第13話 〜疾走〜


 その日の授業は平和に始まった。教室には30人以上の生徒がいるが、その辺を漂ったり後ろで絵本を眺めたりしている妖精チェリーを、いちいち気にして振り返る者はいない。先生の視界に入っていれば安全だということが分かっているから、妖精の保護者であるティオも何も言わなかった。授業を妨害しなければそれでいいのだ。
 体育の時間も、チェリーは花壇の隅で「白雪姫」を読んでいた。といっても彼女はまだ字が分からないから、授業を見学しているベルに読んでもらっている。
 2人の前をクラスメート達が走り回る。彼らは校庭を2分割し、4チームに分かれてサッカーに興じていた。
「お前なんかに渡すか!」
 ジーノは他を圧倒する大声と勢いで敵チームをひるませながら、練習の成果である技術を惜しみなく披露していた。黒いジャージの上に被せたゼッケン「1」が目立つ。彼は隙あらばボールを奪おうとする人達を引き離し、ゴールまで一直線にドリブルを続けた。
 適当な距離まで近づくと、ジーノは走る速度を落として力強くボールを蹴った。
「入った!」
 上手くいったことを確信してガッツポーズを出すジーノ。しかし、
「残念」
 目の前に立ちふさがったレイに、あっさりボールを掴まれてしまった。
「何で手ぇ出すんだよぉっ!」
「ゴールキーパーだから」
 レイは正直にそう答えると、地団駄を踏むジーノを無視してボールをフィールドの中央に投げた。すかさず駆けつけたティオが頭で受け取り、近くにいたソフィアにパスを送る。
「待てっ!」
 そう言われて素直に待つ人は少ない。ソフィアが蹴ったボールは進路妨害を試みたバートの股下をくぐり抜け、緩やかなカーブを描いてゴールへ吸い込まれていった。
 両チームの選手が、思わず拍手を送る。
「悔しい……よし、今度こそ……えーいっ!」
 フィールドの中央に戻されたボールを、連敗中のジーノが勢いをつけて蹴り飛ばした。が、勢いがつきすぎ、ボールは塀を越えて外へ飛び出してしまった。
「場外ホームランだぁ……」
 皆が騒ぎ出した。そんな中、ベルだけは別の方角を見つめていた。誰かの視線を感じたのだ。


 満開のヒマワリの上に雪が積もる。普通の人なら驚いて言葉を失うところだが、ここの唯一の住人であるリゲルはこの光景を見慣れていた。
 以前よりさらにその数を増やした花はどれも造花ではない。咲き続ける花は彼にとって、過去の苦しみを思い起こさせるものだった。何度もつらい夢を見た。でも、ここを離れるわけにはいかない。
(……いつか、戻ってきてくれるよな……)
 机の上に置いた髪飾りにも、悲しくなるほど大切な思い出が詰まっている。リゲルはそこに懐かしい人の面影を見て、時々心の中で話しかけていた。今は一人きり。でもいつかきっと、幸せな日々を取り戻すことが出来る。そう信じるしかなかった。
 MDプレーヤーのような機械に手を伸ばし、イヤホンを装着してスイッチを入れた。子供の騒ぐ声がリアルタイムで届く。また何か事件が起こったようだ。


 「ゴメンね。あんまり可愛かったからつい、声かけて連れて来ちゃった」
 学校脇に止めてあった白いワゴン車が走り始めた。運転席のシートに腰を下ろしたクリスが、ハンドルを握ったまま平謝りしている。同乗する2人の部下は揃って絶句した。
 彼らの慕う"大佐"が、妖精を飼っている「守り人」の子供を連れ去る計画をまとめたのは少し前のこと。反撃の隙を与えないよう慎重に作戦を練り、後は実行に移すだけだった。しかし下校時刻を待ちつつ標的の動向を見張っていた矢先に、作戦の変更を余儀なくされる事態が起きた。
 様子を見に行くと言って車を降りた主犯格が、別の子供を連れ帰ってきたのだ。
「……今、エーディンから情報が転送されてきました。関係者だそうです」
「あら、それなら良かった。人質にとって妖精と交換でもする?」
 不幸にも目をつけられた赤毛の少年は、薬をかがされ助手席で眠っている。その後ろに座る細身の男が膝の上にノートパソコンを広げ、表示された文章を読みながらキーを叩いた。彼は以前裏切り者を仕留め損ねた「揚羽蝶の男」である。上司には黙っているが、彼は少年と面識があった。
「いつも思うんだが、そいつの情報は本当に正しいのか?」
 もう1人の部下、色黒でスキンヘッドの大男が首をかしげた。彼はずっとうつむいているが、それはそうしないと天井に頭をぶつけるからである。
「間違いと言える根拠もない。それよりどうする? そろそろ警察が動き始めているはずだ」
「決まってるじゃない。ほら、これ貸してあげるから学校に連絡して」
 色の白い方が、放り投げた携帯電話を受け取った。クリスは車を道路脇に寄せながら電話の内容を簡潔に指定し、ブレーキを踏んだ。
「ミディールはここで降りて。電話代に気をつけてね。あ、アトラスもよ、降りなさい」
 強制的に下車させられた2人の部下は用心深くあたりを見回し、命令通り路地裏に消えた。


 レイが消えた。
 体育の授業中に起きた突然の事件は、クラスはもちろん学校全体を震撼させた。
 折しも数分前、銀行強盗が拳銃を持ったまま逃走したという連絡が入ったばかりである。もしかしたらそいつに捕まったのかもしれない。不安がよぎる。応接室に詰めた捜査員と、授業の中断に合わせ事情聴取を受ける生徒達の間には奇妙な緊張感があった。
「ボール取りに行くって言って外に出て、ずっと帰ってこないからおかしいとは思ったんだ」
 路上に残されていたボールを抱えたジーノが、いつもほどの元気がない顔で話している。自分が原因の一つを作ってしまったのだから無理もない。
 ティオは沈黙を守っていた。親友の身に起きた一大事を前に、何もできそうにないのが悔しい。でもここは警察の管轄。子供が出しゃばったところで、一発殴られて叱られて、それで終わりだろう。
 不吉な予感はやがて、電話の呼び出し音として形を得た。
「犯人らしき人物から電話が来た……準備はいいか!」
 責任者が部下達に言い、受話器を取って何か言った。スピーカーから相手の返答が流れるやいなや、ティオはその場に凍りついた。わざわざ名乗らなくても正体が分かったのだ。
『子供は我々が預かっている。返して欲しかったら……』
(チェリーを渡せ……って言いたいのかな?)
 相手が相手だけに、目的は1つしかあり得ない。こちら側はさらに緊迫した空気に包まれているのと対照的に、"揚羽蝶の男"は電話口の向こうで笑っているようだった。
「金だな。いくら用意すればいい」
『その口調は警察か。どうせ貴様らのありがたがる金(カネ)などただの紙切れに過ぎない。いずれ何の役にも立たなくなる……そうだな、どうせなら……純金で用意してもらおうか』
 スピーカーの周囲でどよめきが聞こえた。相手をからかっているとも受け取れる注文は、「誘拐+脅迫電話=身代金目的」の構図を想像し作戦を練っていた人間達を混乱に陥らせていた。それでも電波を介した交渉はまだ続いている。
『無駄に会話を長引かせて、逆探知でもするつもりだろう? 面倒なことはしなくていい』
 男はその後に一言だけ付け加えて一方的に電話を切った。
 その一言、レイの居場所と思われる固有名詞を頭の中で繰り返しながら、ティオは部屋を飛び出した。相手の正体が分かった以上、自分が関わらないでいられるはずがない。チェリーを渡すわけにもいかないから、人質は力ずくで奪い返すことになるだろう。


 「それにしても、ホントにきれいな顔してるのねぇ」
 ワゴン車は高速道路に入った。制限速度などお構いなしに、前方の車を次々に追い抜いていく。
 クリスと名乗った運転手の言葉を、レイは全く聞いていない。視線は窓の外。飛ぶように過ぎていく見慣れない景色。今自分がどこを通ってどこへ向かっているのか、全く想像がつかない。
 彼は後部座席の2人が車を降りる直前に目を覚ましていた。窓越しに見覚えのある顔を目にしたときから、作戦の大体の構図は想像できた。敵の仲間は敵。つまり妖精をつけ狙う人達。自分は何かの駆け引きに利用される運命なのだろう。
「そんなに硬くならないでいいのよ、ほら、肩の力抜いて。ずっとそうしてると疲れるわよ?」
 クリスはそう言いながら手を伸ばし、カーラジオのスイッチを押した。車内に響く流行の曲が、場の空気に全く合わない。
 誘拐犯にしては気さくすぎるし、大佐という呼称とラフな格好の組み合わせにも違和感がある。レイは自分が流した冷や汗の感触をはっきり自覚した。
 前方にカーブが見えてきた。隣の運転手は、まるで恋人とデートを楽しんでいるかのような表情でハンドルを切った。
(連れ回されるのは我慢できる……でも、この人と一緒に死ぬのだけは絶対嫌だ……)
 永遠に続いているとも思える道。いつ終わるか分からない、逃亡の旅が続く。


 大通りへ飛び出したティオはチェリーを右手に掴み、取り柄の俊足で道路に沿った歩道を駆け抜けた。目指すのは学校から少し離れたところにある公園。犯人はきっとそこにいる。意味もなく名指しするとは思えない。
 息を切らして目的地に着くと、当然パトカーで移動した警察の方が早く来ていた。ティオは追い払われないよう木の陰に隠れ、右手の指輪に注目しながら少しずつ移動した。チェリーは肩にしがみついている。公園の西側から東側に移動するにつれ、はめ込まれた石の黒色が濃くなっていく。
 横目で大人の集団を見ると、彼らは電話を介して2回目の交渉をしていた。挑発されたのか、責任者の口調が荒い。
「……子供はそこにはいない。でも正直なのはいいことだ。ご褒美に1つ教えてやろう」
 警察にしか聞こえないはずの犯人の声が、前方から響いてくる。少し進むとそこには公園の管理施設があり、その陰に人影が見えた。足音を立てないように近づくと、予想通りの輪郭が見えてきた。
(見つけた、あいつだ。あいつが電話かけてる。……やっぱりクリスマスの時の……)
「後ろを見てみろ。……次に話すとき、貴様が生きていることを祈る」
 電話を切った男が深く息を吐き出す音は、後方の銃声にかき消された。ティオに振り返る余裕はなかった。目の前の誘拐犯は、既にこちらの存在に気づいていた。
「来たか。これでやっと『本当の交渉』に入れるな」
 ミディールは携帯電話をしまうと、ティオの方に向き直った。蝶の羽は見当たらない。
「妖精を渡してもらおう。そうすれば親友は返してやる。簡単なことだろう?」
 従えない要求だが、素直に「断る」とも言えない。ティオは右手に少しだけ力を込め、いつでも攻撃に入れる体勢を取りながら、レイは無事なのかと尋ねた。
「それはこちらの用事が済んでから言う」
 安否を知るくらい別にいいじゃないか。苛立ちが増す。他には誰もいない。障害物もない。少しくらい派手に暴れても、大した問題にはならないだろう。方針は決まった。
<ガストブレード!!>
 待っていてもらちがあかないので先制攻撃。そして反撃の手を封じた上で聞き出す。相手の強さは最初に会ったときから感じ取っていたが、こちらも指輪の力を応用する方法を心得ているから、自信を持って立ち向かえた。例えば空気の流れに加速をつけ、突風を作ってみる。
「本気を出してその程度か……やはり子供だな」
 ミディールは腰から抜いた剣で襲いかかる風を相殺した。しかしそれにはかなりの集中力を要したに違いない。自分に忍び寄る別の気配に全く気づかなかった。
   ガツッ
 手首に鈍い衝撃が走り、彼は思わず剣の柄を手放していた。すぐに拾い上げようと身をかがめた次の瞬間、今度は後頭部に何かが衝突する。
(1人かと思ったら……とんだ伏兵がいたな)
 こっそりティオの後をつけていたソフィアが、パトカーから持ち出したスパナで殴ったのだった。無表情のままミディールは剣を持ち直し、最初の一振りでスパナを2等分した。刃先の復路がソフィアの喉元をかすめる。しかし、彼女もまた動じなかった。


 一方、敵側の「伏兵」アトラスはライフル銃の最初の1発を空に放ち、警察がこちらに注目するのを見てから、一番偉そうにしている人物の脚を狙って銃口を向けた。
 破裂音。
 弾は標的をわずかにそれ、太もものあたりをかすって地面にめり込んだ。
「仲間というわけか……すぐに銃を捨てろ!」
 警官の叫び声は震えている。呼びかけただけで相手が動じるなんて、最初から考えていないだろう。
「邪魔者は始末しろと言われている。お前達の権威など、我々には関係ない」
 大男の不敵な笑みがはっきり見える。3度目の引き金を引いた瞬間、彼の背後を2人の子供が通り過ぎたが、誰も彼らに目を向ける余裕はなかった。


 「……ど、どこ行くんだよ……」
 ソフィアの後を追って走るティオ。公園を出ると、正面に黒塗りの高級車が止まっていた。ソフィアは後部座席の扉を開け、自分は助手席に乗り込んだ。
「乗って。置いてくよ」
 車の中からルークが顔を出す。
 ティオは何か言おうとしたが、中から漂う甘い香りに釣られたチェリーが車に入り込んでしまったので、仕方なく後部座席に座ってから聞いた。
「追いかけるって言っても、居場所なんてそう簡単に分かるわけないのに。どうするんだよ?」
「大丈夫、これはそういうときのために使うんだ」
 ルークはマントの中から取り出した物をティオに渡した。それは一見普通のコンパスだが、時計のような針が2本余計に付いていた。
「青い針はこれを持っている人が『目指している場所』を、赤い針は『身に迫る危険』を示しているんだ。白黒のは普通に南北を指すんだけどね。……ほら、止まった。こっちを目指せばいいんだ」
「それ貸して」
 ティオからコンパスを受け取ったソフィアは止まった針の方角を読みとると、運転手に指示を出した。走り出した車は幸いにも空いている道路を、滑るように走り始めた。


 同じ頃。追われているとは知らない誘拐犯の車は、ある地点の路肩で止まっていた。
「やっぱり、計画通り動いた方が良かったのかしら……」
 エンジンの残量を示すメーターが「E」を指したまま動かない。クリスのため息に、レイはわずかな反応も見せなかった。表面上は大人しく動かないでいるが、頭の中では逃げる手段を練っている。
(今ここで車を降りて逃げ出せば……足の速いティオならともかく、僕だったらどうだろう。逃げ切れるかな? この人の運動神経にもよるだろうし……)
 少なくとも、第三者の助けがすぐに来ないことは確かだった。車を移動させに来た作業員に助けを求めることはできそうだが、その前に誘拐犯の仲間が迎えに来るかもしれない。しかもここは高速道路。他の車が起こした事故に巻き込まれるなど、危険は多い。
 それでも逃げよう。意を決してシートベルトを外すと同時に、運転席でも動きがあった。
「よかったぁ、同じ事考えてたみたいね。早くここから逃げましょ、警察が来ないうちに」
「………………」
 クリスは助手席側のドアに回り込むと、レイの手を取って有無を言わさず車から引きずり出した。どこから取り出したのか白いリュックを背負っている。何の前触れも無しにレイが道路上をさかのぼって走り始めると、笑顔で追いかけてきた。
「やっぱり逃げるつもりだったのね、でもそうはさせない! さあおいで、アタシと一緒に……」
 誘拐犯はこの一言を言い切る前に人質を捕らえ、両腕で軽々と抱えて路肩の壁を前に立った。
「……墜ちるのよ」
 この後複数のドライバーが、側壁を乗り越えその向こうに姿を消す男を見たという。


 方角しか頼りにならないことの、何とつらいことか。ティオはそれを痛いほど実感していた。
 そう遠くへは行っていないと思い一般道を走っていた車の中で、ソフィアが所有する携帯電話が鳴った。相手はさっきの刺客。回線がつながった途端、見当違いもいいところだと笑い出した。
『何処に行ったか教えてやってもいいが、交渉に応じる気はあるか?』
 うっとうしいことになる前にと、ティオは自分から電話を切った。するとまた鳴った。
「今度は何だよ……」
『レイを捜してるんだって? いいこと教えてやるよ』
 聞こえてきた声が、頭の中で記憶と結びついた。リゲル。この急いでるときに。ティオは思わず冷たい言葉を返してしまったが、本人は機嫌を損ねる様子もなく話を続けた。
『どこでもいい、その辺の入口から高速道路に入って、とにかくまっすぐ進むんだ。そのうち路肩に白い車が止まってるのが見えるはずだから、そこで降ろしてもらえ。レイはその近くにいる』
「分かった……けど、何でそんなこと知ってるの?」
『そんなの簡単。俺もそこにいるからだよ』
 詳しく聞こうとした矢先に電話を切られ、それ以上の情報は得られなかった。お前のことなら何でも知ってる、そんな素振りを見せる男の言うことを、進んで信じようという気にはなれない。でも他に手掛かりはない。信じられなくても従うしかない──いつもと同じだ。
「高速道路に行ってください……だそうです」
 これじゃあリゲルに操られているようなもの?
 そう思いながらも、ティオは運転手に電話の内容を伝えて進路変更を頼んだ。


 自分の意思で飛び降りてから数時間。クリスは着地に使ったパラシュートを使ってレイの体を縛り、木の枝に吊して逃げられないようつなぎ止めていた。
「そろそろ来てもいい頃なんだけど……ここにいるって分かるかしら」
 風に流され、降り立ったのは陽の光がほとんど届かない森の中。手にした小型の通信機からSOSを出した時以来、仲間からの連絡は全くない。2人きりの空間に漂う異様な雰囲気をクリスは心地よいものとして、レイは不吉なものとして受け止めていた。
(何度見ても可愛い……妖精の実物は見たことないけど、どっちの方が可愛いかしら)
(どうして逃げることにこだわるんだろう? 状況から考えて、チェリーちゃんを狙ってるはずなのに)
 日が暮れかけているのは2人ともなんとなく分かった。学校を離れてからだいぶ時間が経っているし、さえずる鳥の種類がここに来た時と違う。近づいてくる夜。暗闇に対する恐怖に加え、双方が別の危険についての懸念を抱えている。
 沈黙を保つこと十数分。先に現実となったのは、クリスが抱いていた不安だった。
「見つけた! あれだ、間違いない!」
「あの声、どっかで聞いたような……まさか、まさか追いついちゃったの!?」
 森の奥から近づいてくる小さな明かり。そして声。暗雲まで引き連れて現れた影の正体に気づき、おびえたクリスは枝に絡めたロープを素早くほどくと、人質を抱えて逃げ出した。
「来てくれたんだ……ティオ、僕はここだ、助けて……うっ」
「いい子だから静かにしてちょうだい!」
 反対方向の上空を飛ぶ味方の姿を見つけたクリスは、叫ぼうとするレイの口をふさいだままその方角へ走り続けた。落ち合えるまでにそう時間はかからないだろう。
 しかし進むにつれ、予想外の障害が前方に見えてきた。
「自分から来てくれるとはありがたい。早速そいつを返してもらおうか」
 いつもの不敵な笑みを浮かべたリゲルは、黒い柄の大剣を背負っていた。その模様に見覚えがある。クリスは記憶を探り、やがて思い出した。かつての同僚ダイアナが、刺客に持たせたまま行方不明になったとわめいていた物の特徴とぴったり一致するのだ。
「……あら、人の物を横取りした泥棒さんに、返せなんて言われたくないわねぇ」
「そういう偉そうなこと言うのは、レイを解放してからにして欲しいんだけど」
 追いついたティオが後方から言葉を投げかけた。彼のすぐそばを浮遊する妖精をじっくり見る暇もなく、誘拐犯は防御策を求められた。とりあえず腕の中にいる人質を盾にしてみたが、
「そんなのでひるむと思う? ……アマーロ、作戦通りに攻撃開始!」
 ルークの一声で動き出した暗雲──いや、それはおびただしい数のカラスだった──が急降下してきたことで、即座に本能からレイを手放して逃げるよう命令が下った。
 白い足輪をつけたカラスが先陣を切り、くちばしで顔を突き通さんばかりの勢いで迫ってくる。
「分かった、分かったって、ちゃんと放してあげたじゃない!あっち行きなさいよ!」
「ああ、確かに放したね。でもまだ終わってないよ」
 カラスの猛攻を振り切ってほっとしたのもつかの間、ティオが目の前で攻撃の体勢を取っていた。右手に光る指輪の赤、それは炎系の攻撃が来ることの合図である。
「今すぐここから消えろ……それと、2度とレイに近づくな!」
 紅い輝きが増した。ひときわ強く光った瞬間、呪文が放たれた。
<ブレイズアロー!!>
 ティオの黒髪を熱風が揺らす。生き物のようにうごめく風の流れから無数の火花が生じ、炎の矢となってクリスに襲いかかった。
 紫色の羽で上空を飛んでいたエーディンの視点では、それは地上に降り注ぐ流星雨のようでもあった。主人の危機を察知しすぐに舞い降りる。当然のことながら彼女も炎の渦に巻き込まれ、2人分の悲鳴が辺り一帯の静寂をぶち壊した。


 日が沈んだ後の空を本物の暗雲が覆った。いつ雨が降り出してもおかしくない天気である。
「無事で良かった……怪我はない?」
 カラス達がロープを食いちぎったおかげでようやく動けるようになったレイは、黙ってうなずいた後動かなくなった。ティオが近づいて表情を伺うと、頬を伝う一筋の光が見えた。
「レイ……」
 そっと抱き寄せた。親友の胸にすがりつく少年の両目から、涙があふれ出して止まらない。何があったんだろう。なんとなく、聞けなかった。
 ルークは既にここを離れている。それは自分の「相棒」達の鳥目を気遣ったのと、高速道路の一番近い出口にいるソフィアの元へ報告に行くためだった。彼女の携帯電話を中継点に、無事の知らせが学校に届くはずである。
 気が済むまで泣いてもらった後、レイを連れて帰る途中でティオは思い出したように尋ねた。
「……そういえば、リゲルはどうしてここに?」
「俺? ああ、これを届けるつもりで、レイ、お前のことを捜してたんだ」
 リゲルはそう言って背中から剣を下ろし、外れかけた刀身を鞘に収め直してからレイに渡した。新たな持ち主の手に収まった剣は突然光り輝いたかと思うと、みるみる小さくなってボールペンほどの大きさになった。
「覚えてるか? 俺がお前と最初に会ったとき、敵が置いてった物だ。……あれからずっと考えてたんだけど、やっぱりこれはお前が持ってた方がいいと思う。俺はこんなの無くても充分戦えるし……今回のこともあったからな。身を守る手段の1つくらい、用意してても損はないだろ」
 持ち主や状況に合わせて形を変えるというその剣を、レイは受け取ることにした。またいつ敵が襲ってくるか分からないし、これがあれば自分もティオを手助けできるかもしれない。足手まといになっていないかと気にしていた彼にとって、この選択は当然のことだった。
「じゃあな。気をつけて帰れよ」
 ティオ達と反対方向に歩き始めたリゲルは、すぐ暗闇にとけ込んで消えてしまった。


 同じ頃。1キロほど離れた川にたどり着いたエーディンは何度も謝りながら、熱風の中から助け出したクリスを浅い流れの中に投げ込んだ。
「助かったぁ……もう少し来るのが遅れたら、アタシ燃え尽きてたかも」
「ご無事で何よりです。それより、大佐。将軍から伝言をお預かりしています」
「パパから? もう城から出るなとか、そんなのでしょ?」
 聞きたくなさそうな表情のクリスは、エーディンの背中の羽がしぼむようにして消えたのを確かめると、彼女にも水浴びを勧めた。忠実な部下は素直に応じ、まとわりついたすすを洗い流しながら言った。
「その通りです。妖精を手に入れるだけなら別の手段もあったと思うのですが……」
「現実逃避したくなったのよ、多分。エーディンなら知ってるでしょ。パパの正体。死んだなら死んだで、大人しくお墓に入ってればいいのに」
 クリスは合わせた両手ですくい上げた水を空高く放り、自分に浴びせた。子供のようにはしゃいでいるようにも、頭を冷やして気持ちを落ち着けているようにも見える。
「でも分かった、外出禁止令が出たならしょうがないわね。妖精に関しては今まで通り、指示だけ出すから動いて。それともう1つ」
「何でしょうか?」
「さっきのあの子はアタシのものにするから、妖精とは別件扱いで捕まえといて。……あ、もちろん研究材料としてよ。それならパパも怒らないでしょ?」
「………………」
 昔から彼の面倒を見てきたエーディンは何も言えなかった。生身の人間にこんなにも興味と執着心を示すのは、「生ける屍」を見て育ったからなのか。それとも……
 彼女の心配など露知らず、クリスは立ち上がって空をにらんだ。彼には彼なりの、強い意志があるようだった。


back  previous  next