第8話 〜魔笛〜


 指揮者役の生徒がボールペンを頭上にかざした瞬間、教室は即席の舞台に変わった。
 後方から机が片づけられ、空いたスペースに並べられた椅子には楽器を構えた奏者達が座っている。彼らは時折楽譜に目をやりながら、それぞれのパートを演奏することに集中する。全ての音が合わさると、それは誰もが知っている曲のメロディーになっていた。
 時は放課後。帰ろうとした子供達が足を止め、吹奏楽部1年による小さな演奏会の聴衆となった。
 最後の1音が途絶える頃になると、どこからともなく拍手が起こった。奏者の1人は照れながら「これは練習だから」などと言っているが、彼らは数日後に他校との合同発表会を控えており、練習といってもほとんど「仕上げ」である。
 しばらくすると大部分の人が手を止めたが、拍手の音はまだ小さく聞こえていた。
  ぱちぱちぱち……
「もういいんだよ」
 窓際に立っていたティオが鞄を軽く叩くと、やっと音が止まった。
「みゅ? もういいの?」
 中でチェリーが子供たちの真似をして手を叩いていたのだった。拍手の意味をあまり理解していないせいか、適当なところでやめるものだということも分かっていない。
「ブラボー!! いやぁ、良かった!感動したっ!」
 金色の巻き毛が特徴の少年、ジーノが堂々と教卓の上に座り、他の人より1段高い特等席で演奏を楽しんでいた。練習しているメンバーの中に彼の友達がいるため、その人を名指しで特にほめている。彼の周りでは取り巻きが周囲を睨んでいる。
 多少の不公平さを感じても、他の子供たちは目をつぶるしかない。下手に何か言えば、次の日から学校に来られなくなるかもしれない。ジーノはそんな存在だった。
 そのジーノがティオの方を向き、賛辞を投げかけた。
「君もいい友達を持ったねぇ、こんな上手に笛吹ける人ってなかなかいないよ」
 フルートを手に持ったレイが、指揮者と何か話している。その様子を眺めるティオはジーノの話を聞いてはいたが、反応は返さなかった。
 そういうことは本人に言ってやれよ。心の中でつぶやく。
「ところでさぁ、ティオ君、この前からずーっと気になってたんだけど……前から指に包帯巻いてるよねぇ。そんなにひどい怪我なのぉ?」
 反射的にティオは右手を隠した。包帯の中には外れない指輪があるのだ。
「もう何週間もそんなだし、そろそろ治ってるんじゃない? どんな怪我なんだよ、見せて」
「………………」
「ダメ? あ、分かった、違うんだ。中に何か隠してるんだろぉ」
 取り巻きの1人、バートがティオに詰め寄る。右腕を引きずり出して包帯をはがすつもりらしい。
(まずい、ここでバレたら今までの努力が……いやそれより何言われるか分からないし……)
「やめた方がいいよ」
 第三者の声が、腕の引っ張り合いを止めた。
「邪魔するなよ、赤毛には関係ないだろ」
 ジーノが怒り出すが、レイは全く動じない。それどころかわずかに笑いながらこう言った。
「僕、事情知ってるけど、教えてあげようか?」
「本当かい!?」
「その方が君のためにもなるし。そう、あれは……確か最初に怪物が襲ってきた日……」
「……!!」
「ああ、あの時ね。怪しいとは思ってたけど、それで?」
 本当のことを話すのかと焦るティオの横で、興味津々(しんしん)のジーノは話の続きをせがんだ。
「あの時ティオは指に切り傷を作ったんだ。最初はなんともなかったんだけど、なかなか治らないみたいで。変だなと思って包帯をほどいてみると……治るどころか色が変わってたんだ」
 全員が息を呑む。いつの間にか他の人も話に聞き入っていた。
「……ど、どんな風に?」
「そうだな……ホラー映画のゾンビみたいな感じかな。僕が見せてもらったときには傷口がふくれてて、何か刺さったら破裂して中の膿が飛び散りそうで。怖くて触れなかった」
「うわぁ〜、ちょっと怖いけど見てみたいなぁ」
 ジーノは目を輝かせている。しかし、
「……それ、触ったら伝染(うつ)る?」
 思いがけないところから来た言葉が彼を凍りつかせた。
 声の主は教室の入口近くに立っている少女、ソフィアだった。長い髪が顔にかかっても気にしていない様子だ。彼女はもともと無口で足音もほとんど立てないので、そこにいることに今まで誰も気づいていなかった。
「…………伝染?」
 誰もが、ゾンビ化した自分を想像しているのだろう。表情が硬い。
「そんなの……もちろん、嘘ですよね……?」
 教室の隅でトランペットを抱える小柄な少年、トムがおそるおそる聞いた。ティオは少し考えた後、
「そうだ。どうせならジーノ、君の手で試してみる?」
「結構です。」
 ジーノは即答し、1秒後には回れ右をして教室を出ていってしまった。
 その場がしばらく沈黙に包まれたが、指揮者の一声でやっと練習に戻った。
 ソフィアは大きな瞳で当事者をじっと見つめていた。もちろん今の話は冗談だと受け止めている。彼女は包帯の中に隠された「何か」より、ティオに嘘をつかせる「何か」が気になっていた。


 同僚の部屋の前で、ダイアナはなぜか緊張の面持ちで立っていた。
(どうして私がこんな変人のところに来なきゃいけないのよ……)
 服装と性格、そして行動の間にある大きな差。彼女に言わせれば、クリスは「変」以外の何者でもない。しかも、何か重大なことを隠していると見える。
 震える手で部屋の扉をノックしたが反応はなかった。よく見ると、扉に鍵がかかっていない。
「不用心ね……入るわよ」
 実はダイアナも人のことは言えないのだが、本人はそれを忘れている。
 中には誰もいなかった。テーブルの上にはここへ来た目的、修理を終えたモニターが置いてあった。
「誰もいないのー? これ直ってるなら勝手に持ってくわよ」
 返事はなかった。
 ダイアナは部屋の中を見回した。あるのは木製のデスクと高そうな安楽椅子、なにやら難しそうな本の山。そして、壁に飾られた無数の蝶の標本。デスクの上に1つだけ空のケースがあることに気づき、彼女はそれを手に取った。
“揚羽蝶(Swallowtail)”
 ケースの下部に貼られたラベルに、そう書かれていた。


 部員達は学校でも家でも懸命に練習を積み重ね、発表会当日の朝を迎えた。開演は昼過ぎだが、リハーサルがあるので集合時間は早い。
 レイは母親に見送られ、家を後にした。必要な物は全て持った。大事なフルート。本番用の黒い衣装。楽譜。出発直前に受け取った、昼食のサンドイッチ。ぴかぴかに磨かれた黒い革靴。スニーカーでは壇上に立てないことになっているのだ。
 自宅のあるマンションから一歩一歩遠ざかるたびに、不安と緊張が増す。
 初めての舞台。
 大勢の人の前で失敗なんてしたくないけど、やってしまうかもしれない。普段友達の前で練習するのは平気なのに、発表会となるとやっぱり違う。その身にかかるプレッシャーは計り知れない。
(……いや、考えすぎだ)
 レイは首を振って、自分の中に潜むマイナス思考を追い払おうとした。
 間違えたってしょうがない。勝ち負けを決めるわけでもないし、新人に完璧を求める人なんてほとんどいない。心を込めれば、それでいい。大丈夫。きっとみんな応援してくれる。
 電車は時刻通りに来た。レイは荷物を持ち直すと、目の前で止まった車両に乗り込んだ。


 「やぁ、奇遇だねぇ」
 数時間後、開場直前の時間に電車を降りたティオは、駅の改札口でジーノに会った。もちろん彼の友人も勢ぞろいしている。どうやら、彼らは同じ電車の違う車両にいたようだ。
「どうせ目的地は同じだろ? 一緒に行こうよぉ」
 たとえ出演者に知り合いがいなくても、音楽好きなジーノは絶対に来るとは思っていた。でもまさかこんな所で会って、しかも「一緒に行こう」だなんて。ティオは笑顔の裏に隠された企みを疑わずにはいられなかった。
「とにかく、行こう? 時間ないから」
 駅前の大通りに目をやると、進行方向の信号が青に変わっていた。
 バートの太い腕がティオの背後に伸び、首根っこをつかむ。そのまま引きずりながら、ジーノ達は看板の指示通りに会場を目指した。道中で魔物が出てこなかったのは幸運でも不運でもあった。ティオの隠し事は1つも見つからずに済んだが、そのかわり会場のコンサートホールに着くまで、この集団から逃げられなかったのだ。
 建物に入ると、ティオはすぐにバートの手を振り切って人ごみに紛れた。ジーノ達が1階自由席の一角を占領したことを確認し、2階席へ続く階段を探す。
 ホールの右手、扉と壁で隔てられた空間は喫煙所を兼ねた休憩スペースで、いくつもの椅子と低めのテーブルが並べられている。片隅には軽食と飲み物を置いた売店があるが、そこに用はない。
「あれかな?」
 ティオは壁に階段のマークと矢印が貼られているのを見つけ、それをたどろうとして足を止めた。
 椅子の1つに人が座り、ガラス張りの外壁の向こうを眺めている。昔話の笛吹き男を思わせる格好をしていて、傍らには銀色に輝くフルートが置かれていた。
(何かのイベントかな……)
 不意にティオは右手を引っ張られ、コートのポケットから顔を出しているチェリーが何かを訴えようとしていることに気がついた。わずかにゆがんだ顔で笛吹きを指している。
「チェリー……どうしたの?」
「こわい……」
「……え?」
 ティオは周りに知り合いがいないことを確かめ、中指の付け根から先端までを覆う包帯を一気にほどいた。姿を見せた指輪は光って見えたが、その色は薄墨を混ぜたように暗い。試しに2、3歩笛吹きに近づいてみると、さらに黒さが増した。
 考えてみれば、普通の人の目から見ても怪しい格好だ。それに、ただの目立ちたがりとは思えない奇妙な雰囲気を持っている。


 荷物を並べて座席を確保したジーノ達は、逃げ出したティオを捜して廊下へ出た。ほとんどの人が席について開演を待っているので、入り口付近は閑散としている。
 程なく探していた獲物が怪しい男と対峙しているのを見つけたジーノは、一歩下がってゴミ箱の陰に隠れようとした。
「よぉし、これからあいつをびっくりさせて……」
   ドサッ!!
 嬉しそうに何か言おうとしたジーノは何かにつまずき、派手に転んだ。床にぶつけて赤くなった鼻をさすりながら起きあがり、足に絡みついたものを見る。
 それは黒いブーツを履いた足。
 見上げると、ソフィアが壁にもたれかかるようにして立っていた。
「お前ぇ、なんてことしてくれたんだ…………うっ」
 次の瞬間、ジーノは上着の下に隠れたネクタイを掴まれた。
「放せ! お前には関係ないだろぉ!?」
 自分の意志と関係なくどんどん締められるネクタイを押さえながら、ジーノは必死に抵抗した。何故か標的(ティオ)のいる方向に歩こうとしたときに、一番強く引っ張られるような気がする。
「余計なこと……するなよっ……うぐぐ……僕の邪魔、するなんて……許せ……ない……」
 うめきながら抵抗を続けるジーノ。しかしソフィアと目があった瞬間、鋭い眼光に射すくめられ、逃げようとする気持ちは一気に蒸発してしまった。恐ろしさのあまり怒鳴る事もできない。
「えーと……あいつに、手を出すな……ってーことですか、ソフィア様?」
 震える両手をあげて降参の意志を示すと、ようやくネクタイを持つ手がゆるんだ。
「あれ、みんな、こんな所で何やってるんだよ? もうすぐ始まるのに」
 そこへレイがやってきた。今まで黙っていた取り巻きの1人が思い出したように言った。
「別に俺達のことは気にしないで、それよりレイは? もう始まるんだろ?」
「僕の出番は最初じゃないから、まだ時間があるんだ。それに、もしかしたら出られないかも」
「え?」
「それが、実は……僕のフルートが盗まれたんだ」
 レイ本人を除いた全員が顔を見合わせた。
「一瞬だけ目を離した隙になくなってて……楽屋裏を怪しい格好の人がうろついてたって聞いたから探してるんだけど、見なかった?」
「そうかぁ……分かった、このジーノ様に任せなさい。必ず取り返してみせましょう!」
「……本当に?」
 言うんじゃなかった。レイは疑いの視線を向けながらそう思った。深刻な一大事も、ソフィアから解放されたジーノにかかれば刑事ドラマのごっこ遊びになってしまうらしい。彼の仲間達もまた、滅多に起こらない状況を楽しんでいる様子だ。
 そこへ、静かで澄んだ音色が聞こえてきた。


 幕が上がるのを心待ちにしている聴衆が、別の方角から聞こえる音に気づいたのは開演3分前のことだった。舞台袖に並んで待機している子供達は誰も楽器を動かしていない。彼らもまた、聞いたことのないメロディーに戸惑いを見せていた。
 単調でゆっくりした曲は、どうやら睡魔を呼び寄せるものであったらしい。客もスタッフも眠気に耐えられず、1人、また1人目を閉じていった。ホールの外でも同じで、ある者は廊下に倒れ、またある者は階段の手すりに手をかけたまま眠っている。
「………………」
 笛吹き男は目を閉じ、絵に描いたような姿勢でフルートを吹いていた。
 ティオとチェリーは最初何が起こったか分からなかったが、売店の店員がカウンターの向こうで倒れて動かなくなったことで、ようやく普通の音ではないことに気づいた。しかし、もう遅かった。
(……何だよ、これ……)
 どれほど強く耳を押さえても、音は容赦なくティオの頭の中に入り込んでくる。
 まぶたが重くなる。手足の力が抜けていく。
 ポケットの中のチェリーをかばうような姿勢で床に崩れ落ち、うめき声がかすかな寝息に変わるまで、大して時間はかからなかった。ただ完全に目を閉じる直前の一瞬、ティオは男の背後に忍び寄る影を確かに見た。
「………………」
 緑色の瞳に、あっけなく倒れる標的の姿が映る。
 男はフルートから口を離すと、睡魔の呪縛にとらわれた子供に歩み寄った。目的の妖精もまた眠りにつき、目と鼻の先で無防備な姿をさらしている。
 直後、その片足に何かが絡みついた。
 上半身だけが歩くスピードを保ったため、前に傾いて無様な格好で倒れた。片手からフルートをもぎ取られるのに気づいて初めて、男は自分が「転ばされた」ことを知った。
 黒髪の少女が標的を蹴飛ばし、遠ざかるのが見える。男は起き上がって少女を追った。
 待て。
 叫びは言葉にならなかった。彼は声を持っていなかったのだ。


 舞台裏でトムが目を覚ましたとき、前後左右の友達は皆眠っていた。音の正体が気になった彼はトランペットを持ったまま、忍び足で列を抜け出した。
 売店の前で、ティオが床にうつぶせになって倒れていた。その体をガラス越しに陽光が照らしている。
「どうしたんですか、こんなところで……起きて下さ───い!」
 トムは必死になってティオの肩を揺らした。みんなが眠っている、この異常事態が恐ろしくてたまらない。1人でもいいから、誰か一緒にいてほしい。その思いが揺さぶる力を強めたが、効果はなかった。
「ダメです……この人一度寝ついたら起きないんでした……」
 相手が寝坊と遅刻の常習犯では仕方ない。トムはあたりを見回し、他に眠っている人を見つけたが、彼らも目覚めそうになかった。
(どうしましょう……そうだ!)
 手に持った金属の筒を思い出し、トムは演奏と同じ構えを取った。そして音が出ていく先端部分をティオに向け──最大の音量で吹き鳴らした。
 わずかに遅れて、手に軽い衝撃が伝わった。
「いってー……いきなり何だよ……」
 音に驚いて跳ね起きたティオは片手で耳を、もう一方で額を押さえている。どうやらトランペットに頭をぶつけたようだ。
「とにかく大変なんです!」 トムは早口で状況を説明した。 「皆さん眠ってて……」
 ティオは立ち上がり、コートに付いたほこりを払うと、あたりを見回した。
「分かった。僕はやることがあるから、トムはいったん戻ってみんなを起こしてきてよ。放っておいても発表会は始まらないし」
 指示を受けたトムは来た道を引き返し、その姿はすぐに見えなくなった。少しして、その場に残されたティオの目に、妙な光景が飛び込んできた。
「……ん? あれ……何だろう……?」
 外壁のガラスの向こうで、少女が長い黒髪をなびかせて踊っている。よく見るとそれはソフィアで、しかもただくるくると回っているのではなく、飛びかかってくる笛吹きを踊るような仕草でかわしていた。その手に握られたフルートの争奪戦。どうやらティオはそれに参戦しなくてはいけないらしい。
「よし。行こう、チェリー」
 ティオは床に転がっていたチェリーを拾い上げ、ホールの外へ出た。トムのおかげではっきりと目が覚めたので、「何をするべきか」はすぐに分かった。
 笛吹きはフルートを奪い返した勢いでソフィアを近くの噴水に放り込み、演奏の姿勢を取った。同じ事をもう一度繰り返すつもりらしい。
(もうその手には乗らないよ)
 曲の最初の1音を出そうとする笛吹きの横で、噴水から這い出てきたソフィアがぐったりしている。2人とも、右手を前に出して構えたティオのことは見ていないようだ。
<サイレンス!>
 指輪を包む七色の光が周囲に飛び散り、2人をドーム状に取り囲んだ。
 奏者がいくら息を吹き込んでも、指を動かしても、「静寂(サイレンス)」という言葉通り音は全て光の壁に吸い込まれて消えてしまう。
(良かった、うまくいって……)
 動きを封じられる危険はなくなった。あとは魔法の効果が切れる前に、攻撃手段を失った奏者を倒すだけ。
 ティオは笛吹きを見据えた。
 何もできなくなった刺客は驚いて後ずさりしたが、その後ろにはもう1人の厄介な「敵」がいた。
「………………」
 もう許さない。
 ソフィアの視線がそう告げた。水をたっぷり含んだ黒髪が顔の前にかぶさると、どこかの映画に出てきた怨霊にも見える。彼女は白い両手を迷わず笛吹きの両脇に通し、羽交い締めにして相手を一歩も動けなくした。
「これは返してもらうよ」
 フルートがティオの手に渡ったことを確かめると、ソフィアはすかさず振り返り、笛吹きを噴水の中に沈めた。
 しばらくは顔の近くからぶくぶくと泡が立っていたが、その内に体が水に溶け始めた。
「…………?」
 2人の前で、刺客の姿は完全に見えなくなった。以前の刺客とは違い、メダルさえ見当たらない。
「ティオ! 大丈夫だった!?」
 そこへホールの中からレイが走ってきた。トムから外にいると聞いて来たのだろう。しばらく立ち止まって息を整えると、顔を見合わせる2人に言った。
「みんな起きたし、もうすぐ始まるよ。だから中へ入って……あれ?」
 ソフィアがわざとらしくティオの手からフルートをもぎ取った。それに気づいたレイは、差し出された笛を見て驚きの声をあげた。
「これ……僕のだ! ティオ、取り返してくれたの?」
「ああ、うん……そう……さっき、ね……」
(ほとんどソフィアの手柄だけど……)
 嬉しそうな顔を見せたレイは大急ぎで建物の中に戻った。もう最初の演奏が始まっていることだろう。
(それにあのフルート……泥棒が口つけて吹いてたって、言った方が良かったかな……?)
 知らぬが仏。張り切る気持ちに水を差すのもどうかと思い、ティオは黙っていることにした。彼の隣でレイを見送ったソフィアは何も言わず、両耳に手を当てた。耳に指をかけ、何かを引き出す。
(……耳栓?)
 人を眠りに導くはずの魔笛が、ゴム製の黒い耳栓一つに勝てなかったらしい。ティオはしばらくあきれて何も言えなかったが、ようやく口を開いた。
「さっきは手伝ってくれてありがとう。僕達も戻ろうか」
 ソフィアは小さくうなずいた。


 次の演奏曲目を伝えるアナウンスが聞こえた。幕の上がった舞台は、数十個のライトに四方から照らされている。
 レイは深呼吸をして、気持ちを落ち着けようとした。手には戻ってきたフルートが握られている。練習の成果を見せるとき。嫌でも緊張が高まる。
「さあ、行きましょう」
 先生の合図で器楽部員達は歩き出した。ライトのまぶしい舞台に彼らが姿を見せたとき、場内は拍手に包まれた。手前の席では、ジーノ達がひときわ大きな拍手と声援を送っている。
「………………」
 場内に響く序曲(プレリュード)が、皮肉にも騒動の終結を知らせている。
 ソフィアは水中に消えた男の正体について考えていた。隣で友人の演奏に聴き入っているティオは今回のような事態に慣れているらしく、明らかに冷静だった。どうやら、もう少し様子を見る必要がありそうだ。
 彼女は詳しい話を知らなかったが、そのティオでさえ知らないことが多い。敵の正体。目的。指輪の謎。チェリーに隠された能力。
 全てが解き明かされる日は、まだ遠い。


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