人差し指で自分の頬を指差してみせた。
「顔なら直ってるよ。大丈夫」
「え?」
「隠してた傷も消えたみたいなんだけど……ほら、今更顔が変わっちゃっても、ねぇ? だから、僕が切ったところだけ元に戻しといたから」
「外を見てください。初日の出ですよ」
 はしゃぐ芙美子に連れられて、光の差す方へ膝で歩いた。
 窓の外が明るい。
 晴れ渡る空に、飛び立つ鳥の影が重なる。
「いい年になるといいですね」
 神主が口を挟んだ。竜彦と芙美子は顔を見合わせた。
「そうだね」
「そうですね」
 2人は同時に口を開いていた。一瞬の間を置いてから、声を上げて笑った。


 ――完。

 

     あとがき